武将と仏教信仰

仏教伝来の歴史

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「仏教」と聞くと、現代の人々は葬式や法事といった死にかかわる行事を思い浮かべることでしょう。しかし、仏教が伝来した古墳時代の日本は、海を隔てていた中国や朝鮮半島と比べると、文化的水準が決して高いとは言えませんでした。大和朝廷は交渉の末、朝鮮半島の百済から仏像や経典を手に入れますが、仏教をめぐって蘇我氏と物部氏が対立。この対立は、子の世代や皇族を巻き込んで数十年にも及びます。仏教伝来についてと蘇我氏と物部氏の対立、その後の仏教興隆について紐解いていきましょう。

インドで誕生した仏教 日本への仏教伝来まで

日本へ仏教が伝来したのは、6世紀半ばの「欽明天皇」(きんめいてんのう)の時代です。日本では「仏陀」、「釈迦」とする場合もある仏教の開祖「ゴータマ・シッダールタ」が約2,500年前にインドで誕生し、中国、朝鮮半島を経て日本へと伝来しました。日本へ伝わったのは、当時の朝鮮半島にあった国・百済(くだら)からです。

日本と百済の関係性

七支刀

七支刀

なぜ百済が日本へ仏教を伝えることになったのかと言うと、当時の朝鮮半島は百済・高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)に分かれていた時代で、この三国は頻繁に戦を起こしていたからです。

369年には、高句麗からの激しい侵攻を受けていた百済が、日本への同盟を求めて「七支刀」(しちしとう)を贈ったと伝わります。この七支刀は国宝に指定され、現在は「石上神宮」(いそのかみじんぐう:奈良県天理市)が所蔵。

そのあとも度々、日本は百済からの願いを聞き入れて軍事援助するようになりました。

時は流れ、仏教は欽明天皇の代の頃、百済への軍事援助の見返りとして、百済の「聖明王」(せいめいおう)より仏像経典が贈られます。当時の仏教は宗教というよりも、大陸で生まれた最新の文化という意味合いが強く、そうした文化を取り入れることが国際的地位を上げることに繋がると考えられていました。

「日本書紀」の「仏教公伝」(ぶっきょうこうでん)の項では、欽明天皇自ら「仏の相貌端厳し」(ほとけのかおきらぎらし:仏の顔のきらきらと美しいこと)と褒め称えています。

仏教伝来と仏教公伝

日本に仏教が渡ってきたことを「仏教伝来」と言いますが、すでに渡来人(とらいじん:中国、朝鮮半島からの移住者)などにより私的な信仰の対象として伝わっていました。そのため今の時代で言う仏教伝来とは、国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることを指し、仏教公伝とも言うのです。

伝来した年代について

実は仏教が伝来した年代には、538年説と552年説があります。古代史の分野は、史料や遺跡などが容易に見付からないことから、こうした事態を度々引き起こすのです。伝来についても、どちらが正解かという点で研究者の間では意見が分かれますが、現在は538年説が通説となっています。

538年説

538年説は、8世紀はじめに書かれた「聖徳太子」(厩戸[うまやど]皇子)の伝記「上宮聖徳法王帝説」(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)が根拠です。上宮聖徳法王帝説によると「欽明天皇の時代、戊午の年10月12日に、百済の王より仏像や経典を賜る」とあります。「戊午」の干支は、欽明天皇の治世以前で最も近い年が538年だったことから、この年代が当てはめられました。

また同時代の書物「元興寺縁起」(がんごうじえんぎ:元興寺[がんごうじ:奈良県奈良市]の由来が書かれた書物)である「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」(がんごうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)にも仏教伝来についての記述があり、年代は戊午とあります。これが先述した通り、538年説が現在は有力視されている理由。

この元興寺は、日本最古の寺院「飛鳥寺」(奈良県高市郡明日香村)正式名称「法興寺」(ほうこうじ)が平城京への遷都に伴って移転した寺院です。

552年説

552年説は、日本の公式年代記である日本書紀の記述から挙げられます。内容は「欽明天皇の御代である欽明13年に、百済の聖明王が遣いを送ってきた。その人物が釈迦仏を一体と経論数巻を献上した」というもの。この欽明13年が552年なのです。

また552年とは、平城京に栄えた「南都仏教」(平城京に栄えた宗派)の研究によると、釈迦入滅後1501年目に当たります。

そして経典のひとつ「大集経」(だいじっきょう/だいしゅうきょう)によれば、仏教における500年ごとの区切りの年。この552年説は、不自然なくらい切りの良い年であるため、日本書紀の記述でありながら後世の後付けを疑わせる論拠となっています。

