戦国武将の生涯

榊原康政の武将年表

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榊原康政(さかきばらやすまさ)は、徳川家康の重臣であった本多忠勝(ほんだただかつ)や井伊直政(いいなおまさ)、そして酒井忠次(さかいただつぐ)に並ぶ、「徳川四天王」のひとり。三河一向一揆で初陣を飾った際の武功により、徳川家康から「康」の字を賜っています。
もともとの身分は決して高くはなかった榊原康政でしたが、陪臣(ばいしん:臣下の家臣)から小姓(こしょう)、重臣へと成り上がり、最終的には、上野国館林藩(現在の群馬県館林市)の初代藩主にもなった人物です。 そんな榊原康政の有名な逸話が、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)でのできごと。榊原康政は、この戦いで豊臣秀次(とよとみひでつぐ)や森長可(もりながよし)、池田恒興(いけだつねおき)を討ち取るなど、大きな手柄を挙げましたが、その一方で、豊臣秀吉にある書状を送ります。そこには豊臣秀吉を非難する内容が書かれており、それを読んだ豊臣秀吉は大激怒。これは、あえて相手を怒らせて、動揺させるための作戦でした。このことからも分かるように榊原康政は、武力だけでなく、知略にも長けた武将であったと伝えられています。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1548年(保元4年/
平治元年)
1
榊原長政(さかきばらながまさ)の次男として、三河国上野郷(現在の愛知県豊田市)で生まれる。
1560年(永禄3年) 13
仕えていた松平元康(のちの徳川家康)に取り入れられ、小姓となる。
1562年(永禄5年) 15
父・榊原長政が死去。これにより榊原康政は、兄・榊原清政(さかきばらきよまさ)を差し置き、榊原家の家督を継承。
1563年(永禄6年) 16
三河一向一揆で初陣を飾る。このときに武功を立てて、徳川家康から「康」の字の偏諱(へんき)を賜る。
1566年(永禄9年) 19
元服を経て、同い年である本多忠勝と共に、旗本先手役に抜擢される。与力(よりき:足軽大将や侍大将などに付き従う騎士)50騎を、徳川家康より与えられる。
1570年(永禄13年/
元亀元年)
23
姉川の戦いに参戦。朝倉軍を側面から攻めたて、敗走に追いやる武功を挙げる。
1572年(元亀3年) 25
武田信玄軍と、徳川家康・織田信長連合軍が衝突した三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)に参戦。徳川・織田軍は敗北し、撤退を余儀なくされるが、その際に榊原康政は、知略を巡らせて武田軍を瓦解させた。
1575年(天正3年) 28
長篠の戦い(ながしののたたかい)に参戦し、徳川本陣に急襲をかけてきた内藤昌豊(ないとうまさとよ)から、徳川家康を守る。
1581年(天正9年) 34
高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)に参戦。先陣を務める。横須賀藩(現在の静岡県掛川市)初代藩主となる長男・国千代(のちの[大須賀忠政][おおすがただまさ])が誕生。
1582年(天正10年) 35
本能寺の変のあと、徳川家康の伊賀越えに同行。
1584年(天正12年) 37
小牧・長久手の戦いに参戦。豊臣秀吉の甥にあたる豊臣秀次の部隊を撃破。森長可や池田恒興らも討ち取る。さらには、織田家を乗っ取ろうとした豊臣秀吉へ檄文(げきぶん:自分の意見や主張を記し、行動などを促す書状)を送り、それを読んだ豊臣秀吉は激怒。榊原康政の首に、10万石の懸賞金が懸けられた。
1585年(天正13年) 38
次男・榊原忠長(さかきばらただなが)が誕生。
1586年(天正14年) 39
徳川家康と共に上洛。
従五位下・式部大輔(じゅごいのげ・しきぶのたゆう)の官位を授かり、豊臣秀吉より豊臣姓を賜る。
1590年(天正18年) 43
小田原征伐に参戦。徳川軍の先手を務める。そのあと、館林10万石を与えられ、館林の堤防工事や街道整備に力を尽くす。三男・榊原康勝(さかきばらやすかつ:のちの館林藩2代藩主)が誕生。
1599年(慶長4年) 52
調停役として、宇喜多秀家のお家騒動を鎮静する。
1600年(慶長5年) 53
関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従軍。進軍中、上田城長野県上田市:城主は[真田昌幸])を攻めるも苦戦。
これにより関ヶ原本戦に間に合わなかった徳川秀忠は、徳川家康の怒りを買う。そのあと、榊原康政が2人の仲を取り持ったとされる。
1604年(慶長9年) 57
次男・榊原忠長が死去。
1606年(慶長11年) 59
毛嚢炎(もうのうえん)を患い死去。このとき、関ヶ原の戦いで恩がある徳川秀忠が榊原康政のもとへ、医師や家臣を遣わせたと伝わる。榊原家の家督は、三男・榊原康勝が継承。
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榊原康政の武将年表

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滝川一益の武将年表

滝川一益の武将年表
滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。 しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。 滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

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仙石秀久の武将年表

仙石秀久の武将年表
仙石秀久(せんごくひでひさ)は、小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)初代藩主を務めた戦国武将。安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、少年期より豊臣秀吉に仕えました。淡路平定に大きく貢献したことから、豊臣秀吉より淡路国(現在の兵庫県淡路島)50,000石、さらに讃岐国(現在の香川県)を与えられ、一国一城の主(あるじ)に出世したのです。 しかし、その翌年の九州征伐で転機が訪れます。仙石秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や十河存保(そごうまさやす/ながやす)など、四国勢約3,000人の兵を率いて島津軍のいる九州に向かうのですが、もともと四国勢とは敵対する関係であったため、結束が乏しく統率が上手く取れませんでした。 それに焦った仙石秀久は豊臣秀吉からの指示も無視して島津軍と交戦し、結局は大敗を喫して敗走。この失態に豊臣秀吉が激怒し、讃岐国を召し上げられ高野山追放の処分を受けてしまいます。そのあとは、再起を懸けて小田原征伐に参加。そこで武功を挙げたことにより、信濃国小諸50,000石を与えられ、大名に復帰したのです。 そして江戸時代に入ると江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と親交を深め、外様大名ながら例外的に重用されるようになりました。

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大友宗麟の武将年表

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キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。 青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。 大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。

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最上義光の武将年表

最上義光の武将年表
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。

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