武将と仏教信仰

戦国三英傑と宗教

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誰もが知っている戦国武将「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」は、愛着や尊敬を込めて「三英傑」と総称されます。三英傑の呼び名は、それぞれが戦国の世を泰平に導こうとしていたことや、3人とも愛知県出身であったことからまとめて呼称するようになりました。天下を目指したことは同じで、戦や政策などでも目覚ましい活躍をしています。けれど、三者三様まったく違う個性を持っていたことから、後世の人々から比較されることも多々ある三英傑の性格と信仰した対象について迫っていきましょう。

織田信長の宗教観と信仰心

織田信長

織田信長

織田信長」は、戦国時代の「革命児」とも言うべき革新的人物として、今も高い人気を誇る戦国武将です。

織田信長を革新的だと評している研究者に、「田中義成」(たなかよしなり)という方がいます。

その著書で、1980年(昭和55年)に出版された「織田時代史」では、織田信長について「織田信長の幕府を廃し皇室を奉戴して、海内統一の計画をなせしは、鎌倉以来400年の習慣を打破せる一大革新なりき」と記しているのです。

尾張国(現在の愛知県西部)と美濃国(現在の岐阜県南部)を平定した織田信長は、当時の室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)を廃して室町幕府を滅亡させました。そして天皇を擁立し、「天下統一」への事業を推し進めたことが革新的なできごとで、鎌倉時代以来の政治を打破したことだと言うのです。

このように織田信長は、古い伝統や因習にとらわれない、当時の時代にはない先駆けた思想を持っていました。「楽市楽座」の政策や関所の廃止、身分を問わない人材の登用など、挙げればきりがありません。

宗教勢力との対立

比叡山焼き討ちの様子

比叡山焼き討ちの様子

織田信長の革新的な事柄のなかには、中世から続く仏教の権威的な存在であった「比叡山延暦寺」(滋賀県大津市)の焼き討ちを行ったことなどが挙げられます。

1571年(元亀2年)に行われた「比叡山焼き討ち」ですが、このとき越前国(現在の福井県北東部)の朝倉氏と近江国(現在の滋賀県)の浅井氏と対立していた織田信長は、比叡山に向けて「こちらに味方をすれば何もしないが、どちらにも味方できないのならば中立を保って欲しい。これに背いた場合は堂をすべて焼き払う」と申し渡しました。

結果として比叡山側は回答を回避し、朝倉・浅井方に味方をしてしまいました。このことについて「信長公記」では「本来は合戦に口出しをするべきではない僧侶達が、朝倉氏や浅井氏に味方して、織田信長に反抗したからだ」と記されています。

仏教勢力との対立と言うのならば、本願寺教派の僧侶によって組織された「一向一揆」と激しく争った「石山合戦」も挙げられます。

こうしてみると織田信長はすべての神仏勢力と敵対関係にあったようにも見えますが、そうした訳ではなく、自らと敵対しない宗派については保護するなどの活動を行っていました。例えば1573年(天正元年)には、父祖の地でもある「津島神社」(愛知県津島市)の本殿を造営するなどしています。

安土城は宗教色が満載の城

安土城 想像図

安土城 想像図

織田信長は自らの掲げる「天下布武」(てんかふぶ:天下統一事業)を成し遂げるため、「岐阜城」(岐阜県岐阜市)から現在の滋賀県近江八幡市に新たな居城「安土城」を築城しました。

安土城は地下1階地上6階建て、「天主」(てんしゅ:安土城では[天守]をこのように表記)の高さが約32m。安土城以前にはない、独創的な意匠で誰もが圧倒される絢爛豪華な城であったと言われています。

しかし残念なことに、1582年(天正10年)に起きた「本能寺の変」で「明智光秀」が織田信長を討ったのち、明智光秀の家臣らが敗走時に放火し焼失してしまいました。その後は廃城となり、現在は石垣など一部の遺構が残るのみとなっています。

無神論者だと言われる織田信長ですが、城内における内装には神道・仏教・儒教・中国神話の思想について非常によく表れているのです。1579年(天正7年)1月、織田信長の家臣「太田牛一」(おおたぎゅういち)による「安土日記」に安土城の仔細が書かれていました。

まず天主の上から1重目は、「三皇五帝、孔門十哲、商山四皓、七賢、狩野永徳ニかゝせられ」とあります。

  • 「三皇五帝」(さんこうごてい)…中国神話における理想の君主のこと。
  • 「孔門十哲」(こうもんじってつ)…「孔子」(こうし)の最も優れた弟子の10人。
  • 「商山四晧」(しょうざんしこう)…中国秦代後期の乱世を避けて山に隠れた4人の仙人。
  • 「七賢」(しちけん)…儒教における哲学的講談を行った7人。別名「竹林の七賢」。

それらの絵は安土桃山時代の絵師「狩野永徳」(かのうえいとく)が描きました。

そして上から2重目は、「釈門十大御弟子等かゝせられ、釈尊御説法之所。御縁輪ニハ餓鬼共ニ鬼どもをかゝせられ、御縁輪のはた板ニハしやちほこひれうかゝせられ候」とあり、仏教的世界が描き出されていたことが分かります。こうして安土城の内装を知ると、織田信長が無神論者だったとは考えにくいのです。