蘇我稲目と物部尾輿による崇仏論争

伝来した仏教ですが、大和朝廷内ですんなりと受け入れられることはありませんでした。それは仏教推進派の「蘇我稲目」(そがのいなめ)と、仏教反対派の「物部尾輿」(もののべのおこし)との派閥ができてしまい、激しく対立したからです。

日本初の宗教対立

蘇我稲目と物部尾輿の対立

蘇我稲目と物部尾輿の対立

日本には古来より、先祖の霊や、山や川などの自然を神として崇める信仰がありました。

多神教であった日本に仏の教えと仏像が持ち込まれたことで、「日本には土地に根付いた神々がいるというのに、異国の神を持ち込むなどけしからん」として、仏教推進派と反対派とで意見が割れます。

それぞれの代表者が、先ほども触れた仏教推進派の蘇我稲目と、仏教反対派の物部尾輿です。ただこの争いは、単なる宗教対立だけではなく、政治的対立としての意味も持っていました。

畿内周辺の有力豪族で、皇族との血縁関のあった蘇我氏は、渡来人とのかかわりが深く、本格的に仏教が伝来する以前から仏教を信仰していたと言います。この渡来人達から大陸の最新技術や文化の情報などを入手しており、欽明天皇は蘇我稲目を通して大陸の情報を得ていました。加えて、蘇我稲目は2人の娘を欽明天皇に嫁がせていることから、欽明天皇は蘇我稲目の意見を粗略に扱うことができなかったのです。

一方の物部氏は地方の有力豪族であり、蘇我氏のように皇族の血縁関係も渡来人との繋がりもありません。物部氏が蘇我氏と並び、天皇との結び付きを深めるには、実務で信頼を勝ち取るしかありませんでした。

こうした事情から代々の物部氏は特定の分野に特化し、天皇に仕えていたのです。事実、物部尾輿も軍事や警備を司っていました。

そこで蘇我稲目が推進する仏教を受け入れられることになれば、ますます蘇我稲目は欽明天皇から重用されるようになります。物部尾輿は反対の意見を見せますが、欽明天皇は仏教を受け入れる決断を下しました。こうして、蘇我稲目と物部尾輿の代による崇仏論争は、蘇我稲目が勝利します。

日本初の廃仏運動

欽明天皇

欽明天皇

蘇我稲目が勝利したことで、欽明天皇は百済からもたらされた仏像を蘇我稲目に授け、礼拝するように命じました。

蘇我稲目は自身の邸宅「小墾田の家」(おはりだのいえ)に仏像を安置し、もう一箇所の邸宅「向原の家」(むくはらのいえ)を寺へと改修。

このように自宅を改修した寺院を「捨宅寺院」と言います。

こうして朝廷には、仏教の寺院や思想が広まって行くかのように思われましたが、日本書紀によると、そののち疫病が流行。物部尾輿は、疫病の流行は仏教の信仰をしているせいだと主張し、仏像を廃棄するよう欽明天皇へと訴えました。

これを欽明天皇は認め、日本で作られて間もない仏像や寺院の破壊が行われ、廃仏運動へと繋がります。

蘇我馬子と物部守屋が起こした丁未の乱

570年(欽明31年)に蘇我稲目が亡くなり、翌年には欽明天皇も崩御。物部尾輿が亡くなった年月は不明とされていますが、570年代を境に世代は子へと受け継がれていきます。そして、仏教の興隆を賭けて、その裏で繰り広げられる政治抗争までも受け継がれていきました。

蘇我馬子が罹った病

蘇我稲目の嫡子「蘇我馬子」(そがのうまこ)が父と同じ職位である大臣(オホマヘツキミ)の座に就いた頃、天皇の位は、欽明天皇の子「敏達天皇」(びだつてんのう)が就いていました。蘇我馬子は、584年(敏達13年)に百済から仏像2体を入手し、高句麗の元僧侶「恵便」(えべん)を師とし、2人の尼僧に仏像を祀らせます。

しかし、翌年の585年(敏達14年)に、蘇我馬子は流行の疫病に罹り臥せっていました。蘇我馬子が占者に診てもらうと占者は「蘇我稲目のときに破棄された仏像の祟り」と言ったことから、これを敏達天皇へ奏上。そこで敏達天皇は、仏像を祀っても良いとする詔(みことのり:天皇が出す公的な命令書)を発布するものの、疫病の流行は収まりません。

一方で、物部尾輿の子「物部守屋」(もののべのもりや)は、疫病の流行は蘇我氏が仏教を信仰しているせいだと敏達天皇に奏上します。疫病が終息しないので、敏達天皇は仏教の信仰を止めるよう命令。

これを受け物部守屋は、蘇我馬子の寺院を壊し、仏像や仏殿を焼き、尼僧達まで鞭打ちに処しました。それでも蘇我馬子は、なんとか信仰の許可を得ようと敏達天皇に請うたところ、蘇我馬子のみ信仰の許可が下ります。

