歴史上の実力者

中臣鎌足 ~中大兄皇子の腹心~

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蘇我氏を追放し「大化の改新」を行なった「中大兄皇子」(なかのおおえのおうじ)のちの「天智天皇」(てんじてんのう/てんちてんのう)とその腹心の「中臣鎌足」(なかとみのかまたり)のちの「藤原鎌足」(ふじわらのかまたり)。「日本」という国号や「天皇」という称号、さらに令和まで続く元号が生まれた飛鳥時代の「大化」に生きたナンバー1とナンバー2の関係とは?

ともに手を取り合って蘇我氏を追放!

聖徳太子

聖徳太子

天皇中心の国づくりを目指した「聖徳太子」が622年(推古天皇30年)に死去すると、大臣を務める蘇我氏が権勢を振るい、皇位継承における人事にも大きな発言力を持つようになりました。

641年(舒明天皇13年)に「舒明天皇」(じょめいてんのう)が崩御すると、翌年の642年(皇極天皇元年)に皇后が「皇極天皇」(こうぎょくてんのう)として即位。

この女性天皇擁立の背景には、蘇我氏の押す舒明天皇の第1皇子「古人大兄皇子」(ふるひとのおおえのみこ)と聖徳太子の子「山背大兄王」(やましろのおおえのおう)との間に皇位を巡る対立があったからと言われています。古人大兄皇子の母は「蘇我馬子」(そがのうまこ)の娘ということもあり、蘇我氏は何が何でも古人大兄皇子を天皇にしたかったのです。

皇極天皇のもとで大臣として実権を握った「蘇我入鹿」(そがのいるか)は、古人大兄皇子を次期天皇にすべく画策します。そして皇位継承権のある山背大兄王が邪魔だった蘇我入鹿は、643年(皇極天皇2年)に挙兵。山背大兄王のいる斑鳩宮(いかるがのみや)に攻め入り、自害に追い込んでしまいました。

中大兄皇子/天智天皇

中大兄皇子/天智天皇

この蘇我氏の横暴に憤りを感じていたのが、「中大兄皇子」(なかのおおえのおうじ)のちの「天智天皇」(てんじてんのう/てんちてんのう)と「中臣鎌足」(なかとみのかまたり)。

2人は蘇我入鹿の暗殺計画を練り、645年(皇極天皇4年)、朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)の使者が朝廷を訪れて貢物を献上する「三国の調の儀式」が執り行なわれる日に実行しました。

この日が選ばれたのは、朝廷への出仕を怠っていた蘇我入鹿も、この日ばかりは参朝が確実だと思われたから。一説には、三国の調の儀式自体が蘇我入鹿をおびき寄せるためのトラップだったとも言われています。

三国の調の儀式が始まると、中大兄皇子は自ら蘇我入鹿を殺害。蘇我入鹿の父である「蘇我蝦夷」(そがのえみし)は息子の訃報を聞くと自邸に火を放って自害しました。栄華を誇った蘇我氏(本宗家)はあっけなく滅びてしまいました。

蘇我入鹿暗殺のわずか2日後、中大兄皇子を皇太子とし、中臣鎌足を天皇の最高顧問で政務の機要を掌握する「内臣」(うちつおみ)とする新政府が樹立され、これまで無名だった中臣鎌足が事実上のナンバー2として歴史の表舞台に躍り出ます。

こののち中臣鎌足は、中大兄皇子の腹心として活躍し、日本史上初の官僚機構(諸豪族を編成した中央集権機構)を築き上げ、国政の改革に乗り出します。この一世一代のクーデター「乙巳の変」(いっしのへん)以降、中大兄皇子や中臣鎌足らによって行なわれた改革が「大化の改新」と呼ばれています。

「改新の詔」(かいしんのみことのり:孝徳天皇により発せられた新たな施政方針を示す詔)に記された内容は以下の4つでした。

第1条「公地公民制」
王族・豪族が支配していた土地や人民を国(天皇)が支配するというもの。
第2条「国郡制度」
全国を国(60以上)に、さらに国をいくつかの郡に分けるというもの。地方行政組織を定め、中央の朝廷からは国司が派遣され、各地の政治を行ないました。現在の47都道府県に似たような制度です。
第3条「班田収授法」(はんでんしゅうじゅのほう)
6年に一度戸籍を作り、戸籍にしたがって土地(公地)を公民に分け与えました。
第4条「租調庸の税制」(そちょうようのぜいせい)
公民に税を負担させる統一的税制を行ないました。

分かりやすく言えば、天皇中心の律令国家を築き、王族・豪族の権限を吸収し、取り上げる制度です。もちろん反発もありましたが、中臣鎌足はうまくコントロールしながら内政を整えていきました。その一方、外交では芳しい結果は得られませんでした。

