南北朝時代

明徳の乱

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「明徳の乱」(めいとくのらん)は、1391年(明徳2年/元中8年)に有力守護大名「山名氏清」(やまなうじきよ)と「山名満幸」(やまなみつゆき)が室町幕府に対して起こした反乱のこと。「山名氏」は、守護大名の中でも11ヵ国を領地としていた大大名です。当時全国にあった国は66ヵ国で、そのうち6分の1を有していたことから「六分の一殿」(ろくぶんのいちどの)とも呼ばれていました。しかし、その大きすぎる勢力は3代将軍「足利義満」によって大きく削り取られることになります。明徳の乱はなぜ起きたのか。山名氏の動向と共に、事件の詳細をご紹介します。

足利義満の画策

細川氏を排除して経済的地盤を固める

足利義満

足利義満

鎌倉幕府滅亡後、足利氏は「後醍醐天皇」が行なった「建武の新政」を経て室町幕府を開きましたが、その政権は3代将軍「足利義満」の代になるまで不安定でした。

足利義満は、1368年(応安元年/正平23年)に父「足利義詮」(あしかがよしあきら)の跡を継いで将軍となりましたが、このときの年齢は弱冠10歳。そのため、足利義詮の遺言により後見人となったのが「細川頼之」(ほそかわよりゆき)です。

細川頼之は、幕府の権威を高めることにつとめましたが、自身の一族を幕府の要職に起用するだけではなく、他の大名を厳しく統制したため、次第に各地で反細川派が出現します。その筆頭は、足利氏の有力一門「斯波氏」(しばし)。のちに「明徳の乱」を起こす「山名氏」も斯波氏側に就いていました。

1379年(天授5年/康暦元年)、細川頼之が失脚する「康暦の政変」が勃発します。政変後、細川頼之は足利義満によって管領を解任。代わりに管領となったのが「斯波義将」(しばよしまさ)です。なお、足利義満が細川頼之を解任した本当の理由は、細川頼之が有していた巨大な影響力を排除するためだったのではないかと言われています。

足利義満は、将軍の権力を強めるために「奉行衆」と呼ばれる直轄の軍団を充実させました。具体的には、守護大名から没収した土地を与える他、幕府直轄地の代官に任命するなど、奉行衆を厚遇することで経済地盤を固めたのです。

土岐氏の勢力を削る

足利義満は、奉行衆を増強させたのち、有力守護大名の勢力削減に着手しました。

はじめに美濃国(現在の岐阜県南部)、尾張国(現在の愛知県西半部)、伊勢国(現在の三重県)の守護「土岐頼康」(ときよりやす)の後継者争いを利用して、土岐氏に内紛を起こさせます。

そして、足利義満は土岐頼康の甥「土岐康行」(ときやすゆき)を陥れるため、「土岐康行が内紛の混乱に乗じて室町幕府に謀反をした」という言いがかりを付けると、土岐氏一族の「土岐頼忠」(ときよりただ)と「土岐頼益」(ときよります)に対して土岐康行の討伐命令を下しました。

土岐康行の乱」と呼ばれるこの事件により、土岐氏の勢力は衰退。次に足利義満は、11ヵ国を有していた有力守護大名・山名氏の排除に動きます。

明徳の乱が起きるまで

家督相続が原因で対立

「明徳の乱」が起きる20年前の1371年(建徳2年/応安4年)、山名氏は、ある問題に直面していました。山名氏の惣領だった「山名時氏」(やまなときうじ)が亡くなり、さらに5年後の1376年(天授2年/永和2年)には、惣領を継いだ「山名師義」(やまなもろよし:山名時氏の嫡男)が急逝。次の家督は、山名師義の息子4人の誰かに継がれるかと思われましたが、このときに山名氏の行く末を決める事態が起きます。

山名師義の息子達は、まだ幼いことを理由に後継者から外され、代わりに惣領となったのが山名師義の末弟「山名時義」(やまなときよし)でした。しかし、この決定に不満を持ったのが「山名氏清」と「山名満幸」です。

山名氏清は、山名時氏の四男で山名時義の兄にあたる人物。山名時氏が没したのちに、遺領として丹波国(現在の京都府一部と兵庫県北部)を相続しましたが、惣領の座を弟・山名時義に奪われたことに不満を持ち、山名時義と対立します。

山名満幸は、山名師義の四男で山名氏清の娘婿です。山名時義は叔父にあたりますが、惣領に選ばれたのが自身の兄である「山名義幸」(やまなよしゆき)ではなかったことに対して不満を持っていました。

