江戸時代

武家諸法度

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「武家諸法度」(ぶけしょはっと)は、江戸幕府の2代将軍「徳川秀忠」が公布した全国の大名達に規範を示した法令です。3代将軍「徳川家光」の時代には「寛永令」(かんえいれい)が出され、「参勤交代」(さんきんこうたい)の制度化などが追加されました。以降も、武家諸法度は、徳川将軍家の歴史と共に歩みを進めます。武家諸法度についてと武士とは何であるのかを見ていきましょう。

武士とは

藤原純友の乱

藤原純友の乱

「武士」のはじまりは、平安時代頃から現れるようになった、土地を武力で支配する豪族達のことだと伝わっています。武士の成り立ちは2種類あり、地方豪族による「開発領主」と朝廷から派遣される「受領」(ずりょう)です。

開発領主は、荘園の管理や運営をし、彼らは荘園を拡大させ、少しずつ財力や権力を手にして土地の支配力を強めていきます。一方で受領は、地方の徴税を請け負うなどして生計を立てていました。特に受領は、朝廷に納める分の税を達成すれば、あとは自分の財産とすることができたため、貴族達に賄賂を行う者や、民に重税を課して私腹を肥やす者もいました。

そして、939年(天慶2年)、勢力を拡大しようとした武士により、関東で「平将門の乱」、また瀬戸内で「藤原純友の乱」が起こります。これらの鎮圧に向かったのは「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと)や「源経基」(みなもとのつねもと)など、皇室から臣籍降下(しんせきこうか:皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りること)した武士達でした。

さらに臣籍降下した武士のなかで、大規模に組織化したことで有名なのが、源平合戦で雌雄を分けた「源氏」と「平氏」です。彼らは一族で武士団を形成していき、1159年(平治元年)に平氏が「平治の乱」を収めると「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)の信任を得て「太政大臣」に就任。このとき、武士ではじめて太政大臣に就いたのが「平清盛」(たいらのきよもり)です。

平清盛は、朝廷を意のままに動かしたのも束の間、平治の乱で敗北していた源氏の「源頼朝」(みなもとのよりとも)が、後白河法皇の子「以仁王」(もちひとおう)の令旨を受けて挙兵。

これにより、源氏と平氏による武士同士の戦がはじまりました。源氏が「壇ノ浦の戦い」で平氏を追い詰め勝利をもぎ取ると、今度は源氏の大将・源頼朝による鎌倉幕府が樹立。以降、武士は歴史の表舞台の主役となり、多くの活躍をしていくことになります。

武家の家名

平安時代の武士

平安時代の武士

武家の「家名」、いわゆる「姓」の祖になるのは、平安時代の藤原氏と並んで「源平藤橘」(げんぺいとうきつ)と呼ばれる四氏がはじまりです。この四氏は、天皇から臣籍降下した皇室ゆかりの一族になります。しかし、時代が進んでいくと同じ姓を持つ者があまりにも増加してしまい、個々の区別が難しくなっていました。

また、姓は、天皇から頂いたものであるため、変更することはできません。そこで、住んでいた土地の名前を取り、姓とは別の呼称「名字」として名乗るようになりました。さらに、武家だけではなく公家も同様に、屋敷のある地名や路地の名前を名乗るようになります。

例えば、一条通に住んでいれば「一条」、鷹司小路ならば「鷹司」などとしていました。これらがいつしか家名となり、子々孫々に伝わっていったと考えられます。そして武家が、京の都から離れ地方へと下っていき、武士達はその土地で力を付けていきました。

そこで、武士達は、土地の名前を家名に取り入れ、「ここは〇〇の土地になるので〇〇が治めます」、「命に替えて〇〇の土地を守る」との表明に繋げます。こうして武士達は、地元に住む領民達との関係もあり、統治に向き合い、土地をしっかりと治めるようになりました。このことが、武士の「一所懸命」の言葉にも繋がっていると言われています。

武家諸法度は幕藩体制の総仕上げ

徳川家康」は豊臣家を滅亡させた戦「大坂夏の陣」からすぐに、武家諸法度の草案を検討しはじめました。草案は、「金地院崇伝」(こんちいんすうでん)という僧が徳川家康の命で作成。そして、大坂夏の陣終息後の1ヵ月後である1615年(慶長20年)6月に「一国一城令」を定め、大名の居城以外の城は取り壊すことを決定。

