戦国武将の生涯

真田昌幸の武将年表

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真田昌幸(さなだまさゆき)は、武田信玄に仕えたのち、織田信長や上杉謙信、豊臣秀吉と次々に主君を変えながら、巧みに生き抜いた武将。大河ドラマ「真田丸」の主人公として取り上げられた、真田幸村(真田信繁[さなだのぶしげ])の父親としても知られている人物です。
そんな真田昌幸は、関ヶ原の戦いの際に、徳川家康率いる東軍と、石田三成が中心となって結成された西軍、どちらが勝利を収めるのか読めなかったため、真田昌幸の嫡男・真田信之(さなだのぶゆき)を徳川方に、自身と次男の真田幸村を石田方に付き従わせることを決めています。
これは、真田家を存続させるために取った道。真田昌幸が思慮深い策士であったことが窺えるのです。同合戦で東軍が勝利したことにより、真田昌幸は真田幸村と共に、九度山(現在の和歌山県九度山町)へ流されることになりました。このとき真田昌幸は、真田信之との別れ際に、「さてもさても口惜しきかな。内府(徳川家康)をこそ、このようにしてやろうと思っていたのに」と、その悔しさを語ったことが伝えられています。これは、息子の真田信之との別れに募る寂しさだけでなく、真田昌幸が、自らの知恵や戦力に自信があったことの表れとも言えるのです。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1547年(天文16年) 1
真田幸隆(さなだゆきたか)の三男として、真田の里(現在の長野県上田市)で生まれる。幼名は源五郎(げんごろう)。
1553年(天文22年) 7
甲斐国(現在の山梨県)の武田晴信(のちの武田信玄)のもとへ人質として預けられる。
1561年(永禄4年) 15
第4次川中島の戦いで、武田信玄の警護として初陣を飾る。
1564年(永禄7年) 18
山手殿(菊亭晴季[きくていはるすえ]の娘)を妻に迎える。
1566年(永禄9年) 20
甲府一蓮寺での歌会で、「奥近習衆」(おくきんじゅうしゅう:武田信玄の側近)として、武田信玄の配膳役を務める。
1567年(永禄10年) 21
武田勝頼の嫡男である武田信勝が生まれた際に、武田信玄の使者として、高遠城(たかとおじょう:現在の長野県伊那市)の武田勝頼のもとに出向く。
1569年(永禄12年) 23
武田家北条家が争った「三増峠の戦い」(みませとうげのたたかい)で、先陣の馬場信春への使番を務める。武田家側の勝利。
1572年(元亀3年) 26
武田信玄の「西上作戦」(さいじょうさくせん)に参陣。暮れに「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)にも参加。
1573年(元亀4年/
天正元年)
27
武田信玄が病死。
武田家の家督を継いだ武田勝頼に仕える。
1574年(天正2年) 28
父・真田幸隆が死去。
1575年(天正3年) 29
長篠の戦い」で武田家は、織田信長徳川家康連合軍に大敗を喫す。
真田信綱・真田昌輝が討ち死にする。
1579年(天正7年) 33
武田勝頼の命令により、北条氏政(ほうじょううじまさ)の所領であった沼田城(現在の群馬県沼田市)へ侵攻し切り崩す。一方で、現在の群馬県利根郡にあった名胡桃城(なぐるみじょう)と小川城を攻めて入手。
1580年(天正8年) 34
沼田城攻撃を再開し、開城させる。同時期に猿ヶ京城(さるがきょうじょう)も攻め落とす。武田勝頼から「安房守」(あわのかみ)の名乗りを許される。
1582年(天正10年) 36
織田信長から旧領を与えられ、織田信長の重臣・滝川一益(たきがわかずます)の与力武将となる。沼田城に戻り、北条家を裏切り徳川方となるが、見返りについて納得できず、上杉景勝(うえすぎかげかつ)に臣従する。
1583年(天正11年) 37
徳川家康に命じられ、千曲川領域を押さえるため、松尾城(現在の長野県小県郡:別称[真田本城])とその城下町を築く。徳川家の家臣として、丸子家を滅ぼす。
1584年(天正12年) 38
小牧・長久手の戦いでは、上杉景勝を引き付けておくため、信濃国(現在の長野県)に残留。沼田・吾妻などを真田領として掌握。
1585年(天正13年) 39
次男の真田幸村を人質にして徳川家康と離れ、上杉景勝に従属する。徳川家康と北条氏直(ほうじょううじなお)によって、沼田城を侵攻されるが、相手方の3分の1以下の兵力で大勝する。(第1次上田城合戦)
1586年(天正14年) 40
佐久に侵攻。北条氏直によって沼田城を攻撃されるが、撃退に成功。真田軍の生き残りを懸け、豊臣秀吉に従属することを決める。
1587年(天正15年) 41
駿府(現在の静岡県静岡市葵区)で徳川家康と会見し、そのあと豊臣秀吉と謁見。正式に豊臣秀吉の家臣となる。
1589年(天正17年) 43
豊臣秀吉により沼田領が裁定され、真田昌幸は代替地として、伊那郡箕輪領を手に入れる。
1590年(天正18年) 44
小田原征伐により北条家が滅亡。
1592年(天正20年/
文禄元年)
46
文禄の役で肥前・名護屋城(現在の佐賀県唐津市)に在陣。
1593年(文禄2年) 47
大坂に帰陣し、豊臣秀吉の隠居城・伏見城(現在の京都府京都市伏見区)の普請役の負担を命じられる。
1594年(文禄3年) 48
安房守に正式に任官される(従五位下安房守)。
1597年(慶長2年) 51
豊臣秀吉の命令により、宇都宮国綱が改易。浅野長政と共に、その所領没収の対処に当たる。
1600年(慶長5年) 54
関ヶ原の戦いが勃発。真田昌幸は、徳川家の重臣・本多忠勝の娘・小松姫と結婚している嫡男の真田信之を、徳川家側(東軍)に属させる。一方で、真田昌幸と真田幸村は、石田家側(西軍)に与した。徳川家の勝利で幕を閉じ、石田家に付いた真田昌幸と真田幸村は、徳川家康より高野山(現在の和歌山県伊都郡)に蟄居を命じられたが、ほどなくして九度山に移される。
1603年(慶長8年) 57
九度山からの赦免を望み、信綱寺(現在の長野県上田市)へ書状を送る。
1611年(慶長16年) 65
九度山にて死去。
合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。
岐阜関ケ原古戦場記念館
「岐阜関ケ原古戦場記念館」の体験コーナーや展示内容など、施設の魅力をご紹介します。