唐の強大化や朝鮮半島の動乱などにより、日本と友好関係にあった国、百済(くだら)が滅びます。そこで、663年(天智天皇2年)、日本にいた百済皇子「扶余豊璋」(ふよほうしょう)を送還し、百済復興のために朝鮮へ援軍を送ります。しかし、唐・新羅(しらぎ)連合軍との戦争「白村江の戦い」(はくそんこうのたたかい)で、日本は無残にも敗れ去りました。

その結果、中大兄皇子は朝鮮から一切手を引き、近江遷都や九州に軍を配備するなど国防に力を入れ、内政に専念していくことになります。

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中大兄皇子をスカウト!?中臣鎌足と中大兄皇子の出会い

代々神事や祭祀を司る豪族の家に生まれ、幼い頃から学問に通じていた中臣鎌足は、蘇我氏に牛耳られた政治に危機感を抱き、クーデターを決意。ともに蘇我氏と戦い、政権を奪取したあとに天皇となる人物を探し始めます。

中臣鎌足は、皇極天皇の弟の「軽皇子」(かるみこ)に接触しますが器量不足と判断。次に白羽の矢を立てたのが中大兄皇子でした。中大兄皇子は舒明天皇と皇極天皇の子であるため皇位継承の資格は充分です。

飛鳥寺

飛鳥寺

中臣鎌足は中大兄皇子に接触するチャンスをうかがっていたのでしょう。

ある日、中大兄皇子が「法興寺」(ほうこうじ:現在の飛鳥寺奈良県高市郡)で蹴鞠に興じていたところ、鞠と一緒に靴まで飛ばしてしまいました。

中臣鎌足が靴を拾い中大兄皇子に捧げると、中大兄皇子は丁寧に礼を述べたと言います。中臣鎌足31歳、中大兄皇子19歳のできごとでした。

これを機会に2人は意気投合。中大兄皇子にとって古人大兄皇子は異母弟であり、自分もいつ蘇我氏に命を狙われてもおかしくないという危機感があったのかもしれません。2人は蘇我氏に知られないように、学問僧の「南淵請安」(みなぶちのしょうあん)の塾に通う道中、蘇我氏打倒を計画したといいます。

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中大兄皇子から采女(うねめ)を賜った中臣鎌足

大化の改新を成しとげた中大兄皇子と中臣鎌足は、プライベートでも強い絆で結ばれていたようです。その様子は「万葉集」に収録された中臣鎌足の歌に見てとれます。

「われはもや 安見児[やすみこ]得たり 皆人の 得難にすとふ 安見児得たり」

当時、地方の豪族から天皇に容姿端麗な女性を献上する風習があり、それらの女性達は「采女」(うねめ)と呼ばれ、男性の憧れだったとか。この歌は天智天皇となった中大兄皇子が、安見児という名前の采女を中臣鎌足に下賜したときのもの。「私は安見児を得たぞ!なかなか手に入れられない安見児を得たぞ!」と無邪気に喜びを表しています。

中臣鎌足の正妻「鏡王女」(かがみのおおきみ)も、元々天智天皇の妻だったと言われ、安見児と鏡王女が同一人物とする見方もあるようですが真相ははっきりしていません。

中臣鎌足から藤原鎌足へ

中臣鎌足(藤原鎌足)

中臣鎌足(藤原鎌足)

中臣鎌足は「藤原鎌足」(ふじわらのかまたり)としても知られています。

これは中臣鎌足が亡くなる直前に、天智天皇からこれまでの功績をたたえ、中臣鎌足の出生地である大和国高市郡藤原(現在の奈良県高市郡)にちなみ、藤原姓が与えられたからです。

つまり、中臣鎌足は現代まで続く「藤原姓の祖」であり、平安時代に摂関政治で隆盛を誇った「藤原道長」や「藤原頼通」(ふじわらのよりみち)も中臣鎌足の子孫にあたります。

中臣鎌足の生死にまつわるエトセトラ

談山神社

談山神社

中臣鎌足は、614年(推古天皇22年)に誕生し、669年(天智天皇8年)にこの世を去ります。

幼少期は「中臣鎌子」(なかとみのかまこ)と呼ばれていましたが、名付けのきっかけとなったのが、「白狐の伝説」です。

中臣鎌足が生まれたとき、鎌をくわえた白狐がやってきて赤ん坊だった中臣鎌足の足元に、鎌を置いていったという話。中臣鎌足を祀る奈良県の「談山神社」(だんさんじんじゃ)では、この伝説にちなみ、鎌をくわえた白狐のお守りが売られています。

また、中臣鎌足の死にまつわる伝説として、ミイラ伝説があります。中臣鎌足の墓として考えられている場所の有力候補が、大阪府の「阿武山古墳」(あぶやまこふん)。当時最高の官位であった「大織冠」(だいしょっかん)の冠帽が一緒に埋蔵された中臣鎌足と思われるミイラが発見されました。

晩年、天智天皇となった中大兄皇子と中臣鎌足は疎遠になったと言われていますが、やはり2人の絆は特別なものだったのでしょう。

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