戦国武将の生涯

徳川家康の武将年表

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徳川家康は、言わずと知れた江戸幕府初代将軍。関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍を破ったのち、征夷大将軍に任命され260年以上続く江戸時代の基礎を作った人物です。
天下人となった徳川家康でしたが、幼少期から華々しい人生を送ってきたわけではありません。三河国(現在の愛知県東部)の安祥松平家(あんじょうまつだいらけ)の跡取りとして生まれ、そのあとまもなく織田信長や今川義元の人質に。その期間は10年以上にも及んでいます。今川義元の死でようやく自立し、織田信長や豊臣秀吉の家臣となり、天下取りのタイミングを虎視眈々と狙っていました。
関ヶ原の戦いを制して天下の覇者となった徳川家康は、「武家諸法度」(ぶけしょはっと)を制定するなどして、太平の世となる江戸時代の幕政の基礎を築いたのです。
なお、徳川家康は亡くなる間際に「人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず」という遺訓があり、どんなときも耐え忍ぶ精神を大切にしてきた、徳川家康の思想が窺えます。不遇の時代を過ごし、60歳を超えて天下人へ。そんな戦国武将であったからこそ言える、含蓄のある言葉です。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1542年(天文11年) 1
岡崎城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の長男として、三河国(現在の愛知県東部)で誕生。幼名は竹千代。
1545年(天文14年) 4
織田信長の人質になる。
尾張国(現在の愛知県西部)で過ごす。
1547年(天文16年) 6
今川義元の人質となり、駿府(現在の静岡県静岡市)へ移る。父・松平広忠が死去し、松平家当主になる。
1555年(天分24年/
弘治元年)
14
今川家のもとで元服。
1557年(弘治3年) 16
今川義元の姪・築山殿(つきやまどの)と結婚。
1560年(永禄3年) 19
桶狭間の戦いでは、先鋒隊として出陣。今川義元が織田信長に討たれたことを受け、今川家から独立。
1561年(永禄4年) 20
織田信長と和睦。
1562年(永禄5年) 21
織田信長と清州同盟を結ぶ。
1563年(永禄6年) 22
三河国統一を果たして松平姓を改め、徳川家康と名乗る。
1570年(永禄13年/
元亀元年)
29
姉川の戦いに参戦し、朝倉浅井連合軍を破る。本拠地を遠江国(現在の静岡県西部)に移し、浜松城を築城。
1572年(元亀3年) 31
遠江国の支配権をめぐり、武田信玄と対立。三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)では、武田軍に大敗を喫す。
1575年(天正3年) 34
長篠の戦いでは織田信長と共に、武田勝頼に勝利。
1579年(天正7年) 38
正室・築山殿を殺害。長男・徳川信康(とくがわのぶやす)を切腹させる。
1582年(天正10年) 41
大坂の堺を見物中に本能寺の変が起こる。織田信長の死に狼狽し自害しようとするも、本多忠勝(ほんだただかつ)に説得され、岡崎城に帰還(伊賀越え)。
1584年(天正12年) 43
豊臣秀吉と対立。小牧・長久手の戦いでは豊臣軍を破る。
1586年(天正14年) 45
上洛して豊臣秀吉に臣従。居城を駿府城へと移す。
1590年(天正18年) 49
小田原征伐に参戦し勝利。豊臣秀吉より関東への移封を命じられ、江戸城へ正式に入城。
1598年(慶長3年) 57
豊臣政権における五大老筆頭に任命され、実権を握るようになる。そのあと、豊臣秀吉が死去。
1600年(慶長5年) 59
関ヶ原の戦いで西軍を破る。
1603年(慶長8年) 62
征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く。
1605年(慶長10年) 64
将軍の座を三男・徳川秀忠へ譲る。
1607年(慶長12年) 66
駿府城へ移り、大御所として政治の主導権を握る。
1614年(慶長19年) 73
大坂冬の陣が勃発。
1615年(慶長20年/
元和元年)
74
大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼす。
1616年(元和2年) 75
駿府城にて死去。
合戦の街 関ヶ原
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岐阜関ケ原古戦場記念館
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徳川家康の武将年表

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滝川一益の武将年表

滝川一益の武将年表
滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。 しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。 滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

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仙石秀久の武将年表

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仙石秀久(せんごくひでひさ)は、小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)初代藩主を務めた戦国武将。安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、少年期より豊臣秀吉に仕えました。淡路平定に大きく貢献したことから、豊臣秀吉より淡路国(現在の兵庫県淡路島)50,000石、さらに讃岐国(現在の香川県)を与えられ、一国一城の主(あるじ)に出世したのです。 しかし、その翌年の九州征伐で転機が訪れます。仙石秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や十河存保(そごうまさやす/ながやす)など、四国勢約3,000人の兵を率いて島津軍のいる九州に向かうのですが、もともと四国勢とは敵対する関係であったため、結束が乏しく統率が上手く取れませんでした。 それに焦った仙石秀久は豊臣秀吉からの指示も無視して島津軍と交戦し、結局は大敗を喫して敗走。この失態に豊臣秀吉が激怒し、讃岐国を召し上げられ高野山追放の処分を受けてしまいます。そのあとは、再起を懸けて小田原征伐に参加。そこで武功を挙げたことにより、信濃国小諸50,000石を与えられ、大名に復帰したのです。 そして江戸時代に入ると江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と親交を深め、外様大名ながら例外的に重用されるようになりました。

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大友宗麟の武将年表

大友宗麟の武将年表
キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。 青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。 大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。

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最上義光の武将年表

最上義光の武将年表
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。

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