例としては北条氏の主城「小田原城」(神奈川県小田原市)以外の「八王子城」(現在の東京都八王子市)や「岩槻城」(現在の埼玉県さいたま市)といった支城や砦は、許可しないという厳しい内容でした。

翌7月には、13条からなる武家諸法度(最初に発布された法度は[元和令]とも呼ぶ)を発布。このお披露目には「伏見城」(現在の京都市伏見区)に諸大名を集めた2代将軍・徳川秀忠の前で、金地院崇伝が朗読しました。

これを命じたのは徳川秀忠ですが、実質的には徳川家康が発布者であったと言われています。内容は、政治・道徳上の訓戒、治安維持の規定、儀礼上の規定など。これにより幕府と諸大名との関係は、かつての私的な従属関係から公的な政治関係として一線が引かれることになりました。

武家諸法度(元和令 全13条)

  1. 文武両道に励むこと
  2. 酒におぼれ遊びに呆けてはならない
  3. 法令に背いた者を匿ってはならない
  4. 国に反逆人や殺害者がいたら,追い出さなくてはいけない
  5. 領地に他国の者を住まわせてはならない
  6. 居城の補修時は、必ず届け出をすること
    新築することはかたく禁止する
  7. 隣国で変化があれば江戸幕府に報告する義務がある
  8. 幕府に許可のない婚姻は禁止する
  9. 参勤交代時に、既定人数以上の随身は禁止する
  10. 身分を弁えた服飾をすること
  11. 身分の低い者の駕籠の使用を禁止する
  12. 質素倹約に努めること
  13. 善き政を敷くこと

武家諸法度に従わなければ所領を没収

大名達は、徳川幕府から各領国において支配権を認められた代わりに、法による服従を求められることになります。この制度に違反すれば、改易(領地没収)や減封(領地を減らされる)、転封(国替え、移封)などの処分が下されました。こちらでは、改易・減封・転封により処分された大名をご紹介します。

無断で居城の修理をして所領没収された福島正則

幼少期から豊臣秀吉に仕えていた「福島正則」(ふくしままさのり)は、徳川幕府のもとで広島藩藩主「広島城」(広島県広島市)城主を務めていました。

1619年(元和5年)に、台風により壊れた石垣を修繕したことが、武家諸法度違反に問われ、所領であった安芸国(現在の広島県西部)と備後国(現在の広島県東部)の50万石を没収。信濃国高井郡(現在の長野県北部)と、越後国魚沼郡(現在の新潟県魚沼)を合わせて4万5,000石に減封のうえ転封となっています。

お家騒動で改易された最上義俊

「最上義俊」(もがみよしとし)は、名将「最上義光」(もがみよしあき)の孫で、山形藩2代藩主です。最上義俊の父「最上家親」(もがみいえちか)が、不審な死を遂げたことにより、最上義俊は弱冠12歳でありながら当主の座に就きました。

しかし、家臣から最上家親の死は毒殺だったのではないかと声が上がり、騒動が大きくなってしまいます。江戸幕府が仲裁に入るものの騒動は収まらずむしろ悪化、ついに江戸幕府からは、山形藩の改易を言い渡されました。

徳川家光の作った参勤交代

徳川家光

徳川家光

徳川家康により発布された武家諸法度ですが、一度作成されたらそのまま同じ内容を使用し続けたわけではありません。代々の将軍は、自身が将軍に就任すると改訂した法度を諸大名に向けて公布する決まりになっていました。

3代将軍・徳川家光もそれに倣い、1635年(寛永12年)に「寛永令」(徳川家光が発布した武家諸法度)を発布し、参勤交代を明文化させた将軍としても有名です。実は、徳川家康が作成した当時も参勤交代についての記述はありましたが、期間や時期などに決まりはなく、あまり強制力を持っていませんでした。そもそも参勤交代の起源ですが、これは日本史上最初に幕府を開いた鎌倉時代にまで遡ります。鎌倉時代、将軍から領地を与えられた「御家人」(ごけにん:鎌倉幕府の役職)達が領地から鎌倉の都まで出向いたことが参勤交代のはじまりです。

