戦国武将の生涯

酒井忠次の武将年表

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酒井忠次(さかいただつぐ)は、徳川家康が幼い頃から忠義を尽くした、「徳川四天王」のひとりであった家臣です。徳川家康が今川家の人質になる際も同行し、徳川家康最大のピンチであった三河一向一揆(みかわいっこういっき)でも、徳川家康の味方に付きました。
そんな酒井忠次が、自身の名を上げたのが「長篠の戦い」(ながしののたたかい)。奇襲攻撃を敢行し、武田勝頼(たけだかつより)の叔父・河窪信実(かわくぼのぶざね)を討ち取り、長篠城を守り抜くことにも大きく貢献しました。
その他には、天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)や小牧・長久手の戦いでも活躍しましたが、松平信康(まつだいらのぶやす)の切腹により、その潮目が変わります。織田信長から松平信康の謀反が疑われ、酒井忠次が弁明役を務めるも切腹を阻止できなかったのです。
松平信康は、徳川家康の息子であったため、徳川家康と酒井忠次の間に、わだかまりを残す結果となりました。これを機に、徳川家康から受ける酒井忠次への待遇は、他の徳川四天王よりも悪くなったと伝えられています。
なお、酒井忠次の愛刀は「猪切」(いのししぎり)と称される1振。徳川家康の狩りに酒井忠次がお供した際に、この日本刀で猪を倒したことがその由来です。その茎(なかご)には、金象嵌(きんぞうがん)を用いて、猪切の銘が入れられています。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1527年(大永7年) 1
酒井忠親(さかいただちか)の次男として、三河国(現在の愛知県東部)の井田城に生まれる。
1547年(天文16年) 21
徳川家康今川義元の人質となる際、家臣として同行。
1556年(弘治2年) 30
居城である福谷城(うきがいじょう)を柴田勝家(しばたかついえ)に攻められる。激しい攻防の末、柴田勝家に勝利。
1560年(永禄3年) 34
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)ののち、徳川家の家老に抜擢される。
1561年(永禄4年) 35
松平清康(まつだいらきよやす)の娘・碓井姫(うすいひめ)を正室に迎える。
1563年(永禄6年) 37
三河一向一揆が勃発。徳川家家臣の多くが反旗を翻すなか、酒井忠次は徳川家康に従った。
1564年(永禄7年) 38
吉田城(愛知県豊橋市)攻めで先鋒(せんぽう)を務め、武功を挙げたことにより、吉田城主となる。長男・酒井家次が生まれる。
1569年(永禄12年) 43
駿河侵攻で、武田方との同盟交渉役を担当。
1570年(永禄13年/
元亀元年)
44
姉川の戦いにおいて、先陣を切って朝倉軍へ突入する。
1573年(元亀3年) 47
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)では、徳川・織田連合軍の右翼の一員として、小山田信茂隊(おだのぶしげたい)と激突し、勝利を収める。
1575年(天正3年) 49
長篠の戦いでは、武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦(とびがすやまとりで)から強襲。武田勝頼の叔父・河窪信実を討ち取るなど、大きな武功を挙げる。
1579年(天正7年) 53
徳川家康の嫡子・松平信康が織田信長から謀反の疑いをかけられた際、弁解者として安土城滋賀県近江八幡市)へ参上。結局うまく弁明できず、松平信康は切腹することとなる。
1582年(天正10年) 56
本能寺の変ののち、明智光秀を討つ際の先陣を務める。天正壬午の乱では、武田遺領の掌握を図る。
1584年(天正12年) 58
小牧・長久手の戦いにおける一連の戦いのひとつ、羽黒の戦いで森長可(もりながよし)を敗走に追い込む。
1586年(天正14年) 60
徳川家家臣における最高位である従四位下・左衛門督(じゅしいげ・さえもんのかみ)に任命される。
1588年(天正16年) 62
長男・酒井家次に家督を譲り、隠居。
1596年(文禄5年/
慶長元年)
70
京都・桜井屋敷にて死去。

酒井忠次の武将年表

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滝川一益の武将年表

滝川一益の武将年表
滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。 しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。 滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

滝川一益の武将年表

仙石秀久の武将年表

仙石秀久の武将年表
仙石秀久(せんごくひでひさ)は、小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)初代藩主を務めた戦国武将。安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、少年期より豊臣秀吉に仕えました。淡路平定に大きく貢献したことから、豊臣秀吉より淡路国(現在の兵庫県淡路島)50,000石、さらに讃岐国(現在の香川県)を与えられ、一国一城の主(あるじ)に出世したのです。 しかし、その翌年の九州征伐で転機が訪れます。仙石秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や十河存保(そごうまさやす/ながやす)など、四国勢約3,000人の兵を率いて島津軍のいる九州に向かうのですが、もともと四国勢とは敵対する関係であったため、結束が乏しく統率が上手く取れませんでした。 それに焦った仙石秀久は豊臣秀吉からの指示も無視して島津軍と交戦し、結局は大敗を喫して敗走。この失態に豊臣秀吉が激怒し、讃岐国を召し上げられ高野山追放の処分を受けてしまいます。そのあとは、再起を懸けて小田原征伐に参加。そこで武功を挙げたことにより、信濃国小諸50,000石を与えられ、大名に復帰したのです。 そして江戸時代に入ると江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と親交を深め、外様大名ながら例外的に重用されるようになりました。

仙石秀久の武将年表

大友宗麟の武将年表

大友宗麟の武将年表
キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。 青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。 大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。

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最上義光の武将年表

最上義光の武将年表
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。

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