戦国武将の生涯

小早川秀秋の武将年表

文字サイズ

小早川秀秋(こばやかわひであき)は、3歳で豊臣秀吉の養子、12歳で毛利元就(もうりもとなり)の三男・小早川隆景(こばやかわたかかげ)の養子となるなど、周囲の思惑に翻弄される人生を歩みました。
いわゆる朝鮮出兵である慶長の役では、若き総大将として功績を残すも、豊臣秀吉から突如帰国命令を受け、大幅減封。関ヶ原の戦いでは、当初豊臣家ゆかりの者として西軍にいながら、いきなり東軍へと寝返ったことが、東軍(徳川方)勝利の一因となったと言います。そしてその2年後、21歳の若さで夭逝ようせつ)しました。
そんな小早川秀秋に、朝鮮出兵の際、豊臣秀吉から手渡された日本刀が、2代 長船兼光(おさふねかねみつ)作・波泳ぎ兼光(なみおよぎかねみつ)。小早川秀秋亡きあと、徳川家康の六男・松平忠輝(まつだいらただてる)から、立花宗茂(たちばなむねしげ)へと受け継がれました。
また、関ヶ原の戦いで東軍を有利に導いた小早川秀秋は、徳川家康より、岡山55万石に加増、移封(いほう)されます。その返礼として、徳川家康に献上した1振が、「岡山藤四郎」(おかやまとうしろう)と号する短刀です。この刀は現在、東京国立博物館(東京都台東区)に収蔵されています。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1582年(天正10年) 1
豊臣秀吉の妻である高台院の兄・木下家定(きのしたいえさだ)の五男として長浜(現在の滋賀県長浜市)に生まれる。幼名は辰之助(しんのすけ)、通称は金吾中納言(きんごちゅうなごん)。
1585年(天正13年) 4
叔父・豊臣秀吉の養子となり、高台院に育てられる。羽柴(豊臣)秀俊(はしば[とよとみ]ひでとし)を名乗る。
1589年(天正17年) 8
豊臣秀吉の甥・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に次ぐ豊臣家の後継者候補として、丹波国・亀山城三重県亀山市)10万石を賜る。
1592年(天正20年/
文禄元年)
11
従三位・権中納言(ごんちゅうなごん)・左衛門督(さえもんのかみ)に任命される。
1593年(文禄2年) 12
豊臣秀吉に嫡男・豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生。跡継ぎ問題を恐れた黒田孝高(くろだよしたか:別称[黒田官兵衛])が、豊臣秀俊を豊臣政権下の五大老・毛利輝元(もうりてるもと)の養子にと、毛利元就の三男・小早川隆景に働きかける。
小早川隆景は、弟である穂井田元清(ほいだもときよ)の嫡男・毛利秀元(もうりひでもと:毛利家の養子)を毛利輝元の後継者にし、豊臣秀俊は自身の養子に欲しいと申し出る。
1594年(文禄3年) 13
小早川隆景の養子となり、豊臣秀俊から小早川秀俊(こばやかわひでとし)に改名。
1595年(文禄4年) 14
豊臣秀吉の後継者候補であったのにもかかわらず、謀反の嫌疑をかけられた豊臣秀次が、豊臣秀吉の命令で切腹。
小早川秀俊も、豊臣秀次の謀反にかかわったとされ、所領・丹波亀山が没収される。小早川隆景が隠居し、家督を譲り受けた小早川秀俊は、筑前国(現在の福岡県西部)30万7000石の国主となる。
1597年(慶長2年) 16
2月、豊臣秀吉の軍令により、小早川秀俊の朝鮮半島への渡海が決定。6月、小早川隆景が没し、朝鮮で小早川秀俊から小早川秀秋へ改名。
1598年(慶長3年) 17
豊臣秀吉の要請を受け、朝鮮より帰国。
筑前を没収され、越前国・北ノ庄(現在の福井県福井市)15万石へと大幅減封される。豊臣秀吉の没後、徳川家康ら五大老により、筑前没収の処分が取り消される。
1600年(慶長5年) 19
上杉景勝(うえすぎかげかつ)を討つための会津征伐へ、徳川家康を中心とした連合軍(東軍)が出陣。しかし、石田三成の挙兵を徳川家康が知ったことにより、同征伐は中止となる。一方で石田三成は、大老・毛利輝元を総大将とする西軍を組織。小早川秀秋も石田三成の要請を受けて、西軍として伏見城の戦いに参加する。
事前に徳川家康と通じていた小早川秀秋は、関ヶ原の戦い決戦の直前、9月14日頃に急遽軍勢を率いて、関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)の南西にある、松尾山城から伊藤盛正(いとうもりまさ)を追い出して入城。
関ヶ原の戦いにおいて小早川秀秋は、東軍に寝返り、西軍は惨敗。そのあと、石田三成の居城・佐和山城(滋賀県彦根市)を落城させ、関ヶ原の戦いの戦功により、岡山55万石に加増される。名前の表記を小早川秀詮(こばやかわひであき)に改名。
1602年(慶長7年) 21
関ヶ原の戦いからわずか2年後に急逝。その死因は、幼少時から習慣化していた多量の飲酒による、アルコール性の内臓疾患が有力な説となっている。
東京国立博物館の特集コンテンツ
刀剣をはじめ貴重なコレクションが豊富な国内で最も長い歴史をもつ博物館をご紹介します。
合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。
岐阜関ケ原古戦場記念館
「岐阜関ケ原古戦場記念館」の体験コーナーや展示内容など、施設の魅力をご紹介します。

小早川秀秋の武将年表

小早川秀秋の武将年表をSNSでシェアする

「戦国武将の生涯」の記事を読む


滝川一益の武将年表

滝川一益の武将年表
滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。 しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。 滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

滝川一益の武将年表

仙石秀久の武将年表

仙石秀久の武将年表
仙石秀久(せんごくひでひさ)は、小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)初代藩主を務めた戦国武将。安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、少年期より豊臣秀吉に仕えました。淡路平定に大きく貢献したことから、豊臣秀吉より淡路国(現在の兵庫県淡路島)50,000石、さらに讃岐国(現在の香川県)を与えられ、一国一城の主(あるじ)に出世したのです。 しかし、その翌年の九州征伐で転機が訪れます。仙石秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や十河存保(そごうまさやす/ながやす)など、四国勢約3,000人の兵を率いて島津軍のいる九州に向かうのですが、もともと四国勢とは敵対する関係であったため、結束が乏しく統率が上手く取れませんでした。 それに焦った仙石秀久は豊臣秀吉からの指示も無視して島津軍と交戦し、結局は大敗を喫して敗走。この失態に豊臣秀吉が激怒し、讃岐国を召し上げられ高野山追放の処分を受けてしまいます。そのあとは、再起を懸けて小田原征伐に参加。そこで武功を挙げたことにより、信濃国小諸50,000石を与えられ、大名に復帰したのです。 そして江戸時代に入ると江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と親交を深め、外様大名ながら例外的に重用されるようになりました。

仙石秀久の武将年表

大友宗麟の武将年表

大友宗麟の武将年表
キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。 青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。 大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。

大友宗麟の武将年表

最上義光の武将年表

最上義光の武将年表
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。

最上義光の武将年表

注目ワード
注目ワード