明治・大正生まれの刀剣・歴史映画監督(時代劇映画監督)

マキノ雅弘

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代表作【浪人街】が計4度リメイクされているマキノ雅弘(まきのまさひろ)。父親が創案した剣劇(チャンバラ)映画を継承しました。剣劇(けんげき)を生み出した劇団、新国劇にかかわる映画を幾本も手がけ、日本映画における刀剣描写・立ち回りに大きな功績を残します。

無声映画時代の代表作は【浪人街】シリーズ

マキノ正博(のちマキノ雅弘)は、日本映画の父と称される牧野省三(マキノ省三)の子として生まれます。異母弟は映画監督の松田定次(代表作:【赤穂浪士 天の巻 地の巻】、【水戸黄門 天下の副将軍】など)です。

父親が興したマキノ・プロダクションから、無声映画(サイレント:トーキー誕生以前の映画形式)で監督デビューします(1926年)。ギャング映画でした(諸事情から先輩・富沢進郎名義)。

数本の現代劇映画を経て、父親が剣劇(けんげき)を生み出した劇団、新国劇(沢田正二郎創設)と組んだことで始まった剣劇(チャンバラ)映画を継承。牧野省三は、「1スジ、2ヌケ、3ドウサ」を原則としました。脚本・画面作り・動きの順で重んじ、マキノ正博もそれにならいました。

マキノ正博のチャンバラ映画は、父親の映画に参加していた脚本家・山上伊太郎が支えます。

DVD【浪人街 第一話・第二話】【崇禅寺馬場】より

DVD【浪人街 第一話・第二話】【崇禅寺馬場】より

初期の代表作となったのは【浪人街 第一話 美しき獲物】(1928年〔マキノ・プロダクション〕配給)です。原作・脚本は山上伊太郎、総指揮をマキノ省三が務めた無声映画です。

同作は公開年度、第5回キネマ旬報・日本映画ベストテンで1位を獲得します。この年度は他に、4位に父親も何度も取り上げていた浄瑠璃を題材とする敵討ちの物語【崇禅寺馬場】(山上伊太郎原作・脚本)、7位に【蹴合鶏】(山上伊太郎原作・脚本)と監督作のチャンバラ映画が入っています。

翌年度にはチャンバラ映画【首の座】(山上伊太郎原作・脚本)でも1位を獲得します。9位には【浪人街 第三話 憑かれた人々】(山上伊太郎原作・脚本)も入り、マキノ正博は監督としての名を確立しました(1929年)。

浪人街は自身で3度リメイクしています。4度目のリメイクは黒木和雄監督が手がけ、自身は総監修を務めました(1990年)。

浪人同士の友愛物語

戦前の映画は多くが消失しているなかで、【浪人街 第一話 美しき獲物】は最後の場面のみフィルムが残っています。

母衣権兵衛(ほろごんべい:南光明)、荒牧源内(あらまきげんない:谷崎十郎)、赤牛弥五右衛門(あかうしやごえもん:根岸東一郎)、土居孫左衛門(どいまござえもん:河津清三郎)の同じ長屋で暮らす浪人同士は仲良くなります。

物語の最後、荒牧源内の妻でスリのお新(大林梅子)の危機に浪人達が団結します。けれども、赤牛弥五右衛門はひとりだけ立身出世のため、悪い旗本衆に媚びへつらい、浪人仲間を裏切っていました。

その赤牛弥五右衛門の行動が見せ場です。

悪い旗本衆によって子恋の森にて牛裂きの刑にされることになったお新。お新を救うため、多勢の旗本衆にひとり、を振るう荒牧源内。そこに馬に乗った母衣権兵衛が加勢に駆け付ける。

字幕
”天下無禄の浪人 母衣権兵衛 子恋の森助太刀 一番乗り”

土居孫左衛門も子恋の森を目指して駆けている。
奮闘する荒牧源内と母衣権兵衛。その姿を離れて見ている赤牛弥五右衛門。浪人仲間を裏切っていたことに悩み苦しむ。

字幕
”こうなってくると…” ”つらい!” ”思い切ってッ” ”五十石ブラサガッてるんだからな目の前に……!!”

土居孫左衛門も到着した。荒牧源内の加勢に加わった。

字幕
”母衣ッ土居孫左衛門が見舞いに来たぞ!”