足利義満にそそのかされて山名時熙を討伐

山名時煕

山名時煕

山名時義が惣領に就いて以後、山名氏は領国を拡大して全国66ヵ国のうち11ヵ国を有する大大名になります。

しかし、1389年(元中6年/康応元年)に山名時義が亡くなり、山名時義の長男「山名時熙」(やまなときひろ)に家督が継がれると、山名満幸の不満が頂点に達しました。

当時、山名満幸は病弱な兄・山名義幸の代わりに代官として幕府に出仕していたため、山名氏嫡流の血筋である自分の存在を無視されたことに激しい怒りを感じたのです。

1390年(明徳元年/元中7年)、「土岐康行の乱」で土岐氏を衰退させた足利義満が、家督相続で揉める山名氏に近づきます。

足利義満は、山名満幸と山名氏清に対して「山名時熙は、幕府にたてつくような態度を取っているため討伐するように」と命じました。当然のことながら、これは山名氏の内部分裂を加速させるための口実です。

しかし、山名満幸らは足利義満に協力して山名時熙を討伐。なお、このとき山名師義の息子で山名時義の養子となっていた「山名氏之」(やまなうじゆき)も討伐の対象となっていたため、山名時熙と共に失脚しています。

明徳の乱

山名氏排除の総仕上げ

1391年(明徳2年/元中8年)、失脚させた山名時熙と山名氏之の所領がそれぞれ戦功として山名満幸と山名氏清に与えられたことで、山名氏の勢力はかえって強まりますが、すべては足利義満の計算通りに進んでいました。

逃亡していた山名時熙と山名氏之は、京都の「清水寺」で足利義満と対面。足利義満は、2人を赦免(しゃめん:罪を許すこと)したのち、山名満幸を「後円融上皇」(ごえんゆうじょうこう)の御料「横田荘」(よこたのしょう)を押領(おうりょう:所領を武力で奪い取ること)した罪に問い、出雲国(現在の島根県東半部)守護を解任しただけではなく、京都から追放します。

山名満幸は、足利義満の勝手な振る舞いに激怒し、山名氏清に協力を求めて挙兵すると京都へ進攻しました。

内野合戦

内野合戦

内野合戦

山名氏と幕府軍が激突した場所は、旧平安京の大内裏「内野」(うちの)です。

内野は、平安時代に起きた火災により周辺一帯が荒れ地となっており、この場所で両軍が衝突したことから「内野合戦」とも呼ばれています。

幕府軍は、内野の四方を囲むように軍を展開しました。

一方、山名満幸は北から、山名氏清は西から内野に向かう予定でしたが、途中で河内国(現在の大阪府)守護代「遊佐国長」(ゆさくになが)に阻まれて予定より遅れてしまいます。

山名氏清は、決戦を延期しようとしますが、戦いの最中に脱落者が出始めたため、やむなく進軍を続けました。

各地では激闘が繰り広げられます。二条大宮では、山名氏清の弟「山内義数」(やまうちよしかず)らが、幕府軍の「大内義弘」(おおうちよしひろ)に攻めかかりました。

山内義数が精鋭を率いて足利義満の本隊を急襲する策に出ると、大内義弘はこれを追撃。戦いの結果、山内義数軍は足利義満直轄の御馬廻(おうままわり:騎馬武者で構成された軍勢)に阻まれたことで、ほとんどが討ち取られました。

一方で、山名満幸はおよそ2,000騎を率いて西北方から内野へと向かい、幕府軍「畠山基国」(はたけやまもとくに)、「京極高詮」(きょうごくたかのり)、「細川頼元」(ほそかわよりもと)の軍勢約3,000騎と衝突。互角の戦いを繰り広げていましたが、幕府軍・御馬廻の救援で戦況は一変します。

到着した御馬廻の軍勢は、およそ5,000騎。山名満幸は、圧倒的兵力差により敗走し、丹波国へと落ち延びました。

山名氏清の軍は、大宮通りへと進軍して大内義弘と「赤松義則」(あかまつよしのり)の部隊と衝突。何度か打ち合ったのち、山名氏清の別働隊が赤松義則軍の側面に襲い掛かります。このとき、大内義弘軍は山内義数との戦いのあとということもあり疲弊していたため、山名氏清軍が勢いで押していました。

しかし、幕府軍の援軍として「一色詮範」(いっしきあきのり)、「斯波義重」(しばよししげ)、さらに足利義満自らが御馬廻を引き連れて出陣したことで、山名氏清軍は敗走。その後、山名氏清は逃げ延びようとした先で残党と共に討ち取られます。

のちに「明徳の乱」と呼ばれるこの戦いは、わずか1日で終結しました。

戦後の影響

1392年(明徳3年/元中9年)、山名氏が所領していた11ヵ国のうち、山名氏に安堵されたのはわずか3ヵ国で、それぞれ山名時煕、山名氏家(やまなうじいえ:山名氏清の甥)、山名氏之に与えられています。残りの8ヵ国は、幕府軍で活躍した諸大名へと分配されました。

一方で足利義満は、御馬廻による活躍で将軍権力を大いに見せ付けることに成功。そして、この活躍は「南北朝合一」にも繋がっていくのです。

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