しかし、キリスト教宣教師の「ルイス・フロイス」は自著の「日本史」で「彼は良き理解力と明晰な判断力を具え、神及び仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的卜占や迷信的習慣を軽蔑していた」と記しています。

このことから織田信長は、必要以上に信仰するということはなく、合理的に信仰心を使い分けている様子が見えて来るのではないでしょうか。

豊臣秀吉とキリスト教宣教師との関係

豊臣秀吉

豊臣秀吉

日本の歴史上、「豊臣秀吉」ほど人に好かれている人物はあまりいないことでしょう。

大人も子供も関係なく世代を超えて、豊臣秀吉が好きな人は圧倒的に多いのです。

この豊臣秀吉の人気を高くしている理由のひとつに「庶民であったこと」が挙げられます。

一介の農民から織田家に仕え足軽大将になり、織田信長に認められ、天下を統一する成功譚が人々を惹き付けてやまないのではないでしょうか。加えて、「太政大臣」(だいじょうだいじん/だじょうだいじん:朝廷で天皇に次ぐ最高長官)の座に就いてからも、明るく庶民的感覚を失うことはなく、誰に対しても数年来の友人のように接したと言います。

豊臣秀吉のキリスト教弾圧

誰に対しても屈託なく陽気に振る舞う豊臣秀吉でしたが、1587年(天正15年)に突如として「バテレン追放令」(バテレンはキリスト教宣教師のこと)を出しました。これまで豊臣秀吉は、主君だった織田信長がキリスト教を認めていたことから同じ路線を引き継ぎ、キリスト教に対しては寛容な態度を通してきました。

しかし、「九州征伐」を完了させ、九州の玄関口である筑前博多まで凱旋したときのこと。豊臣秀吉は同年6月19日に、「イエズス会」の副管区長「ガスパル・コエリヨ」のもとへ詰問状を送り付け、翌朝、諸大名に向けてバテレン追放令を指示。

その内容は5ヵ条からなり、1条目は「日本国ハ神国たる処、きりしたん国より邪法を授候儀、太以下可然候事」(日本は古の神々に守られた国であるのに、キリスト教の国から邪法を授かるのは、非常にけしからんことである)と書かれているのです。

日本神話である「古事記」には、「伊邪那岐」(イザナギ)と「伊邪那美」(イザナミ)の夫婦神がいます。この内の男神、伊邪那岐が「天沼矛」(あめのぬぼこ:日本書紀では[天之瓊矛]または[天瓊戈]と記される)で、空から日本の国土を混ぜ合わせたとき、多くの神々が生まれた記述があり、豊臣秀吉はこの話を信じていたということが分かります。つまり豊臣秀吉は、神国思想の持ち主だったのです。

そして3条目には、「宣教師は、日本の仏法を破っている。そのため日本にキリスト教の宣教師を置いておくことはできない」と書かれ、追放令が出されてから20日間のうちに、宣教師達は国に帰るようにと指示。このことから豊臣秀吉は、仏教も擁護していたことが分かります。

また、豊臣秀吉はキリスト教自体を禁じた訳ではなく、強制的な改宗を禁じていただけで、自らの意思で信者になることは許可しています。さらに、貿易のためのキリスト教徒による外国人渡航も認めていました。

バテレンを追放する理由

バテレン追放令には、前述した19日付の5ヵ条に加えて、「伊勢神宮」(三重県伊勢市)の神宮文庫から発見された18日付の11ヵ条のバテレン追放令もあります。この11ヵ条の方には、一向一揆に触れた条項がなんと3つも出てくるのです。

一向一揆は浄土真宗の本願寺派の勢力による各地で起きた一揆で、豊臣秀吉は主君・織田信長と共にその制圧に10年以上もの歳月を費やしました。信仰による戦がどれほど手強いのかを知っているからこそ、豊臣秀吉はバテレン達を追放するべきと考えたと言えます。一向一揆の構成員は、農民など身分の低い者が大半でしたが、キリスト教徒にはすでに多数の大名達がいたことから、もしキリスト教徒が一斉蜂起した場合は大変な事態になると懸念していたのです。

また、同時期、ポルトガル商人による日本人の奴隷交易問題が浮上していました。豊臣秀吉は、前述したガスパル・コエリヨにバテレン追放令についてと、奴隷交易を解決するため南蛮貿易禁止についても詰問しています。つまりバテレン追放令は、単なるキリスト教弾圧ではなく外交上の理由も深くかかわっていたのです。

これに対しイエズス会は、すでにポルトガル本国に日本人の奴隷売買を禁止するよう呼びかけていました。しかし、ポルトガル国王「セバスティアン1世」は、あまりに多い奴隷交易がキリスト教改宗の妨げになっていたことを受け、1571年(元亀2年)の時点で日本人の奴隷交易を禁止していたのです。

