戦国武将の生涯

大谷吉継の武将年表

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大谷吉継(おおたによしつぐ)は、近江国(現在の滋賀県)出身とされていますが、その出生については諸説紛々としています。豊臣秀吉のもとで功績を挙げていき、「100万人の兵を与えて、自由に指揮させたい」と言われたと伝えられるほどに、軍師としての才能を豊臣秀吉に認められ、着々と出世していきました。
病と闘い、顔を白い布で覆っていたとされる大谷吉継には、同じ豊臣秀吉の家臣のなかでもとりわけ友情が深かった石田三成との逸話が多く残されています。例えば、大坂城における豊臣秀吉主催の茶会の際に、大谷吉継が口を付けたお茶を他の諸将達が避けようとしたなかで、石田三成だけが飲み干したとする一件や、関ヶ原の戦いにおいて徳川家康との対決の覚悟を石田三成から聞いた大谷吉継が、負けを予測しながらも親友・石田三成のために命を捧げた結末などが有名です。大谷吉継の愛刀のなかで1振だけ現存しているのが、短刀の名物「包丁藤四郎」(ほうちょうとうしろう)。関ヶ原の戦いでの自害の際に徳川方の東軍が奪い、徳川家康に献上したと言われています。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1565年(永禄8年) 1
近江国で生まれる。幼名は桂松(よしまつ)。
1582年(天正10年) 18
備中高松城の戦い(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)において、豊臣秀吉の馬廻(うままわり:大将の乗った馬の周辺で警護をする騎馬武者)として従軍。
1583年(天正11年) 19
賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)に参陣し、計略によって、敵方の長浜城滋賀県長浜市)の城主・柴田勝豊(しばたかつよし)と内通する。
1585年(天正13年) 21
豊臣秀吉による紀州征伐に従軍し、敵対した紀州勢力の杉本荒法師を槍ひと突きで討ち取る武功を立てる。キリスト教に改宗する。従五位下・刑部少輔(じゅごいのげ・ぎょうぶしょうゆう)に叙任される。
1586年(天正14年) 22
九州征伐では石田三成のもとで戦い、功績を挙げる。
1589年(天正17年) 25
越前国・敦賀城(つるがじょう:現在の福井県敦賀市)の城主となる。
1590年(天正18年) 26
小田原征伐、奥州仕置(おうしゅうしおき)に従軍し、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)での検地を担当。
1592年(天正20年/
文禄元年)
28
文禄の役において、船奉行、及び軍監として勲功を立てる。
1593年(文禄2年) 29
太宰府天満宮福岡県太宰府市)に一対の鶴亀文懸鏡(つるかめもんかけかがみ)を奉納。
1598年(慶長3年) 34
文禄の役に続く朝鮮出兵・慶長の役の最中に、日本で豊臣秀吉が死去する。
1599年(慶長4年) 35
石田三成襲撃事件が勃発。武断派である豊臣家家臣らと共に、徳川家康を警護し、解決に協力する。
1600年(慶長5年) 36
浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)で丹羽長重(にわながしげ)側の西軍に加わり、前田軍を制圧。そのあと、美濃国(現在の岐阜県南部)へと進出し、石田三成率いる西軍の一員として、関ヶ原の戦いに参戦。奮闘するも自身の部隊が壊滅状態に陥り、自害する。
合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。
岐阜関ケ原古戦場記念館
「岐阜関ケ原古戦場記念館」の体験コーナーや展示内容など、施設の魅力をご紹介します。

