戦国武将の生涯

藤堂高虎の武将年表

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藤堂高虎(とうどうたかとら)は、近江国(現在の滋賀県)出身であり、伊勢国・津藩(現在の三重県津市)の藩祖となった武将です。一介の足軽として浅井長政(あざいながまさ)に仕え、姉川の戦い(あねがわのたたかい)に参加。浅井家滅亡後は、織田信澄(おだのぶずみ:別称「津田信澄」)や、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)など、主君を次々に替えます。
また、関ヶ原の戦いや大坂の陣では、徳川家康側に属し、西軍の諸将を切り崩す謀議(ぼうぎ:計画や方法などを相談すること)にも関与。加藤清正や黒田官兵衛と並ぶ、三大築城の名手のひとりと言われ、豊臣秀長に仕えていた時代には、安土城(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)や和歌山城(和歌山県和歌山市)、郡山城(奈良県大和郡山市)などの築城に携わり、技術を磨きました。徳川家康からは、その築城能力を高く評価され、江戸城(東京都千代田区)改築の功績により、江戸幕府の要所でもある伊勢国(現在の三重県北中部)、及び伊賀国(現在の三重県伊賀地方)32万石に加増移封されます。
藤堂高虎の愛刀であった金象嵌銘「備前国兼光 本阿弥(花押)」(名物 大兼光)は、豊臣秀吉没後、その形見分けとして藤堂高虎が賜り、のちに徳川将軍家に献上されました。本阿弥家(ほんあみけ)によって磨上げられた優美な「名物」であり、国の重要文化財に指定されている1振です。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1556年(弘治2年) 1
近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)の小領主・藤堂虎高(とうどうとらたか)の次男として生まれる。
1570年(永禄13年/
元亀元年)
15
足軽として仕えた近江国・浅井長政のもとで姉川の戦いに参戦。武功を挙げ、浅井長政より感状を受ける。
1573年(元亀4年/
天正元年)
18
浅井家が滅亡。幾人かの旧浅井家臣に仕えたあと、織田信長の甥・織田信澄(おだのぶずみ)にも仕えるが長く続かず。
1576年(天正4年) 21
織田信長の重臣で、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の弟・羽柴秀長(のちの豊臣秀長)に300石で仕える。
1581年(天正9年) 26
豊臣秀長に日頃の働きぶりを認められ、当初の10倍となる3,000石に加増される。
1585年(天正13年) 30
織田信長と豊臣秀吉による紀州征伐に従軍。戦後は紀伊国・粉河(こかわ:現在の和歌山県紀の川市)に5,000石を与えられ、猿岡山城(さるおかやまじょう)、和歌山城の築城における普請奉行となる。これが、藤堂高虎にとって最初の築城となった。四国攻めで功績を残し、5,400石をさらに加増され、1万石大名となる。
1586年(天正14年) 31
豊臣秀吉が関白となる。謁見のために上洛する徳川家康の屋敷を、聚楽第(じゅらくてい/じゅうらくだい)の邸内に建築することになり、豊臣秀長より、その作事奉行に任命される。設計上の不備を見出し、自ら出資して工程を変更。徳川家康から感謝される。
1587年(天正15年) 32
九州征伐での戦功により2万石に加増。
豊臣秀吉の推挙を受け正五位下・佐渡守(しょうごいのげ・さどのかみ)に叙任。
1589年(天正17年) 34
北山一揆の鎮圧拠点・赤木城三重県熊野市)を築城。
1591年(天正19年) 36
豊臣秀長死去。その甥であり、養子となっていた豊臣秀保(とよとみひでやす)に仕える。
1592年(天正20年/
文禄元年)
37
主君・豊臣秀保の代理として、文禄の役(ぶんろくのえき)へ出征。
1595年(文禄4年) 40
豊臣秀保の早世後に出家するが、豊臣秀吉の意向を受けて還俗(げんぞく:出家した人が、もとの俗人として戻って来ること)。豊臣秀吉より5万石を加増され、伊予国・板島(現在の愛媛県宇和島市)に7万石を賜る。
1600年(慶長5年) 45
関ヶ原の戦いのきっかけとなる、徳川家康の会津征伐に従軍。関ヶ原の戦い本戦でも徳川方に付き、西軍諸将の東軍への寝返り工作を行う。これらの軍功により、徳川家康から宇和島城8万石を安堵された他、今治城(いまばりじょう:愛媛県今治市)12万石が加増され、20万石となる。新たな居城を今治城に定めて改築する。
1608年(慶長13年) 53
築城能力を徳川家康から高く評価され、江戸城改築の功績により、幕府の要所・伊勢国(現在の三重県北中部)に加増移封。22万石(のちに32万石)の領地を賜る。
1616年(元和2年) 61
徳川家康が死去。外様大名のなかで唯一、その臨終に立ち会うことを許される。その場で徳川家康を弔うため、隣室にいた天海僧正(てんかいそうじょう)のもと、日蓮宗から天台宗へ改宗。のちに徳川家康を祀ることになる日光東照宮栃木県日光市)に、徳川家康や天海僧正と共に、藤堂高虎の像が安置される由来となる。
1630年(寛永7年) 75
以前より患っていた眼病により失明。そのあと、江戸にあった藤堂藩邸において死去。
合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。
岐阜関ケ原古戦場記念館
「岐阜関ケ原古戦場記念館」の体験コーナーや展示内容など、施設の魅力をご紹介します。

藤堂高虎の武将年表

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朝倉義景の武将年表

朝倉義景の武将年表
朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。

朝倉義景の武将年表

滝川一益の武将年表

滝川一益の武将年表
滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。 しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。 滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

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仙石秀久の武将年表

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仙石秀久(せんごくひでひさ)は、小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)初代藩主を務めた戦国武将。安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、少年期より豊臣秀吉に仕えました。淡路平定に大きく貢献したことから、豊臣秀吉より淡路国(現在の兵庫県淡路島)50,000石、さらに讃岐国(現在の香川県)を与えられ、一国一城の主(あるじ)に出世したのです。 しかし、その翌年の九州征伐で転機が訪れます。仙石秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や十河存保(そごうまさやす/ながやす)など、四国勢約3,000人の兵を率いて島津軍のいる九州に向かうのですが、もともと四国勢とは敵対する関係であったため、結束が乏しく統率が上手く取れませんでした。 それに焦った仙石秀久は豊臣秀吉からの指示も無視して島津軍と交戦し、結局は大敗を喫して敗走。この失態に豊臣秀吉が激怒し、讃岐国を召し上げられ高野山追放の処分を受けてしまいます。そのあとは、再起を懸けて小田原征伐に参加。そこで武功を挙げたことにより、信濃国小諸50,000石を与えられ、大名に復帰したのです。 そして江戸時代に入ると江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と親交を深め、外様大名ながら例外的に重用されるようになりました。

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大友宗麟の武将年表

大友宗麟の武将年表
キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。 青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。 大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。

大友宗麟の武将年表

最上義光の武将年表

最上義光の武将年表
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。

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