戦国武将の生涯

前田慶次の武将年表

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前田慶次(まえだけいじ)は、前田利家(まえだとしいえ)や上杉景勝(うえすぎかげかつ)に仕えた、戦国時代の武将です。「前田慶次」のほかに、「前田利益」(まえだとします)や「前田慶次郎」(まえだけいじろう)、「前田宗兵衛」(まえだそうべえ)など、複数の仮名(通称)を持っています。そんな前田慶次は、前田家を出奔するなど破天荒な人物であったことから、「傾奇者」(かぶきもの)との異名を取っていました。 ただ、前田慶次に関する歴史的資料はほとんど残っておらず、詳しいことはあまり分かっていません。それがかえって人々の想像を掻き立て、現代のアニメや漫画などの主人公として、その題材に取り上げられる結果に繋がっているとも言えます。
破天荒で知られている前田慶次ですが、義理堅い人物でもありました。関ヶ原の戦いで西軍が負け、主君・上杉景勝が減封になった際、多くの家臣達が離れていく中で、前田慶次は、「私の主人は上杉景勝だけだ」と主張しています。また、前田慶次は、俳句や詩歌を嗜んでいた(たしなんでいた)とも言われており、豪快なだけでなく、教養や仁徳を持ち合わせていたと伝えられている戦国武将です。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1541年(保元4年/
平治元年)
1
誕生。実父については、滝川一益(たきがわいちます/かずます)の従弟と伝えられる滝川益氏(たきがわますうじ)とする説がある。前田利春(まえだとしはる)の長男・前田利久(まえだとしひさ)に、養子として迎えられる。
1569年(永禄12年) 29
織田信長の命により、前田利久が弟・前田利家前田慶次にとって義理の叔父にあたる)に、前田家の家督を譲る。これにより、養父・前田利久と共に、荒子城(あらこじょう:愛知県名古屋市中川区)を出る。
1581年(天正9年) 41
熱田神宮(名古屋市熱田区)に太刀を奉納する。
1582年(天正10年) 42
前田利家に仕える。このとき、前田利久と共に、7,000石の知行を与えられる。
1584年(天正12年) 44
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)が勃発。一連の合戦のひとつ、末森城の戦い(すえもりじょうのたたかい)では、佐々成政(さっさなりまさ)の猛攻を巧みな戦術でかわす。
1588年(天正16年) 48
上杉家臣・木戸元斎(きどげんさい)主催の連歌会に出席。
1590年(天正18年) 50
豊臣秀吉小田原征伐に、前田利家に付き従って出陣。そのあと、前田家を出奔(しゅっぽん:逃げ出して行方を分からなくすること)する。
1598年(慶長3年) 58
越後国(現在の新潟県)から陸奥国・会津(現在の福島県西部)120万石に移封となった上杉景勝に仕える。前田慶次がその家臣を務めるようになった時期は、この年から、関ヶ原の戦いが勃発した1600年(慶長5年)の間であったと見られている。
上杉景勝が召し抱えた浪人集団「組外衆」(くみそとしゅう)における筆頭の座に就き、1,000石を与えられる。
1600年(慶長5年) 60
「北の関ヶ原」と称される慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)では、上杉景勝軍(西軍)に従軍し、長谷堂城の戦い(はせどうじょうのたたかい)などで武功を挙げる。関ヶ原の戦いで西軍が破れたことを知った直江兼続(なおえかねつぐ)が自害しようとした際に、これを諌めている。長谷堂城(現在の山形県山形市)の撤退戦では殿(しんがり:後退する軍列の最後尾に位置し、敵からの追撃を防ぐ部隊)を務め、最上伊達連合軍(東軍)の追手をはねのける。
1601年(慶長6年) 61
上洛し、徳川家康に拝謁。京都の伏見から米沢へ下向する際のできごとを、後世に「前田慶次道中日記」と称される日記に残す。
1612年(慶長17年) 72
隠棲生活を送っていた米沢付近の堂森にて死去。

前田慶次の武将年表

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滝川一益の武将年表

滝川一益の武将年表
滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。 しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。 滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

滝川一益の武将年表

仙石秀久の武将年表

仙石秀久の武将年表
仙石秀久(せんごくひでひさ)は、小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)初代藩主を務めた戦国武将。安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、少年期より豊臣秀吉に仕えました。淡路平定に大きく貢献したことから、豊臣秀吉より淡路国(現在の兵庫県淡路島)50,000石、さらに讃岐国(現在の香川県)を与えられ、一国一城の主(あるじ)に出世したのです。 しかし、その翌年の九州征伐で転機が訪れます。仙石秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や十河存保(そごうまさやす/ながやす)など、四国勢約3,000人の兵を率いて島津軍のいる九州に向かうのですが、もともと四国勢とは敵対する関係であったため、結束が乏しく統率が上手く取れませんでした。 それに焦った仙石秀久は豊臣秀吉からの指示も無視して島津軍と交戦し、結局は大敗を喫して敗走。この失態に豊臣秀吉が激怒し、讃岐国を召し上げられ高野山追放の処分を受けてしまいます。そのあとは、再起を懸けて小田原征伐に参加。そこで武功を挙げたことにより、信濃国小諸50,000石を与えられ、大名に復帰したのです。 そして江戸時代に入ると江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と親交を深め、外様大名ながら例外的に重用されるようになりました。

仙石秀久の武将年表

大友宗麟の武将年表

大友宗麟の武将年表
キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。 青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。 大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。

大友宗麟の武将年表

最上義光の武将年表

最上義光の武将年表
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。

最上義光の武将年表

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