そろった浪人仲間の姿を見てようやく決意する赤牛弥五右衛門。

字幕
”勘弁ならぬッ”

と、浪人仲間に加勢した。

字幕
”これは赤牛弥五右衛門! 遅まきながら母衣権兵衛に助勢申すぞ! 三番乗りだァ”

その裏切り行為に旗本が言う。

字幕
”おのれッ裏切ったなッ”

赤牛弥五右衛門は言葉を切り返す。

字幕
”馬鹿ッ! 表返ったのじゃわッ”

映画【浪人街 第一話】より

新国劇座付き作家初の時代小説を映画化

小説【修羅八荒】より

小説【修羅八荒】より

時代は、トーキー(*それまでの無声映画に対して技術発展した映像と音声が同期した発声映画)勃興時代に入ります。マキノ正博はマキノ・プロダクションのトーキー第1回作品となるチャンバラ映画【戻橋】(マキノ省三原案)を監督します(1929年)。

けれども映画の完成と入れ替わるように父親が死去し、巨額の負債からプロダクションをたたみます。そして、日本初の本格的映画会社とされる老舗の日本活動写真(略称・日活)に入社しました(1932年)。同社では数本の監督作(野村胡堂原作、土師清二原作)を担当します。

その後は録音技術研究にも取り組みます。日活から独立した面々による第一映画社への技術協力、片岡千恵蔵プロダクション(山上伊太郎原作・脚本などを監督)、正映マキノ・プロダクション、嵐寛寿郎プロダクション(吉川英治原作などを監督)を経て、マキノトーキー製作所を起業します(1935年)。

以後、歴史・時代小説の映画化が増えます。

林不忘原作【丹下左膳】シリーズ、長谷川伸原作【恋慕の砧】、子母澤寛原作【弥太郎笠】、長谷川伸原作【江戸の花和尚】、行友李風原作【修羅八荒】などです。

新国劇の座付き作家・行友李風が初めて執筆した時代小説・修羅八荒は、かつて父親が総監督を務めて映画化しており(1926年)、マキノ正博もその作風を継承しました(1936年)。

発声映画時代の代表作は講談原作映画【決闘高田の馬場】

その後、資金難から自社を廃業。マキノ正博は再び日活に所属し、歴史・時代小説の映画化を継続します。

吉川英治原作【恋山彦】、海音寺潮五郎原作【遊侠太平記】、角田喜久雄原作【妖棋伝】、大佛次郎原作【鞍馬天狗 角兵衛獅子の巻】、鷲尾雨工原作【織田信長】(小国英雄脚本)などです。

同時に、国定忠治、此村大吉、堀部武庸、自来也、忠臣蔵新選組、東海道中膝栗毛、遠藤盛遠などなど歌舞伎・浄瑠璃・落語・講談でおなじみの物語の映画化も手がけました。

他に、【弥次喜多道中記】(小国英雄脚本)、【鴛鴦歌合戦(おしどりうたがっせん)】や【弥次喜多 名君初上り】などの軽歌劇(オペレッタ)を取り入れた時代劇映画も監督しています。

VHS【決闘高田の馬場】より

VHS【決闘高田の馬場】より

フィルムが残っているこの時期のマキノ正博のチャンバラ映画には、のちに【決闘高田の馬場】に改題される【血煙高田の馬場】(1937年〔日活〕配給)があります。史実をもとに大いに創作された講談を取り上げました。原作・脚本はマキノ正博のペンネーム・牧陶三です。監督には共同名義に稲垣浩が名を連ねます。

マキノ正博以前には、伊藤大輔がこの題材を無声映画【血煙高田の馬場】の表題で映画化しています(1928年)。

のちに赤穂事件と称されるできごとに加わることになる剣客・堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえたけつね)が主人公です。

若き日の堀部安兵衛武庸の浪人物語

決闘高田の馬場では、堀部安兵衛武庸の若き頃、中山安兵衛の奮闘が描かれます。

長屋暮らしの浪人・中山安兵衛(阪東妻三郎)は腕っ節を自負し、喧嘩の仲裁を食いぶちとする日々を送っています。育ての親でたったひとりの肉親、叔父の菅野六郎左衛門(香川良介)はそんな彼の生き方を心配しています。

その叔父が御前試合で破った村上庄左衛門(尾上華丈)から、仕返しに高田の馬場での決闘を申込まれます。村上庄左衛門は卑怯な手を使うため、加勢を頼もうと菅野六郎左衛門は中山安兵衛の長屋を訪ねるも留守でした。

