平安時代

長岡京への遷都

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781年(天応元年)に即位した第50代天皇「桓武天皇」(かんむてんのう)は、784年(延暦3年)、都だった「平城京」を捨て、「長岡京」へ遷都しました。しかし、桓武天皇は、11年後の794年(延暦13年)に、「長岡京」から「平安京」へ再び遷都。長岡京は、わずか11年間という短期間のみで都としての機能を終えることとなったのです。長岡京が都であった期間があまりに短かったために、長岡京の存在自体、長い間疑問視されていたほど。桓武天皇は、なぜ短期間に2回も遷都を行ったのでしょうか。幻の都とも称された長岡京についてご紹介します。

長岡京へ遷都した背景

現在の京都府向日市長岡京市京都市の一部、そして大山崎町にかけて造営された「長岡京」。長岡京が都として機能したのは、わずか11年と短かったこともあり、幻の都と考えられてきました。

しかし、その後の研究で、実は非常に良く整備され、大規模な都だったことが分かっています。奈良県奈良市にあった「平城京」から長岡京へ遷都するに至った背景を見てみましょう。

仏教勢力の干渉を避けるため

桓武天皇

桓武天皇

長岡京への遷都の理由はいくつかあると言われていますが、まず、奈良市にあった平城京周辺は、仏教勢力が強かったことが挙げられます。第45代天皇「聖武天皇」(しょうむてんのう)は、仏教の教えを取り入れて国造りを行い、その中心を平城京に定めます。

平城京は、「興福寺」(こうふくじ:奈良県奈良市)や「東大寺」(奈良県奈良市)など巨大寺院と切っても切れない関係にあり、寺社勢力が政治に干渉することもしばしば。聖武天皇の治世では、仏教が政治に干渉しすぎた結果、国家財政が傾いてしまうという事態にも発展しています。

第50代天皇であった桓武天皇は、再び同じような事態に陥るのを恐れて、大寺院から離れた場所に都を構え、新しい政治を行うことを目指したのです。

長岡の地が選ばれた理由

長岡京の位置

長岡京の位置

この他に挙げられる遷都の大きな理由は、平城京の立地にありました。平城京は、全国からの物資を陸路で運ぶしかないという問題点があり、人口が増えるにつれ物資の調達が難しくなったと言われています。

その点、長岡周辺には、桂川、宇治川、淀川と、3本の大きな川が存在。川を利用し、物資を船で効率良く運べるメリットがあったため、長岡を新しい都の地として選んだのです。

また、長岡は桓武天皇の側近だった「藤原種継」(ふじわらのたねつぐ)と姻戚関係にあった秦氏(はたし)の拠点でもありました。政権運営において、裕福な秦氏から積極的に支援を得られると考えたことも、長岡を選んだ理由だったと言われています。

平城京・平安京に匹敵する規模を持つ都

長岡京は、11年しか続かなかったこともあり、長い間未完成の都だったと考えられていました。しかし、1954年(昭和29年)に「長岡京朝堂院南門跡」(ながおかきょうちょうどういんみなみもんあと)の調査をはじめとした長岡京域内の発掘が開始されます。

調査の結果、東西に4.3km、南北に5.3kmと、平城京や長岡京の次の都となった「平安京」(現在の京都府京都市)に匹敵する規模を持つ、大規模な都であったことが確認されたのです。

また、それぞれの家には井戸があった他、平城京と比較しても下水設備などが格段に整っており、長岡京は当時としては画期的な都であったことが分かっています。

政治の中心となった「長岡宮」(ながおかきゅう:現在の京都府向日市)には、諸国から多くの人々が集まり、政治・文化・経済の中心地として発展しました。京都盆地を一望できる段丘という地の利を活かし、長岡宮は市街地よりも高い位置に建造されました。

桓武天皇は、長岡宮を高い場所に設置することで天皇としての威厳を強調したと言われています。市街地では道路が碁盤の目に配置され、「朱雀大路」を中心に「左京」と「右京」に分けられていたことも長岡京の特徴です。東西方向も九条まで大路が造られ、各区画は小路で細かく区切られた上、役所や貴族の邸宅に割り当てられていました。

長岡京が11年しか続かなかった理由

天皇が君臨する都にふさわしい長岡京でしたが、桓武天皇は11年足らずで平安京へと再び遷都しています。なぜ長岡京は11年しか続かなかったのでしょうか。

早良親王の怨霊を恐れて逃げるように遷都

早良親王

早良親王

桓武天皇が短期間で長岡京から平安京に遷都した理由には諸説ありますが「早良親王」(さわらしんのう)の怨霊説が有力です。

長岡京の造営について、桓武天皇は藤原種継を「造長岡宮使」(ぞうながおかきゅうし)長官に任命します。藤原種継が主導して、遷都、そして都造りが行われたのです。しかし、藤原種継は、遷都の翌年の785年(延暦4年)に、造宮監督中に矢を射られて暗殺されてしまいます。都の造営が本格的に始まった直後のことでした。実行犯や共犯者はすぐに捕まり、十数名が死罪となったと言われています。

首謀者とみなされたのは、事件の直前に死去していた「大伴家持」(おおとものやかもち)。大伴家持は、死後にもかかわらず官位を剥奪するという厳しい処分を受けています。さらに、逮捕者のなかには、桓武天皇の弟であり、皇太子「早良親王」(さわらしんのう)の関係者も含まれていました。つまり、早良親王にも嫌疑が掛けられることになったのです。

桓武天皇は、早良親王を「乙訓寺」(おとくにでら:京都府長岡京市)に幽閉することにしました。早良親王は断食をしながら無実を訴えますが、結局は流刑処分となり、移送中に無念を抱えたまま衰弱死してしまったのです。

早良親王の死後、桓武天皇の妻「藤原旅子」(ふじわらのたびこ)と生母「高野新笠」(たかのにいがさ)、そして皇后「藤原乙牟漏」(ふじわらのおとむろ)が立て続けに亡くなります。また、皇太子「安殿親王」(あんでんしんのう)も重病になり、これらの不幸はすべて早良親王の祟りと噂されました。

そこへとどめを刺すように、792年(延暦11年)、長岡京は二度も大きな洪水に襲われてしまいます。早良親王の祟りや水害を恐れた桓武天皇は、治水担当者であった「和気清麻呂」(わけのきよまろ)の進言を聞き入れ、長岡京を捨て、平安京への遷都を決意したと言われています。

長岡京への遷都

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