戦国武将の生涯

豊臣秀頼の武将年表

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豊臣秀頼(とよとみひでより)は、豊臣秀吉の三男として、大坂城(大阪市中央区)で生まれました。豊臣秀吉の他の実子はすべて早世していたため、側室・淀殿(よどどの)との間に生まれた豊臣秀頼が豊臣秀吉の後継者となったのです。
健康に育つことを願い、豊臣秀頼は一旦捨てられたうえで拾い上げられたという逸話が残っており、そのおかげかどうかは不明ですが力士のような体格に成長したと伝えられています。
天下人を父に、織田信長の姪を母に持つ豊臣秀頼の人生は、瞬く(またたく)間に過ぎていきました。6歳で豊臣家の家督を継ぎ、11歳の頃に徳川家康の孫である7歳の千姫(せんひめ)と結婚。大坂夏の陣の際に、徳川家康によって自害に追い込まれたのは、徳川家康にとって豊臣秀頼の存在が、最大の障害になるほどの器であったことを物語っています。
豊臣秀頼は、父・豊臣秀吉から数多くの日本刀を受け継いでおり、そのなかでも、最も愛着を持っていた1振が、名工・吉光(よしみつ)の作刀である脇差(わきざし)。鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう)と号する名物であり、豊臣秀頼の死後、尾張徳川家の手に渡っています。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1593年(文禄2年) 1
大坂城で生まれ、幼名を拾丸(ひろいまる)と名付けられる。
1595年(文禄4年) 3
父・豊臣秀吉が、その養嗣子(ようしし:家督相続人となる養子)であった豊臣秀次(とよとみひでつぐ)を自刃(じじん)させたことにより、豊臣秀頼が正式に継嗣(けいし)となる。
1596年(文禄5年/
慶長元年)
4
初めて上洛を果たし、豊臣秀頼と称するようになる。
1598年(慶長3年) 6
父・豊臣秀吉が死去。豊臣家の家督を継ぎ、大坂城に移る。
1600年(慶長5年) 8
関ヶ原の戦いが勃発。まだ幼かった豊臣秀頼は、毛利輝元(もうりてるもと)の庇護下に置かれる。
1603年(慶長8年) 11
のちに江戸幕府2代将軍となる徳川秀忠(とくがわひでただ)の娘・千姫を正室に迎える。
1605年(慶長10年) 13
右大臣に昇進する。
1607年(慶長12年) 15
右大臣を辞任する。
1611年(慶長16年) 19
上洛し、二条城京都市中京区)にて徳川家康と会見する。
1614年(慶長19年) 22
方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)を口実に、大坂冬の陣が勃発する。
1615年(慶長20年/
元和元年)
23
大坂夏の陣が勃発。母・淀殿(よどどの)と共に自害する。

豊臣秀頼の武将年表

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滝川一益の武将年表

滝川一益の武将年表
滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。 しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。 滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

滝川一益の武将年表

仙石秀久の武将年表

仙石秀久の武将年表
仙石秀久(せんごくひでひさ)は、小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)初代藩主を務めた戦国武将。安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、少年期より豊臣秀吉に仕えました。淡路平定に大きく貢献したことから、豊臣秀吉より淡路国(現在の兵庫県淡路島)50,000石、さらに讃岐国(現在の香川県)を与えられ、一国一城の主(あるじ)に出世したのです。 しかし、その翌年の九州征伐で転機が訪れます。仙石秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や十河存保(そごうまさやす/ながやす)など、四国勢約3,000人の兵を率いて島津軍のいる九州に向かうのですが、もともと四国勢とは敵対する関係であったため、結束が乏しく統率が上手く取れませんでした。 それに焦った仙石秀久は豊臣秀吉からの指示も無視して島津軍と交戦し、結局は大敗を喫して敗走。この失態に豊臣秀吉が激怒し、讃岐国を召し上げられ高野山追放の処分を受けてしまいます。そのあとは、再起を懸けて小田原征伐に参加。そこで武功を挙げたことにより、信濃国小諸50,000石を与えられ、大名に復帰したのです。 そして江戸時代に入ると江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と親交を深め、外様大名ながら例外的に重用されるようになりました。

仙石秀久の武将年表

大友宗麟の武将年表

大友宗麟の武将年表
キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。 青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。 大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。

大友宗麟の武将年表

最上義光の武将年表

最上義光の武将年表
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。

最上義光の武将年表

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