迎えた決闘の時間、酔いつぶれていた中山安兵衛は叔父が残して行った手紙に気付くと急いで現場に駆け付けます。

駆け走る中山安兵衛。高田の馬場に到着すると菅野六郎左衛門は多勢に斬られた瞬間だった。

中山安兵衛
「叔父上、安兵衛でございます。傷はどうです?」

菅野六郎左衛門
「わしは嬉しい。無頼の群れに投じて無頼の心になるではないぞ」

の言葉を遺し、息絶える。

村上庄左衛門
「名乗れ」

中山安兵衛
「菅野六郎左衛門の甥、中山安兵衛」

集まった庶民による喧騒のなか、堀部弥兵衛とその娘・お妙は扱帯を中山安兵衛に渡す。扱帯で着物の袖を縛る中山安兵衛。

中山安兵衛
「十五、十六、十七、十八、さぁ来い」

十八人もの敵衆に応戦する中山安兵衛。沸き立つ観衆。
いつしか二刀流で応戦する中山安兵衛。さらに沸き立つ観衆。敵を斬っては片足を上げて見得を斬る、くるりと回る、飛んだり跳ねたり、あっちこっちに移動したりなど軽快にその二刀流でばったばったと斬り倒す。
やがて残る敵はを手にした村上庄左衛門、たったひとりに。槍を飛んでかわした中山安兵衛、村上庄左衛門を斬り倒す。鳴り止まない観衆の声・声・声。皆、中山安兵衛に駆け寄り喝采する観衆。音楽も高まる。
けれども中山安兵衛の目の前にはすでに息絶えた菅野六郎左衛門がいた。空しく天を仰ぐ中山安兵衛だった。

映画【決闘高田の馬場】より

剣劇解禁時は新国劇の殺陣師を描く

マキノ正博は日活から東宝へ移っていくことになる時期、のちに黒澤明映画の脚本家としても知られる小国英雄と組むことが増えます(日活時代:【清水港】、のちに【続清水港】に改題される【清水港 代参夢道中】など。東宝時代:【長谷川・ロッパの家光と彦左】、【男の花道】、【待って居た男】など)。

第2次世界大戦が勃発すると、映画制作にも制限がかかります。劇映画の映画製作会社は国策によって松竹・東宝・大日本映画社(略称・大映)の3社に統合されます(1942年)。3社統合時代に入ると、マキノ正博は東宝から松竹へ移り(1943年)、映画を撮り続けます。松竹京都撮影所の所長も務めました。

戦後、松竹を離れると自社のシネマ・アーチスト・コーポレーション(映画芸術協同)やマキノ光雄=満男(牧野省三の子。元・満映製作部長~松竹~東横映画~東映)が率いる映画会社などで監督作を発表し続けます。

DVD【殺陣師段平】より

DVD【殺陣師段平】より

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)占領下、剣劇(けんげき・チャンバラ)は禁止されました。マキノ正博は剣劇解禁の年(1950年)、長谷川伸の弟子・長谷川幸延(はせがわこうえん)の戯曲を取り上げます。

黒澤明脚本【殺陣師段平】(1950年〔東京映画配給〕配給)です。新国劇の殺陣師・市川段平が主人公です。劇団主宰者・沢田正二郎が剣劇で評価されるまでの苦悩、写実性・芸術性にこだわり大衆芸能だった剣劇とは別の芝居へと力を入れていく葛藤が殺陣師の目線で描かれます。

それまでのマキノ正博の表記からマキノ雅弘へと改名したのも同作からです。

戦後の代表作は侠客映画【次郎長三国志】

マキノ雅弘の戦後の代表作は、村上元三原作【次郎長三国志】シリーズとなりました。

幕末の侠客・清水次郎長を主人公とする同作は、俳優・田崎潤が原作の連載が始まってすぐに映画化を売り込んだ企画として始まります。

以来、東宝で9部作となる人気シリーズとなりました(1952~1954年〔東宝〕配給)。

  • 小説【次郎長三国志】より

    小説【次郎長三国志】より

  • DVD【次郎長三国志】より

    DVD【次郎長三国志】より

新国劇の代表作を映画化

VHS【月形半平太】より

VHS【月形半平太】より

その後は自身初のカラー映画化(1958年)も含む自作のリメイクも増えます。また、新旧問わず歴史・時代小説も取り上げます。

横溝正史、子母澤寛、村上元三、長谷川伸、村上浪六、陣出達朗、三上於菟吉、真山青果、邦枝完二、行友李風などです。

カラー映画が勃興したこの時期も、新国劇の代表作で座付き作家・行友李風の戯曲【月形半平太】を取り上げています。

幕末を舞台に、藩のために暗躍する長州藩藩士が主人公の物語です。初映画化は制作総指揮を直木三十五(当時表記は直木三十三)・制作をマキノ省三が務めて以来、これまで多くの映画化がなされた同原作にマキノ雅弘の名が新しく加わりました(1961年〔東映〕配給)。

