戦国武将の生涯

黒田長政の武将年表

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福岡藩(現在の福岡県)初代藩主・黒田長政(くろだながまさ)は、軍師として名を馳せた黒田官兵衛(くろだかんべえ)の嫡男として生まれました。幼少期は、豊臣秀吉とその正室・ねね(高台院[こうだいいん])のもとに人質として出されていましたが、2人に可愛がられながら成長。10歳の頃には、織田信長から父・黒田官兵衛にかけられた嫌疑で処刑されそうになりますが、疑いが晴れ、その難から逃れることができました。
関ヶ原の戦いでの働きにより、かの徳川家康からも高い評価を得て、大大名となります。そして徳川家康より拝領した地に福岡城(福岡市中央区)を築城。現代では九州最大の都市となった「福岡」という地名は、黒田家が名付けたのでした。
そんな黒田家には、織田信長から賜ったと言われる「へし切長谷部」と号する名刀が伝わっており、現在は国宝に指定されています。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1568年(永禄11年) 1
黒田官兵衛の嫡男として、姫路城兵庫県姫路市)に生まれる。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)。
1577年(天正5年) 10
人質として豊臣秀吉に預けられる。
1578年(天正6年) 11
父・黒田官兵衛が、有岡城(ありおかじょう:兵庫県伊丹市)で荒木村重(あらきむらしげ)によって拘束される。黒田長政は、織田信長の命により処刑されることになったが、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)に匿われる(かくまわれる)。
1579年(天正7年) 12
織田信長軍による有岡城の陥落後、父・黒田官兵衛が救出される。
1582年(天正10年) 15
本能寺の変で織田信長が自刃したのち、父と共に豊臣秀吉に仕える。備中高松城の戦い(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)で初陣を飾る。
1583年(天正11年) 16
賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で武功を挙げ、河内国(現在の大阪府東部)内に領地を賜る。
1584年(天正12年) 17
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で、大坂城大阪市中央区)の留守居(るすい)を務め、長宗我部水軍(ちょうそかべすいぐん)と戦い、功績を挙げる。
1587年(天正15年) 20
九州平定における財部城(たからべじょう:宮崎県。のちの「高鍋城」)攻めで武功を挙げる。
父・黒田官兵衛の影響を受け、キリスト教の洗礼を受ける。洗礼名はダミアン。豊臣秀吉のバテレン禁止令により、キリスト教を棄教する。
1589年(天正17年) 22
黒田家の家督を相続し、従五位下(じゅごいのげ)と共に、甲斐守(かいのかみ)に叙任される。
1592年(天正20年/
文禄元年)
25
文禄慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)のため、朝鮮半島へ渡海。約5,000人の軍を率いた主将として活躍する。
1598年(慶長3年) 31
主君・豊臣秀吉が死去する。黒田長政は、蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)の娘・糸姫と結婚していたが離別。徳川家康の養女・栄姫(えいひめ)を正室として迎える。
1599年(慶長4年) 32
石田三成襲撃事件を起こす。
1600年(慶長5年) 33
関ヶ原の戦いに東軍として出陣。西軍・小早川秀秋(こばやかわひであき)らの寝返りに対する交渉も行った。
1601年(慶長6年) 34
筑前国(現在の福岡県西部)に入府。父と共に、福岡城福岡市中央区)の築城を始める。
1603年(慶長8年) 36
従四位下(じゅしいのげ)、及び筑前守に叙任される。
1604年(慶長9年) 37
父・黒田官兵衛が死去。
1606年(慶長11年) 39
福岡城が完成。福岡藩初代藩主となる。
父・黒田官兵衛の供養のため、大徳寺京都市北区)境内に、塔頭(たっちゅう)である龍光院(りょうこういん)を建立。
1612年(慶長17年) 45
嫡男の黒田忠之(くろだただゆき)と共に上洛。江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)より、松平(まつだいら)の名字を賜る。
1614年(慶長19年) 47
大坂冬の陣江戸城東京都千代田区)の留守居役を務め、代理として黒田忠之を出陣させる。
1615年(慶長20年/
元和元年)
48
大坂夏の陣では陣を構えて参戦し、豊臣秀頼(とよとみひでより)軍と争う。
1623年(元和9年) 56
報恩寺(ほうおんじ:京都市上京区)にて死去。
合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。
岐阜関ケ原古戦場記念館
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黒田長政の武将年表

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朝倉義景の武将年表

朝倉義景の武将年表
朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。

朝倉義景の武将年表

滝川一益の武将年表

滝川一益の武将年表
滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。 しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。 滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

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仙石秀久の武将年表

仙石秀久の武将年表
仙石秀久(せんごくひでひさ)は、小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)初代藩主を務めた戦国武将。安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、少年期より豊臣秀吉に仕えました。淡路平定に大きく貢献したことから、豊臣秀吉より淡路国(現在の兵庫県淡路島)50,000石、さらに讃岐国(現在の香川県)を与えられ、一国一城の主(あるじ)に出世したのです。 しかし、その翌年の九州征伐で転機が訪れます。仙石秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や十河存保(そごうまさやす/ながやす)など、四国勢約3,000人の兵を率いて島津軍のいる九州に向かうのですが、もともと四国勢とは敵対する関係であったため、結束が乏しく統率が上手く取れませんでした。 それに焦った仙石秀久は豊臣秀吉からの指示も無視して島津軍と交戦し、結局は大敗を喫して敗走。この失態に豊臣秀吉が激怒し、讃岐国を召し上げられ高野山追放の処分を受けてしまいます。そのあとは、再起を懸けて小田原征伐に参加。そこで武功を挙げたことにより、信濃国小諸50,000石を与えられ、大名に復帰したのです。 そして江戸時代に入ると江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と親交を深め、外様大名ながら例外的に重用されるようになりました。

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大友宗麟の武将年表

大友宗麟の武将年表
キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。 青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。 大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。

大友宗麟の武将年表

最上義光の武将年表

最上義光の武将年表
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。

最上義光の武将年表