大谷吉継の武将年表

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朝倉義景の武将年表

朝倉義景の武将年表
朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。

朝倉義景の武将年表

滝川一益の武将年表

滝川一益の武将年表
滝川一益(たきがわいちます/かずます)は、明智光秀や柴田勝家らと並ぶ、織田信長の重臣・織田四天王のひとり。織田信長のもとで伊勢国(現在の三重県北中部)や伊賀国(現在の三重県伊賀地方)の攻略において活躍し、反織田信長派による長島一向一揆を平定。そのあと長島城(三重県桑名市)の城主となります。伊勢水軍を配下に置き、水軍の将と呼ばれる一方、陸上での鉄炮を用いた戦術にも長けており、水陸いずれの戦においても高い能力を発揮。武田勝頼(たけだかつより)攻めでの戦功により、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)と信濃国(現在の長野県)の一部を拝領し、厩橋城(まやばしじょう:群馬県前橋市、のちの前橋城)城主、そして関東管領(かんとうかんれい)を務めました。 しかし、本能寺の変後は状況が一変。柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗するも、最終的に滝川一益は降伏し剃髪。さらには、小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で徳川家康に敗れ、蟄居(ちっきょ:自宅などに閉じ込めて謹慎させた、武士に科された刑罰の一種)の身となります。 滝川一益が名馬・海老鹿毛(えびしかげ)と共に、織田信長より授かった日本刀が、名刀と評される滝川高綱(たきがわたかつな)。平安時代中期頃に興った古備前派(こびぜんは)の特徴をよく示す1振であり、付帯されている朱塗鞘打刀拵(しゅぬりさやうちがたなこしらえ)も桃山文化の様式を象徴する名拵です。

滝川一益の武将年表

仙石秀久の武将年表

仙石秀久の武将年表
仙石秀久(せんごくひでひさ)は、小諸藩(こもろはん:現在の長野県小諸市)初代藩主を務めた戦国武将。安土桃山時代から江戸時代前期に活躍し、少年期より豊臣秀吉に仕えました。淡路平定に大きく貢献したことから、豊臣秀吉より淡路国(現在の兵庫県淡路島)50,000石、さらに讃岐国(現在の香川県)を与えられ、一国一城の主(あるじ)に出世したのです。 しかし、その翌年の九州征伐で転機が訪れます。仙石秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や十河存保(そごうまさやす/ながやす)など、四国勢約3,000人の兵を率いて島津軍のいる九州に向かうのですが、もともと四国勢とは敵対する関係であったため、結束が乏しく統率が上手く取れませんでした。 それに焦った仙石秀久は豊臣秀吉からの指示も無視して島津軍と交戦し、結局は大敗を喫して敗走。この失態に豊臣秀吉が激怒し、讃岐国を召し上げられ高野山追放の処分を受けてしまいます。そのあとは、再起を懸けて小田原征伐に参加。そこで武功を挙げたことにより、信濃国小諸50,000石を与えられ、大名に復帰したのです。 そして江戸時代に入ると江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と親交を深め、外様大名ながら例外的に重用されるようになりました。

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大友宗麟の武将年表

大友宗麟の武将年表
キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)は、北九州の国々を治めた戦国大名です。大友家の最盛期を築いた大友宗麟ですが、自身が合戦の先頭で指揮を常に執っていたわけではなく優秀な家臣の活躍によって支えられていたとも言われています。 青年期にフランシスコ・ザビエルと出会ったことにより、ポルトガルとのつながりが生まれ、南蛮貿易で得た経済力で勢力を拡大。その一方で大友宗麟は書画や茶道、蹴鞠(けまり)などに通じており、文化人としての顔も持ち合わせていました。 大友宗麟は、日本刀に限らず数々の名品を蒐集(しゅうしゅう:趣味などのために集めること)しており、そのうちのひとつである「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)と号する太刀は、大友宗麟が特に執心した1振。豊臣秀吉に献上後、徳川家に受け継がれて重要文化財に指定され、現在は、豊国神社(とよくにじんじゃ:京都府京都市東山区)にて所蔵されています。

大友宗麟の武将年表

最上義光の武将年表

最上義光の武将年表
最上家を「大大名」(だいだいみょう:10万石以上を領する大名)へと押し上げた最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)に生まれました。伊達政宗(だてまさむね)の伯父であることでも知られている人物です。子どもの頃から背が高く、大変な力持ちであったと言われており、盗賊に寝込みを襲われた際には、先頭に立って応戦して撃退したという逸話も残っています。そして、このときに最上義光は父である最上義守(もがみよしもり)より、名刀「笹切」(ささきり)を与えられたと伝えられているのです。家臣からの信頼も非常に厚かった(あつかった)最上義光は、妹の義姫(よしひめ)とも大変仲が良く、2人の間でやり取りされた私情をしたためた多くの書簡が残っています。笹切の他にも最上家に伝わった日本刀はいくつかあり、同家の家宝であった「鬼切丸」(おにきりまる:別称鬼切安綱[おにきりやすつな])がそのひとつ。鬼切丸は、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼を切ったという伝説から、その号が名付けられた1振です。

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