戦国武将の生涯

豊臣秀吉の武将年表

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天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、織田信長や徳川家康と共に、戦国三英傑(せんごくさんえいけつ)のひとりとして広く知られています。その人間性を始め、合戦における発想豊かな攻め口や、主君や家臣、家族などの人間関係にまつわる逸話が、これほど豊富な武将は他に見られません。尾張国(現在の愛知県西部)の足軽の子として生まれ、織田信長の奉公人から始まり、天下人へと昇り詰めた功績だけでなく茶の湯や花見など後世に残る日本文化を作り上げたことも、豊臣秀吉の偉勲として伝えられているのです。
また豊臣秀吉は、類の見ない名刀収集家としても有名。名刀中の名刀を収納する一之箱(いちのはこ)に豊臣秀吉が入れていたのが、太刀「一期一振藤四郎」(いちごひとふりとうしろう)。この日本刀は、徳川家に渡ったのち、御物(ぎょぶつ)として宮内庁が管理しています。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1537年(天文6年) 1
木下弥右衛門(きのしたやえもん)の子として、尾張国で生まれる。
1554年(天文23年) 18
この頃から、織田信長に奉公人として仕える。
1561年(永禄4年) 25
杉原定利(すぎはらさだとし)の娘・ねねと結婚する。
1566年(永禄9年) 30
織田信長の命により、美濃(現在の岐阜県南部)侵攻のための墨俣城(すのまたじょう:岐阜県大垣市)を築き上げる。一説には、一夜にして完成させたと伝わる。
1570年(永禄13年/
元亀元年)
34
金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)とも呼ばれる金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)では、殿(しんがり:退却しようとする軍の最後尾に位置し、敵の追撃を防ぐ役割)を務め、危機的状況にあった主君・織田信長を、無事に撤退させる功績を積む。
1572年(元亀3年) 36
木下氏から羽柴氏(はしばし)に改名する。
1575年(天正3年) 39
長篠の戦い(ながしののたたかい)が勃発。織田徳川連合軍に従軍。
1577年(天正5年) 41
信貴山城(しぎさんじょう:奈良県生駒郡)の戦いで武功を挙げる。
1581年(天正9年) 45
鳥取城の戦いで兵糧攻め(ひょうろうぜめ)を行い、鳥取城鳥取県鳥取市)を落城させる。
1582年(天正10年) 46
高松城岡山市北区)を水攻めに追い込む。明智光秀の謀反によって本能寺の変が起こり、織田信長が自害する。
中国大返しを経て、山崎の戦いで明智光秀と対峙し、明智光秀を討つ。
1583年(天正11年) 47
賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で柴田勝家(しばたかついえ)を自害に追い込む。大坂城大阪府大阪市中央区)を築く。
1584年(天正12年) 48
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)に出陣。
1585年(天正13年) 49
紀伊国(現在の和歌山県、及び三重県南部)、四国地方を平定する。公卿(くぎょう)であった近衛前久(このえさきひさ)の猶子(ゆうし:親類や兄弟、または他人と親子関係を結ぶこと)となり、関白の座に就く。
1586年(天正14年) 50
106代天皇・正親町天皇(おおぎまちてんのう)から豊臣の姓を賜り、太政大臣(だじょうだいじん)に就任する。
1587年(天正15年) 51
北野天満宮京都市上京区)で大規模な茶会を開催する。豊臣家の本邸となる聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)を構える。
1588年(天正16年) 52
刀狩令、及び海賊停止令を発布、施行する。
1590年(天正18年) 54
小田原征伐を開始。最終的には、北条家が降伏する。
1591年(天正19年) 55
奥州(おうしゅう:現在の東北地方北西部)を平定する。甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ)を養子に迎えて関白職を譲り、太閤(たいこう:前関白の尊称)となる。朝鮮出兵に先立ち、肥前国・唐津(現在の佐賀県唐津市)に名護屋城の築城を始める。
1592年(天正20年/
文禄元年)
56
文禄の役(ぶんろくのえき)で朝鮮に出兵する。
1593年(文禄2年) 57
側室・淀殿(よどどの)が、のちに豊臣秀吉の後継者となる豊臣秀頼(とよとみひでより)を出産。
1597年(慶長2年) 61
慶長の役(けいちょうのえき)で再度朝鮮に出兵する。
1598年(慶長3年) 62
醍醐寺(だいごじ:京都市伏見区)諸堂の再建を命じて庭園を造らせ、1日だけの盛大な花見を開催する(醍醐の花見)。病により死去。

豊臣秀吉の武将年表

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朝倉義景の武将年表

朝倉義景の武将年表
朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。

朝倉義景の武将年表

滝川一益の武将年表

滝川一益の武将年表
滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。 しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。 滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

滝川一益の武将年表

仙石秀久の武将年表

仙石秀久の武将年表
仙石秀久(せんごくひでひさ)は、小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)初代藩主を務めた戦国武将。安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、少年期より豊臣秀吉に仕えました。淡路平定に大きく貢献したことから、豊臣秀吉より淡路国(現在の兵庫県淡路島)50,000石、さらに讃岐国(現在の香川県)を与えられ、一国一城の主(あるじ)に出世したのです。 しかし、その翌年の九州征伐で転機が訪れます。仙石秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や十河存保(そごうまさやす/ながやす)など、四国勢約3,000人の兵を率いて島津軍のいる九州に向かうのですが、もともと四国勢とは敵対する関係であったため、結束が乏しく統率が上手く取れませんでした。 それに焦った仙石秀久は豊臣秀吉からの指示も無視して島津軍と交戦し、結局は大敗を喫して敗走。この失態に豊臣秀吉が激怒し、讃岐国を召し上げられ高野山追放の処分を受けてしまいます。そのあとは、再起を懸けて小田原征伐に参加。そこで武功を挙げたことにより、信濃国小諸50,000石を与えられ、大名に復帰したのです。 そして江戸時代に入ると江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と親交を深め、外様大名ながら例外的に重用されるようになりました。

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大友宗麟の武将年表

大友宗麟の武将年表
キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。 青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。 大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。

大友宗麟の武将年表

最上義光の武将年表

最上義光の武将年表
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。

最上義光の武将年表