真田昌幸の武将年表

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朝倉義景の武将年表

朝倉義景の武将年表
朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。

朝倉義景の武将年表

滝川一益の武将年表

滝川一益の武将年表
滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。 しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。 滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

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仙石秀久の武将年表

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仙石秀久(せんごくひでひさ)は、小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)初代藩主を務めた戦国武将。安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、少年期より豊臣秀吉に仕えました。淡路平定に大きく貢献したことから、豊臣秀吉より淡路国(現在の兵庫県淡路島)50,000石、さらに讃岐国(現在の香川県)を与えられ、一国一城の主(あるじ)に出世したのです。 しかし、その翌年の九州征伐で転機が訪れます。仙石秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や十河存保(そごうまさやす/ながやす)など、四国勢約3,000人の兵を率いて島津軍のいる九州に向かうのですが、もともと四国勢とは敵対する関係であったため、結束が乏しく統率が上手く取れませんでした。 それに焦った仙石秀久は豊臣秀吉からの指示も無視して島津軍と交戦し、結局は大敗を喫して敗走。この失態に豊臣秀吉が激怒し、讃岐国を召し上げられ高野山追放の処分を受けてしまいます。そのあとは、再起を懸けて小田原征伐に参加。そこで武功を挙げたことにより、信濃国小諸50,000石を与えられ、大名に復帰したのです。 そして江戸時代に入ると江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と親交を深め、外様大名ながら例外的に重用されるようになりました。

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大友宗麟の武将年表

大友宗麟の武将年表
キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。 青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。 大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。

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最上義光の武将年表

最上義光の武将年表
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。

最上義光の武将年表