戦国武将の生涯

福島正則の武将年表

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福島正則(ふくしままさのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期に活躍した、尾張国(現在の愛知県西部)出身の戦国武将。豊臣秀吉の叔母・松雲院(しょううんいん)が母であったことから、幼い頃より小姓として豊臣秀吉に仕えていました。 そして福島正則は、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)や九州平定、小田原征伐、文禄の役(ぶんろくのえき)などの合戦で武功を挙げ、尾張国・清洲城(愛知県清須市)24万石の城主となります。
さらに関ヶ原の戦いでは、徳川方の先鋒として活躍し、安芸国・広島城(広島市中区)50万石の城主となりますが、晩年、同城の改修を江戸幕府に無断で行ったことが武家諸法度(ぶけしょはっと)に触れ、2代将軍 徳川秀忠(とくがわひでただ)より所領を没収。信濃国(現在の長野県)での蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて、謹慎させた刑罰)に命じられました。
福島正則と言えば、賤ヶ岳の戦いで一番槍を揚げ、「賤ヶ岳の七本槍」のひとりとなったほどの槍の名手。豊臣秀吉から下賜された槍である「日本号」(にほんごう/ひのもとごう)は、福島正則が、酒宴の席で賭けの対象とした逸話から別名・呑み取りの槍(のみとりのやり)とも呼ばれ、のちに、民謡の黒田節(くろだぶし)の題材にもなった大身槍(おおみやり)です。 日本号は、その刀身に不動明王(ふどうみょうおう)の化身である倶利伽羅龍王(くりからりゅうおう)が施されているのが大きな特徴。天下三名槍(てんかさんめいそう)のひとつに数えられる美しい槍で、福岡市博物館(福岡市早良区)に収蔵されています。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1561年(永禄4年) 1
尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)に誕生し、幼名は市松(いちまつ)と名付けられる。
母親は豊臣秀吉の叔母・松雲院で、桶屋だった父・福島正信(ふくしままさのぶ)は、豊臣秀吉の家臣。福島正則も、24歳差の従兄弟であった豊臣秀吉に、幼い頃から小姓(こしょう)として仕える。
1578年(天正6年) 18
豊臣秀吉が別所長治(べっしょながはる)と戦った、三木城(みきじょう:兵庫県三木市)での合戦で初陣を飾る。兜首(かぶとくび)2つを上げる武功により、禄高200石を得る。
1582年(天正10年) 22
明智光秀の謀反によって起こった本能寺の変において、織田信長が自害。明智光秀を追い詰めるため、豊臣秀吉と共に、山崎の戦いに参戦。300石加増の500石を賜る。
1583年(天正11年) 23
賤ヶ岳の戦いに参戦。一番槍を挙げ、敵将である拝郷家嘉(はいごういえよし)を討ち取る。これらの武功により、福島正則の禄高が5,000石に加増。同合戦に参加した加藤清正や片桐且元(かたぎりかつもと)など、6人の武将達と共に、「賤ヶ岳の七本槍」と称されるようになる。
1584年(天正12年) 24
父・福島正信と小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)に参戦。豊臣秀吉軍の後陣として活躍する。
1587年(天正15年) 27
豊臣秀吉の九州平定に付き従い、戦後、伊予国今治(現在の愛媛県今治市)10万石を賜って大名となる。
1590年(天正18年) 30
小田原征伐で織田信雄(おだのぶかつ)軍に従軍。韮山城(にらやまじょう:静岡県伊豆の国市)を包囲する。
1592年(天正20年/
文禄元年)
32
いわゆる朝鮮出兵である文禄の役に参戦。五番隊の主将となり、京畿道(けいきどう)を攻略する。
1595年(文禄4年) 35
尾張国・清洲城に移り、24万石の所領を賜る。
1598年(慶長3年) 38
豊臣秀吉の死により、朝鮮半島から全軍が撤退し、慶長の役(けいちょうのえき)が終結する。翌年予定されていた大将としての参戦も取り止めとなる。
1599年(慶長4年) 39
朝鮮出兵がきっかけとなり、文治派・石田三成と武断派・福島正則、加藤清正、黒田長政らが対立。武断派の石田三成暗殺計画を徳川家康が諭して中止させる。
1600年(慶長5年) 40
関ヶ原の戦いが勃発。福島正則は、豊臣方の武将達と共に、徳川家康方(東軍)に属して参戦。戦後には、安芸国(現在の広島県西部)、及び備後国・鞆(とも:現在の広島県福山市)を賜り、498,000石の大大名となる。
1611年(慶長16年) 51
徳川家康より要求されていた、豊臣秀頼(とよとみひでより)徳川秀忠との会見を行うため、加藤清正や浅野幸長(あさのよしなが)らと共に、反対していた淀殿(よどどの)を説得して実現させる。
1612年(慶長17年) 52
病気を理由に隠居を申し出るが、豊臣秀頼より拒否される。
1615年(慶長20年/
元和元年)
55
大坂冬の陣夏の陣で、豊臣秀頼に加勢を求められるも拒絶し、豊臣家が滅亡。このとき徳川家康は江戸に留まることを福島正則に命じたが、次男の福島忠勝(ふくしまただかつ)が幕府軍に加わっていた。
1619年(元和5年) 59
徳川家康の没後、台風で被災した広島城を無断で改修し、武家諸法度違反に問われて改易を命じられる。
安芸国、及び備後国50万石は没収され、信濃国・高井野藩(現在の長野県上高井郡)に減転封となり、家督を福島忠勝に譲って隠居。
1620年(元和6年) 60
福島忠勝が早世したことにより25,000石を江戸幕府に返上。
1624年(元和10年/
寛永元年)
64
高井野にて病没。在留5年のうちに、領内での新田開発や総検地、用水の設置、治水事業などの功績を残す。
合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。
岐阜関ケ原古戦場記念館
「岐阜関ケ原古戦場記念館」の体験コーナーや展示内容など、施設の魅力をご紹介します。

福島正則の武将年表

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朝倉義景の武将年表

朝倉義景の武将年表
朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。

朝倉義景の武将年表

滝川一益の武将年表

滝川一益の武将年表
滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。 しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。 滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

滝川一益の武将年表

仙石秀久の武将年表

仙石秀久の武将年表
仙石秀久(せんごくひでひさ)は、小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)初代藩主を務めた戦国武将。安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、少年期より豊臣秀吉に仕えました。淡路平定に大きく貢献したことから、豊臣秀吉より淡路国(現在の兵庫県淡路島)50,000石、さらに讃岐国(現在の香川県)を与えられ、一国一城の主(あるじ)に出世したのです。 しかし、その翌年の九州征伐で転機が訪れます。仙石秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や十河存保(そごうまさやす/ながやす)など、四国勢約3,000人の兵を率いて島津軍のいる九州に向かうのですが、もともと四国勢とは敵対する関係であったため、結束が乏しく統率が上手く取れませんでした。 それに焦った仙石秀久は豊臣秀吉からの指示も無視して島津軍と交戦し、結局は大敗を喫して敗走。この失態に豊臣秀吉が激怒し、讃岐国を召し上げられ高野山追放の処分を受けてしまいます。そのあとは、再起を懸けて小田原征伐に参加。そこで武功を挙げたことにより、信濃国小諸50,000石を与えられ、大名に復帰したのです。 そして江戸時代に入ると江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と親交を深め、外様大名ながら例外的に重用されるようになりました。

仙石秀久の武将年表

大友宗麟の武将年表

大友宗麟の武将年表
キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。 青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。 大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。

大友宗麟の武将年表

最上義光の武将年表

最上義光の武将年表
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。

最上義光の武将年表