このことを豊臣秀吉は知らなかった可能性が高いのですが、豊臣秀吉としては計画通りバテレン追放がうまくいくよう注視していました。

徳川家康の江戸整備と陰陽五行説

徳川家康

徳川家康

徳川家康」は、長かった戦国時代に終止符を打ち、264年にも及ぶ江戸幕府の成立といった偉業を成し遂げた戦国武将です。

幼少期から少年期までは、織田家に次いで今川家の人質として過ごします。

17歳となった1560年(永禄3年)に、織田信長が「桶狭間の戦い」で「今川義元」(いまがわよしもと)を討ち取ったことで、今川家から独立。

織田信長と同盟を結び、織田信長と共に戦を行っていきました。

織田信長が本能寺の変で亡くなって以降は、豊臣秀吉に仕えるようになりますが、豊臣秀吉没後の1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で豊臣家を裏切る形で勝利。1603年(慶長8年)に、「征夷大将軍」となり江戸幕府が開かれました。

徳川家康の、何年も積み重ね、慎重に身の振り方を考えていく姿は、とても用心深く冷静です。この慎重さ用心深さも、幼少期からの人質生活に備わった処世術だったとも言えます。江戸幕府が開かれた江戸の都市整備にも、徳川家康のこうした慎重さが表れている場所が多いのです。徳川家康と江戸の町づくりについて見ていきましょう。

四神相応思想による江戸の町づくり

江戸の町づくりには、徳川家康の側近で天台宗の僧でもある「天海」の助言をもとに作られています。もともと「江戸城」(現在の東京都千代田区)は、1457年(長禄元年)に扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)の家臣「太田道灌」(おおたどうかん)が、麹町台地の東端に築いた平山城でした。徳川家康が入府してから約10年をかけて段階的に改修していくのです。

徳川家康は、江戸の町を作るにあたって、まず天海に命じて駿河国(現在の静岡県中部、北東部)から下総国(現在の千葉県北部、茨城県南西部)まで関東の地層を調べさせます。天海が、江戸の地が幕府の本拠地にふさわしいかを古代中国の陰陽五行説である「四神相応」(しじんそうおう)に照らし合わせた結果、作る決断に至りました。

この四神相応とは、東に川が流れ、西に山や道、南に湖や海があり、北に高い山がある土地は、都として栄えるとされた思想です。江戸は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったことから、四神相応の地として間違いないと天海は考えました。なお、四神相応の都には、中国唐の長安、日本の平城京と平安京などがこの思想に基づいてつくられています。

「鬼門」と「裏鬼門」で守られた町づくり

四神相応に続いて天海は、江戸城の北東と南西の方角にあたる「鬼門」と「裏鬼門」を重視。この鬼門とは、古来より鬼が出入りする方角として忌み嫌われていたのです。裏鬼門は鬼門の反対側の方角になり、鬼門同様に忌み嫌われていましたが、鬼門から入り込んだ鬼が抜けていくための道として重要な意味も持ちました。

また鬼は、絵画などで角が生えた恐ろしい顔付きの妖(あやかし)として描かれますが、実際は流行病や疫病などを指していたと言われています。

鬼門と裏鬼門に相当する神社仏閣の配置

鬼門と裏鬼門に相当する神社仏閣の配置

天海は、江戸城の北東にあたる鬼門に「寛永寺」(かんえいじ:東京都台東区)を築き、自らその守りになるよう住職を務めました。

この寛永寺の寺号は「東叡山」(とうえいざん)と言い、「東の比叡山」を意味します。平安京の鬼門に位置するのは比叡山延暦寺であり、この作りに倣ったのです。さらに「浅草寺」(せんそうじ:東京都台東区)、「神田明神」(東京都千代田区:正式名は[神田神社])も鬼門となります。

裏鬼門は「芝増上寺」(東京都港区)、「日枝神社」(ひえじんじゃ:東京都千代田区)となります。この配置は、江戸城を中心に北東から南西に2本の直線となっており、地形だけで見れば非常に強力な鬼門封じになっているのです。

このことから江戸の「三大祭」である神田神社の「神田祭」、浅草寺の「三社祭」、日枝神社の「山王祭」は、江戸城の鬼門・裏鬼門を浄化する意味もあったという説もあります。

そして、この北東の鬼門封じは、東北の大名達から江戸を守るためでもありました。軍記物「東奥老子夜話」(とうおうろうしやわ)によれば、「伊達政宗」は徳川家康の天下統一後も、自身の天下取りの野望を捨ててなかったと記されています。

実は、占星術や易(えき:古代中国の占い)などの占いを取り入れた都市計画は世界中で見ることができ、それほど珍しいことではありません。これは慎重派の徳川家康が、用心に用心を重ねた結果、陰陽五行説による方角や建物の配置などで気の流れを整える方法を取り入れたに過ぎません。江戸幕府を安泰させたのは、「一国一城令」や「武家諸法度」など政策を進め、堅実な幕藩体制を作り上げた徳川家康の手腕に他ならないのです。

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