テレビ時代劇【竜馬がゆく】を企画・演出

小説【竜馬がゆく】より

小説【竜馬がゆく】より

東京オリンピック開催の年(1964年)、大衆娯楽の中心が映画からテレビへと完全に移行します。

こうした時期、マキノ雅弘もテレビ演出を手がけるようになります(1960年から)。

司馬遼太郎原作のテレビ時代劇【竜馬がゆく】などを企画・演出しています(1965年)。

時代劇を脱却した任侠映画【日本侠客伝】シリーズを監督

DVD【日本侠客伝】より

DVD【日本侠客伝】より

東映では大衆娯楽がテレビに移行したこの時期、岡田茂(東映取締役兼東映京都撮影所所長)の方針によって任侠映画が多数制作されることになります。

マキノ雅弘は次郎長三国志シリーズを東映でリメイクし、4作監督しています(1963~1965年)。

そして、それまでの時代劇から脱却した東映任侠映画路線の端緒を担った【日本侠客伝】シリーズ(笠原和夫脚本)を監督しました(1964~1969年〔東映〕配給)。

この新しい任侠路線だった【純子引退記念映画 関東緋桜一家】(笠原和夫脚本)が自身の劇場用映画の最後となる監督作になりました(1972年)。

日本映画の父の家に生まれ、映画の歴史と共に生きたマキノ雅弘。チャンバラ映画から任侠映画へという時代の趨勢を生きました。その映画人生には剣劇を生み出した新国劇の存在が常にありました。

著者名:三宅顕人

マキノ雅弘

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内田吐夢

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【大菩薩峠】、【宮本武蔵】という戦前に人気を博した時代劇映画を、戦後復活させた内田吐夢(うちだとむ)。その両作では原作に忠実に、剣客を自負する者とその剣客の思いあがる心を諌める者とを対比的に描きます。

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伊藤大輔

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【丹下左膳】の初映画化を手がけた伊藤大輔(いとうだいすけ)。戦前・戦中は剣客の時代劇映画を手がけ、戦後は【大江戸五人男】など歌舞伎作品を多数監督しました。晩年にはテレビ時代劇の影響のなかで【徳川家康】を監督しています。その戦後の時代劇映画の代表作では男性側だけでなく女性の存在も強調して描いています。

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【大菩薩峠】の初映画化、【宮本武蔵】の初長編映画化を手がけた稲垣浩(いながきひろし)。歴史・時代小説の金字塔を映像化した時代劇映画監督の先駆的な存在です。戦後は三船敏郎主演の時代劇映画を数多く監督し、なかでも【大坂城物語】や【風林火山】では城や旗を通した武士道が見出せます。

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松田定次

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【赤穂浪士 天の巻 地の巻】で忠臣蔵映画の初カラー化を手がけた松田定次(まつださだつぐ)。生涯に亘って数々の歴史・時代小説を映画化しました。【水戸黄門】は映画化とテレビシリーズ演出の両方を手がけています。現在の時代劇イメージの定番を形作った松田定次は、両作で太平の世を舞台にした武士道を描きました。

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山中貞雄

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【丹下左膳余話 百萬両の壺】、【河内山宗俊】、【人情紙風船】の時代劇映画3本のみが、ほぼ完全なかたちで遺されている山中貞雄(やまなかさだお)。日中戦争下で若くして病でこの世を去った山名貞雄の時代劇映画は、戦況と同じように喜劇から悲劇性を帯びていきます。その喜劇的世界の刀剣場面においては、粋な立ち回りや心意気が描かれます。

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黒澤明

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【七人の侍】、【用心棒】で時代劇映画に革命をもたらした黒澤明(くろさわあきら)。両作では人間らしい人物が主人公です。主人公は対立する者の間で揺れ動きます。また、刀の耐久性や、拳銃との勝負を描くうえでもリアリズムがこだわられ、独自の刀剣描写も生み出しました。それは海外文学、西洋演劇への造詣の深さによって支えられています。

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市川崑

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【四十七人の刺客】や【どら平太】など、多作のなかで時代劇映画も遺した市川崑(いちかわこん)。アニメーター出身の実写監督という特異な経歴を有します。その独自の映像演出では光が巧みに使われており、刀剣描写・立ち回りでも変わりません。

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小林正樹

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【切腹】や【上意討ち 拝領妻始末】などの時代劇映画を監督した小林正樹(こばやしまさき)。第2次世界大戦の応招経験に基づいた反戦映画で名を成し、その時代劇映画では武家の理不尽さを描き出しました。そこでは中間管理職の恐ろしさ、武家が抱える根源的な危うさをあぶり出します。

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加藤泰

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【瞼の母】、【沓掛時次郎 遊侠一匹】といった長谷川伸原作の時代劇映画を遺した加藤泰(かとうたい)。現代を舞台にした任侠映画へと時代が移行する直前を映画人として生きました。長谷川伸が創始した股旅物に基づく刀剣観には、古き良き剣劇(チャンバラ)映画の香りが漂っています。

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