戦国武将の生涯

仙石秀久の武将年表

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仙石秀久(せんごくひでひさ)は、小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)初代藩主を務めた戦国武将。安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、少年期より豊臣秀吉に仕えました。淡路平定に大きく貢献したことから、豊臣秀吉より淡路国(現在の兵庫県淡路島)50,000石、さらに讃岐国(現在の香川県)を与えられ、一国一城の主(あるじ)に出世したのです。
しかし、その翌年の九州征伐で転機が訪れます。仙石秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や十河存保(そごうまさやす/ながやす)など、四国勢約3,000人の兵を率いて島津軍のいる九州に向かうのですが、もともと四国勢とは敵対する関係であったため、結束が乏しく統率が上手く取れませんでした。
それに焦った仙石秀久は豊臣秀吉からの指示も無視して島津軍と交戦し、結局は大敗を喫して敗走。この失態に豊臣秀吉が激怒し、讃岐国を召し上げられ高野山追放の処分を受けてしまいます。そのあとは、再起を懸けて小田原征伐に参加。そこで武功を挙げたことにより、信濃国小諸50,000石を与えられ、大名に復帰したのです。 そして江戸時代に入ると江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と親交を深め、外様大名ながら例外的に重用されるようになりました。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1552年(天文21年) 1
美濃国(現在の岐阜県南部)の有力者・仙石久盛(せんごくひさもり)の四男として生まれる。四男であったため、家督を継ぐ可能性が低いことから、幼少期には越前国(現在の福井県北東部)の豪族・萩原国満(はぎわらくにみつ)の養子に出される。そのあと仙石久盛の息子達が次々と亡くなり、急遽仙石家に呼び戻されて家督を継ぐ。
1564年(永禄7年) 13
織田家に入り、豊臣隊の馬廻衆(うままわりしゅう)として、各地を転戦する。
1570年(永禄13年/
元亀元年)
19
姉川の戦い(あねがわのたたかい)に参戦。浅井方の山崎新平(やまざきしんぺい)を討ち取る。
1574年(天正2年) 23
豊臣秀吉から近江国野洲郡(現在の滋賀県野洲市)1,000石を与えられる。豊臣秀吉の家臣・野々村幸成(ののむらゆきなり)の娘・本陽院(ほんよういん)を正室に迎える。
1577年(天正5年) 26
豊臣秀吉の中国攻めに参戦。
1578年(天正6年) 27
中国攻めでの功績が認められ、4,000石を加増。三男・仙石忠政(せんごくただまさ:のちの小諸藩2代藩主)が誕生。
1581年(天正9年) 30
淡路遠征において岩屋城、及び由良城(ゆらじょう:現在の兵庫県淡路市)を陥落させる。
1582年(天正10年) 31
本能寺の変により、豊臣秀吉の中国大返し、及び山崎の戦い(やまざきのたたかい)が起こる。
その最中に仙石秀久は、淡路において、明智光秀側の豪族を討伐。淡路平定に貢献する。
1583年(天正11年) 32
賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)が勃発。同合戦には従軍しなかったが、四国勢を抑えるために淡路へ出向く。淡路国50,000石を賜って大名となり、洲本城(現在の兵庫県洲本市)に入城。
1585年(天正13年) 34
四国攻めでの活躍が認められ、讃岐一国を与えられる。
1586年(天正14年) 35
九州征伐が起こると、長宗我部元親、十河存保など四国勢約3,000人の兵を率いて豊後国(現在の大分県)へ向かう。しかし、もともと四国勢とは敵対していたため統率が上手く取れず。豊臣秀吉より持久戦へ持ち込むよう書かれた書状を受け取るも、焦燥していたことからそれを無視。
結局、戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)が開戦し、島津軍の釣り野伏戦法(つりのぶせせんぽう)に屈し、伊予国(現在の愛媛県)へ敗走。この失態により豊臣秀吉から讃岐国を召し上げられ、高野山追放の処分を受ける。
1590年(天正18年) 39
小田原征伐が勃発。浪人を率いて豊臣秀吉のもとに参上した仙石秀久は、徳川家康の取り計らいもあり従軍を許可される。小田原城神奈川県小田原市)の早川口攻めで武功を挙げ、そのあと信濃国小諸に5万石を賜り大名に復帰。
1592年(天正20年/
文禄元年)
41
文禄の役(ぶんろくのえき)が始まると、名護屋城(現在の佐賀県唐津市)の築城に貢献。
1594年(文禄3年) 43
伏見城京都府京都市伏見区)の築城にも携わり、7,000石を加増される。
1598年(慶長3年) 47
豊臣秀吉が死去し、徳川家康に接近。
1600年(慶長5年) 49
徳川家康の会津征伐に参加。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従軍。徳川秀忠が同合戦の本戦に遅参したことで、徳川家康の怒りを買った際、両者の仲を取り持った。
1614年(慶長19年) 63
江戸から小諸へ戻る道中で発病し、5月6日に死去。

仙石秀久の武将年表

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滝川一益の武将年表

滝川一益の武将年表
滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。 しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。 滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

滝川一益の武将年表

大友宗麟の武将年表

大友宗麟の武将年表
キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。 青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。 大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。

大友宗麟の武将年表

最上義光の武将年表

最上義光の武将年表
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。

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