徳川家光が、なぜ今になって参勤交代に強制力を持たせたのかと言うと、徳川幕府の力をより盤石にするためでした。江戸幕府は、中央政権ではなく各地にそれぞれの制度や軍事力を持つ大名のいる封建制社会。大名家の藩政に関して干渉することができないため、徳川将軍家としても安心できません。現に、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で敗戦したものの、強い勢力を持ったままの薩摩藩島津家長州藩毛利家に対しては、常に警戒心を持たなければいけない状態でした。

そこで、大名達を1年おきに江戸に出仕させ、移動に必要な旅費から江戸での滞在費まで各藩に出費を義務付けます。加えて、江戸の藩邸には、人質として正室とその子を住まわせるようにしました。かつてはほとんど任意であった参勤交代を制度化することで、幕府の権威を強めて、大名家の弱体化を狙ったのです。

徳川綱吉による武家諸法度の改訂

徳川綱吉

徳川綱吉

「生類憐れみの令」をはじめとする、後世に「悪政」と伝わる政治を行った5代将軍「徳川綱吉」ですが「文治政治」を開始させた将軍として見直されつつあります。文治政治とは、学問や教養(儒教など)などを持って統治することです。

徳川綱吉が将軍職に就いた時代は、徳川幕府が開かれて約50年が経過した頃で、幕藩体制も確立し、世の中が泰平になっていました。余裕のある政治を進めるなかで、徳川綱吉は儒教を奨励しながら、武家諸法度にも大きな変化をもたらします。1683年(天和3年)に、かつての条項をほとんど改訂してしまうのです。

徳川綱吉の「天和令」では、第一条が「文武忠孝を励し礼儀を正すべき」となっており多分に儒教の影響が出ています。続いて「キリシタン取締まりの徹底」、「末期養子の緩和」、「殉死の禁止」など、就任からわずか3年でこれらの改訂が行われました。徳川綱吉の治世、前半期の「天和の治」と称賛される時代です。

しかし、武家諸法度が改訂されたのと同じ年に、徳川綱吉は5歳の息子「徳松」(とくまつ)を亡くしていました。この頃から、死や血の穢れを意識した政策である「服忌令」(ぶっきょうりょう:喪に服す期間を定めた法)の制定が進められ、捨て子や病人、動物を憐れむ観念が助長されていったと考えられています。また、儒教の「考」(親孝行)に影響され、母「桂昌院」(けいしょういん)に従一位という高位を朝廷から賜らせました。そして、母の重用する僧「隆光」(りゅうこう)の意見を取り入れ、「生類憐れみの令」を発布したと言われています。

生類憐れみの令には、「捨て子の禁止」や「病人の保護」をはじめ「江戸城において鳥・貝・エビの料理禁止」、「鷹狩の禁止」、「釣りの禁止」など多くの条項が作られました。福祉政策としては有用な法令だったのですが、行き過ぎた内容は、大名や民衆を困惑させるには十分。徳川綱吉が亡くなると一部が廃止され、その後の将軍達により少しずつ撤廃されていきます。

それでも、天和の治と絶賛された徳川綱吉が改訂した武家諸法度は、江戸時代末期まで大きな変更もなく踏襲されていきました。

徳川家康が定めた武家の官位

徳川家康は、戦国時代からあまり統制されてこなかった武家の官位についても、新たに制度を設けました。戦国時代当初、朝廷の権威はすでに衰えつつあり、財政的にも困窮した状態が続いていましたが、地方には勢力を拡大させ、力を付けていく大名達が増えていた時代です。

現状よりも、権威や箔を付けたいと考える大名達は、こぞって朝廷に献金をして、その見返りとして官位を賜っていました。このようなことが続いたことで、官位の重複や、家格以上の官位を持つ者が横行。そこで徳川家康が編み出したのが、公家達への規範を制度化した「公家諸法度」(くげしょはっと:正式名称は[禁中並公家諸法度])です。

公家諸法度は、武家諸法度が発布されたのと同時期に発布されています。そして、公家諸法度内の条項「武官官位」に「武家之官位者、可爲公家當官之外事」(武家の官位は、公家の官位とは区別する)と定めたのです。

これにより大名達は、公家から直接官位を賜ることができなくなり、将軍の許可なく任官できないようになりました。この制度を確実化したことで、権力が分散しなくなり幕藩体制はより強固なものに仕上がっていきます。

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