戦国武将の生涯

徳川秀忠の武将年表

文字サイズ

徳川秀忠(とくがわひでただ)は、徳川家康の三男として生まれた江戸幕府2代将軍です。関ヶ原の戦いに遅れたり、大坂冬の陣では過度な強行進軍によって兵を疲れ果てさせたりと、戦いはあまり得意ではなかったと伝えられています。
このように、戦で失敗した逸話が語られることの多い徳川秀忠ですが、政治面においては、その才能を発揮しました。大名や武士を取り締まる「武家諸法度」や、公家を取り締まる「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)などを制定。この他にも、尾張藩(現在の愛知県)・紀州藩(現在の和歌山県、三重県南部)・水戸藩(現在の茨城県中部・北部)の徳川御三家を定めたり、外国船の入港を平戸と長崎に制限し、鎖国の下準備を進めたりもしています。初代将軍・徳川家康と3代将軍・徳川家光に挟まれていたため、あまり印象が強くないものの、徳川秀忠が残した政治的功績は大きく、そのあとの徳川家繁栄の基礎を作ったと言える人物です。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1579年(天正7年) 1
徳川家康の三男として、遠江国(現在の静岡県西部)で誕生。兄・徳川信康(徳川家康の長男)が切腹。
1584年(天正12年) 6
兄・徳川秀康(徳川家康の次男)が豊臣秀吉の養子となり、徳川家の実質的な跡継ぎとなる。
1590年(天正18年) 12
豊臣家の人質として上洛。豊臣秀吉のもとで元服を果たす。
1595年(文禄4年) 17
豊臣秀吉の養女・(ごう:浅井長政の三女)と結婚。
1597年(慶長2年) 19
長女・千姫(せんひめ:のちの豊臣秀頼、及び本多忠刻[ほんだただとき]の正室)が誕生。
1600年(慶長5年) 22
関ヶ原の戦いに参戦。徳川家康本隊は東海道を進み、徳川秀忠は中山道を進む部隊の陣頭指揮を執る。進軍中、信濃国(現在の長野県)にある上田城(城主は真田幸村)を攻めるも苦戦。これにより関ヶ原本戦に間に合わず、徳川家康から叱責を受ける。
1603年(慶長8年) 25
徳川家康の朝廷への奏上もあり、右近衛大将に任命される。これにより、徳川家の将軍職世襲が確実となる。
1604年(慶長9年) 26
次男・徳川家光(のちの江戸幕府3代将軍)が誕生。
1605年(慶長10年) 27
徳川家康が将軍職を降り、2代将軍となる。大御所となった徳川家康と共に政治を司る。
1607年(慶長12年) 29
五女・徳川和子(とくがわまさこ/かずこ:のちの109代天皇・明正天皇[めいしょうてんのう]の生母)が誕生。
1614年(慶長19年年) 36
大坂冬の陣に参戦。関ヶ原での失態を取り返そうと、強行軍を続け、いち早く江戸から伏見(現在の京都府)へと移動。しかし、兵が疲労困憊(こんぱい)し戦力にならず。
1615年(慶長20年) 37
大坂夏の陣に参戦。武家諸法度や禁中並公家諸法度などを、徳川家康と共に制定。
1620年(元和6年) 42
娘・徳川和子が108代天皇・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)に入内(じゅだい)し、天皇家と婚姻関係を結ぶ。
1623年(元和9年) 45
長男・徳川家光に将軍職を譲る。しかし、徳川家康と同様に、大御所として実権は握ったまま。江戸城西の丸(現在の皇居)にて隠居。
1626年(寛永3年) 48
後水尾天皇の二条城への行幸では、徳川家光と共に上洛し、拝謁。
1630年(寛永7年) 52
孫・女一宮(おんないちのみや)が、天皇の位を譲り受けて、明正天皇となったことにより、天皇家の外戚となる。
1632年(寛永9年) 54
前年に発症した病によって亡くなり、増上寺(東京都港区)に葬られる。

徳川秀忠の武将年表

徳川秀忠の武将年表をSNSでシェアする

「戦国武将の生涯」の記事を読む


朝倉義景の武将年表

朝倉義景の武将年表
朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。

朝倉義景の武将年表

滝川一益の武将年表

滝川一益の武将年表
滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。 しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。 滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

滝川一益の武将年表

仙石秀久の武将年表

仙石秀久の武将年表
仙石秀久(せんごくひでひさ)は、小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)初代藩主を務めた戦国武将。安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、少年期より豊臣秀吉に仕えました。淡路平定に大きく貢献したことから、豊臣秀吉より淡路国(現在の兵庫県淡路島)50,000石、さらに讃岐国(現在の香川県)を与えられ、一国一城の主(あるじ)に出世したのです。 しかし、その翌年の九州征伐で転機が訪れます。仙石秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や十河存保(そごうまさやす/ながやす)など、四国勢約3,000人の兵を率いて島津軍のいる九州に向かうのですが、もともと四国勢とは敵対する関係であったため、結束が乏しく統率が上手く取れませんでした。 それに焦った仙石秀久は豊臣秀吉からの指示も無視して島津軍と交戦し、結局は大敗を喫して敗走。この失態に豊臣秀吉が激怒し、讃岐国を召し上げられ高野山追放の処分を受けてしまいます。そのあとは、再起を懸けて小田原征伐に参加。そこで武功を挙げたことにより、信濃国小諸50,000石を与えられ、大名に復帰したのです。 そして江戸時代に入ると江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と親交を深め、外様大名ながら例外的に重用されるようになりました。

仙石秀久の武将年表

大友宗麟の武将年表

大友宗麟の武将年表
キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。 青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。 大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。

大友宗麟の武将年表

最上義光の武将年表

最上義光の武将年表
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。

最上義光の武将年表

注目ワード
注目ワード