皇位継承問題から「丁未の乱」へと発展

蘇我馬子と物部守屋の対立

蘇我馬子と物部守屋の対立

同年、585年(敏達14年)に敏達天皇が死去。

その葬儀を行う「殯宮」(もがりのみや:遺体を安置する場所)で、お互いに対して、蘇我馬子は「緊張で震えながらの弔事は、鈴を付けたらさぞ面白いだろう」と言い、物部守屋は「小柄な姿で長いを差して弔事を読む姿は、まるでを射られた雀のようだ」と罵倒しあったと言います。

もともとの因縁もあり、蘇我馬子と物部守屋はお互いへの恨みが募るばかりでした。

敏達天皇のあとは、その子「用明天皇」(ようめいてんのう)が天皇の位に就きましたが、病で崩御。蘇我馬子と物部守屋は皇位継承問題で対立し戦が勃発し、587年(用明2年)の「丁未の乱」(ていびのらん:別名[物部守屋の変]とも)で蘇我氏が勝利しました。当時は、現在の皇室典範のような決まりごとはなく、血筋と臣下の擁立とで天皇に即位できてしまう曖昧な時代。このため、皇位継承問題は常に政治紛争に結び付いていました。

そののち、物部氏は歴史の表舞台から姿を消し、朝廷の政治勢力は蘇我氏一強の様相を呈してきます。この丁未の乱で、蘇我馬子側の勢力に付いていた皇子のひとりが厩戸皇子、のちの聖徳太子です。蘇我馬子は戦に勝利した暁には、飛鳥寺を建立することを誓い、厩戸皇子は「四天王寺」(大阪市天王寺区)の建立を誓っています。

蘇我氏の悲願 仏教の興隆

推古天皇

推古天皇

593年(推古天皇元年)に、日本初の女性天皇である「推古天皇」(すいこてんのう)が誕生。

前の代の「崇峻天皇」(すしゅんてんのう)が亡くなり、その異母姉で敏達天皇の后でもあった「豊御食炊屋姫尊」(とよみけかしきやひめ)が緊急措置として即位しました。

この推古天皇と蘇我馬子、厩戸皇子の三者の共治により国政改革を進めていくことになります。蘇我馬子が飛鳥寺造営を開始したのは、推古天皇が即位した年です。

飛鳥寺は、寺の中央に位置する五重塔に「仏舎利」(釈迦の遺骨・遺灰など)を納めるなどし、596年(推古4年)に完成。606年(推古14年)には現在も残る「飛鳥大仏」も完成しました。

また、仏舎利信仰や釈迦信仰に合わせてこののちに建立される寺の塔は、かつての古墳の代わりとして地下に統率者の遺体を安置し、先祖の霊を祀るようになります。日本は古代から、外国の文化と自国の文化をうまく融合させる術を持っていたのです。

聖徳太子(厩戸皇子)

聖徳太子(厩戸皇子)

飛鳥寺と同年に造営開始したのが、四天王寺です。四天王寺は、厩戸皇子が丁未の乱の折、「この戦に勝利したなら、必ず四天王を安置する寺院を建てる」という誓願をしたことから、作られることになりました。

さらに、601年(推古9年)に、推古天皇が飛鳥宮(奈良県高市郡明日香村)から斑鳩宮(いかるがのみや:奈良県生駒郡斑鳩町)に遷都すると、厩戸皇子は邸宅内に「法隆寺」(ほうりゅうじ:奈良県生駒郡斑鳩町)を造営。

この2寺の他に「広隆寺」(こうりゅうじ:京都市右京区)、「法起寺」(ほうきじ/ほっきじ:奈良県生駒郡斑鳩町)、「中宮寺」(ちゅうぐうじ:奈良県生駒郡斑鳩町)、「橘寺」(たちばなでら:奈良県高市郡明日香村)、「葛木寺」(かつらぎでら/かつらきでら:奈良県高市郡明日香村)を合わせた寺を、厩戸皇子の伝承がある寺として「聖徳太子建立七大寺」と総称します。

仏教が伝来して数十年の時を経ましたが、ようやく仏教は信仰の対象として花開きました。

続いて600年(推古8年)には、20年ぶりに中国・随(ずい)への遣使が行われることになり、600年(推古8年)と607年(推古15年)に遣隋使を派遣。蘇我馬子達は、中国との文化水準の差を知ることとなり、使節からの報告をもとに執政や儀礼の場を整備することとなりました。

そして日本史上有名な「冠位十二階」や「十七条憲法」などが制定されます。こうして蘇我馬子や推古天皇、厩戸皇子の国政改革は、歴史の上では古墳時代から飛鳥時代への幕開けでもあり、仏教興隆にも大きな変化をもたらしたのです。

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