戦国武将の生涯

山内一豊の武将年表

文字サイズ


山内一豊(やまうちかずとよ)は、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将です。尾張国岩倉(現在の愛知県岩倉市)で生まれ、15歳のときに、父・山内盛豊(やまうちもりとも)が死去。これにより一時浪人となるも織田信長に仕えるようになり、様々な武功を挙げていきます。特に姉川の戦いでは、顔面に矢が刺さる重傷を負いながらも、敵将を討ち取る豪胆ぶりを発揮。関ヶ原の戦い以後は、土佐国(現在の高知県)の領主として一国一城の主となりました。
そんな山内一豊を語るうえで、忘れてはいけないのが正室・千代(ちよ)の存在。内助の功としての逸話が数多く残っており、そのうちのひとつが馬を自身のへそくりで購入したというお話です。山内一豊が欲しがっていた名馬を、嫁入りの持参金で購入。騎馬を集合させてその優越を競う武家の軍事パレードである「馬揃え」(うまぞろえ)の際に、その馬が織田信長の目に留まり出世のきっかけをつかんだと伝えられています。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1545年(天文14年) 1
「岩倉織田氏」の家老・山内盛豊の三男として生まれる。
1559年(永禄2年) 15
織田信長の攻撃により、岩倉城(愛知県岩倉市)が落城し、父・山内盛豊が死去。これにより山内一族は離散し、流浪生活に入る。
1568年(永禄11年) 24
主君であった「山岡景隆」(やまおかかげたか)が、織田信長のもとより出奔(しゅっぽん:逃げ出して行方を分からないようにすること)したため、織田信長の配下に入る。
1570年(永禄13年/
元亀元年)
26
姉川の戦い(あねがわのたたかい)で初陣を飾る。
千代(別称:見性院[けんしょういん])と結婚。
1573年(元亀4年/
天正元年)
29
刀根坂の戦い(とねざかのたたかい:別称[一乗谷の戦い])に参戦。朝倉方の猛将・三段崎勘右衛門(みたざきかんえもん)を討ち取り、武功を挙げる。これにより、近江国唐国(現在の滋賀県長浜市)に400石を豊臣秀吉から与えられる。
1575年(天正3年) 31
長篠の戦い(ながしののたたかい)に、豊臣秀吉に付き従って参戦。
1577年(天正5年) 33
中国攻めでは、豊臣秀吉の直臣として同行。播磨国有年(現在の兵庫県赤穂市)に700石与えられる。
1578年(天正6年) 34
摂津伊丹城(兵庫県伊丹市:別称[有岡城])攻めに参戦。
1580年(天正8年) 36
長女であり、山内一豊唯一の実子となる与祢(よね)が誕生。
1582年(天正10年) 38
本能寺の変のあとに勃発した山崎の戦いにおいて、豊臣秀吉軍の本隊に従軍。
1583年(天正11年) 39
豊臣秀吉による滝川一益(たきがわいちます/かずます)攻めに従軍。賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)にも参戦し、「亀山城」(三重県亀山市)攻めにおいて、一番乗りの手柄を立てる。
1584年(天正12年) 40
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)が起こる。豊臣秀吉からの命を受け、徳川家康を包囲するための出城(でじろ)を建築する。
1585年(天正13年) 41
長浜城滋賀県長浜市)の城主となり、2万石を賜る。天正大地震により長女・与祢が死去。
1590年(天正18年) 46
小田原征伐に参戦し、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に付き、山中城(やまなかじょう:静岡県三島市)攻めにも参加。豊臣秀次の宿老(武家における重臣)に抜擢される。遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)に51,000石を与えられる。
1600年(慶長5年) 56
豊臣秀吉の死後は徳川家康に従い、上杉景勝(うえすぎかげかつ)討伐に参加。関ヶ原の戦いに東軍として参戦。徳川家康より、土佐国20万石を与えられる。
1601年(慶長6年) 57
浦戸城(うらどじょう:高知県高知市)へ入城。
高知城の築城を始める。
1603年(慶長8年) 59
従四位下・土佐守(しゅしいげ・とさのかみ)に任命される。
1605年(慶長10年) 61
高知城で死去。これを機に千代が出家する。

山内一豊の武将年表

山内一豊の武将年表をSNSでシェアする

「戦国武将の生涯」の記事を読む


土岐頼芸の武将年表

土岐頼芸の武将年表
「土岐頼芸」(ときよりのり)は、群雄割拠の戦国時代において、下剋上の世に翻弄された武将のひとりです。美濃国(現在の岐阜県)守護「土岐政房」(ときまさふさ)の次男として生まれ、実兄の「土岐頼武」(ときよりたけ)と守護の座を争い、幾度も交戦。兄に勝利し美濃国守護に就任するも束の間、家臣に裏切られやがて美濃国を追われます。裏切った家臣は、「美濃の蝮」と恐れられた「斎藤道三」(さいとうどうさん)です。美濃国を追われた土岐頼芸は流浪の身となり、身を寄せていた甲斐国(現在の山梨県)で「織田信長」に捕らえられ、尾張国にて蟄居。最後は旧臣「稲葉一哲」(いなばいってつ)の計らいで、美濃国に戻り、81歳で生涯を終えました。土岐頼芸は、和歌や鷹の絵を得意とした文武両道の人物だったと伝えられています。

土岐頼芸の武将年表

那須与一の武将年表

那須与一の武将年表
平安時代末期より活躍し鎌倉幕府の御家人(ごけにん)であった那須与一(なすのよいち)は、武勇に優れ、なかでも弓術において卓越した才能を持っていたことから、「弓の名手」として知られている武将です。源氏と平氏が覇権争いを繰り広げた「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん:いわゆる[源平合戦])における戦いのひとつ、「屋島の戦い」(やしまのたたかい)では源氏軍に属し、平氏軍から仕掛けられた挑発とも言える「扇の的」(おうぎのまと)を、その弓術の才能を活かして矢で射落とした伝説が今もなお語り継がれています。しかし、この伝説は鎌倉時代の軍記物語を代表する「平家物語」や「源平盛衰記」に記されているのみで、「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)など、同時代に成立した歴史書には登場しておらず、その真偽は不明です。同様に那須与一の生涯についても判然としない部分が多いため、こちらの年表には平家物語などから現在分かっている事柄のみ掲載しています。

那須与一の武将年表

朝倉義景の武将年表

朝倉義景の武将年表
朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。

朝倉義景の武将年表

結城秀康の武将年表

結城秀康の武将年表
結城秀康(ゆうきひでやす)は、徳川家康の次男の立場にありながら、数奇な運命を辿った戦国武将です。元服を果たす前に、豊臣秀吉のもとへ養子に出されましたが、豊臣家の後継者が豊臣秀吉の甥・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に決まると、今度は下総国(千葉県北部、及び茨城県南西部)結城晴朝(ゆうきはるとも)の養子となります。天下人の家系に生まれながら、流転の境涯(きょうがい:この世で置かれている立場、身の上)にあったのです。小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いなどで活躍し、権中納言(ごんちゅうなごん)にまで昇進しますが、34歳の若さで病没してしまいます。 結城秀康は名刀を数多く所有し、そのなかでも南北朝時代の名工・郷義弘(ごうよしひろ)による「稲葉郷」(いなばごう)は、上杉討伐の際、上杉軍の抑えとして、宇都宮城(栃木県宇都宮市)に留まる結城秀康へ、徳川家康が秘蔵の采配(さいはい:戦場において、兵士達を指揮するために大将が手にして振っていた武具)と共に託した1振。結城秀康亡きあとも、代々、越前松平家(えちぜんまつだいらけ)の家宝として受け継がれ、のちに作州松平家(さくしゅうまつだいらけ)へと伝えられています。この他にも結城秀康は、童子切安綱(どうじぎりやすつな)や石田正宗(いしだまさむね)など、名立たる日本刀を所有していました。

結城秀康の武将年表

石田三成の武将年表

石田三成の武将年表
近江国(現在の滋賀県)に生まれた石田三成は、幼い頃から天下人・豊臣秀吉の右腕として活躍したことで知られています。豊臣政権下では司法や行政を担当し、知将として貢献しました。豊臣秀吉の代名詞でもある「太閤検地」は、全国を駆けまわった石田三成の脚と頭で遂げた実績です。 不公平を嫌った、真面目な石田三成の人柄を示す逸話には事欠きません。猛将・島左近(しまさこん)を召し抱えるにあたっての禄高は、なんと自身と同じ額。豊臣秀吉が石田三成の心配りを評価して家来にすることを決めた「三献の茶」(さんこんのちゃ)や、盟友・大谷吉継(おおたによしつぐ)との友情を物語る茶会など、数多くの逸話が挙げられます。 その優れた頭脳をもって、豊臣秀吉と共に天下統一の夢を追いかけた石田三成でしたが、天下の覇者となるべく、徳川家康が台頭してきた時勢には抗うことができませんでした。なお、石田三成の愛刀であった「石田正宗」は、徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)に贈られています。

石田三成の武将年表

丹羽長秀の武将年表

丹羽長秀の武将年表
丹羽長秀(にわながひで)は青年期から織田信長に仕え、柴田勝家(しばたかついえ)と並ぶ織田家家臣団の双璧として織田信長が目指す天下統一の夢を支えました。織田信長とは年齢も近く、早くからその寵愛を受け「友であり、兄弟である」と言わしめるほどの関係にあったのです。また丹羽長秀は合戦における戦略以外でも造船、築城といった内政面で手腕を発揮し、武勇と智略に優れ、近江国の要衝・佐和山城(さわやまじょう:滋賀県彦根市)の城主を務めています。 織田信長亡きあとは、清洲会議(きよすかいぎ)を経て若狭(現在の福島県西部)一国と近江国高島(現在の滋賀県高島市)、及び滋賀(現在の滋賀県大津市)を領有。豊臣秀吉や柴田勝家らと共に織田家を支え、武田勝家を破った賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)でも武功を挙げ、北ノ庄城(きたのしょうじょう:福井県福井市)の城主となりました。 そんな丹羽長秀は、安土城(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)普請の際、その功績を織田信長より認められ、珠光茶碗(じゅこうちゃわん)を賜っています。しかし、理由は定かではありませんが珠光茶碗は後日、織田信長に召し上げられてしまったのです。その代わりに授かった刀が、鎌倉時代の刀工「長光」(ながみつ)による、鉋切長光(かんなぎりながみつ)と号する小太刀(こだち)でした。この刀は、近江国の守護大名であった六角義賢(ろっかくよしかた)が所有していましたが、1568年(永禄11年)、織田信長が六角義賢を降した(くだした)際に召し上げたと伝えられており、そのあと丹羽長秀のもとへ渡ったと考えられています。

丹羽長秀の武将年表

高山右近の武将年表

高山右近の武将年表
高山右近(たかやまうこん)は、キリシタン大名として知られる戦国武将。家を守る当主の立場と、信仰との狹間で悩みながらも生涯に亘り深くキリスト教に傾倒しました。領民が亡くなれば自ら棺を担ぎ民衆に慕われ、安土城(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)城下に、セミナリヨ(イエズス会主宰の一般教育機関)を建設するため織田信長と交渉するなど、西洋文化や教育の普及にも尽力。蒲生氏郷(がもううじさと)や黒田官兵衛(くろだかんべえ)、牧村政治(まきむらまさはる)などの錚々たる武将達も、高山右近の影響により洗礼を受けています。 晩年は、江戸幕府が発した禁教令の弾圧から逃れるためフィリピンへ亡命。スペイン国王の名のもとに国賓待遇の歓待を受けますが、上陸から40日後熱病に冒され亡くなります。その装束は妻により整えられ、純白の鎧直垂、折烏帽子、枕元には愛用の太刀と兜、胸元には十字架という姿で聖アンナ教会において執り行われた葬儀では、10日間に亘り祈りが捧げられました。

高山右近の武将年表

織田信秀の武将年表

織田信秀の武将年表
「織田信秀」(おだのぶひで)は、天下人「織田信長」の父親であり、自身も「尾張の虎」(現在の愛知県西部)と称された戦国武将です。時代はまさに群雄割拠、下剋上の時代。 織田信秀は、父親の「織田弾正忠信定」(おだだんじょうのちゅうのぶさだ)から受け継いだ経済基盤と知略を武器に、勢力拡大を図ります。駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の「今川義元」(いまがわよしもと)や美濃国(現在の岐阜県南部)の「斎藤道三」(さいとうどうさん)と何度も交戦。 尾張国の完全支配は叶いませんでしたが、その夢は織田信長へと受け継がれていきました。

織田信秀の武将年表

注目ワード
注目ワード