武将と仏教信仰

武将と仏教の関係

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武将達の生きた戦国乱世の時代は、生と死が隣り合わせの時代で「今日は生きているけれど、明日は死ぬかもしない」といった状況が日常でした。そうしたなかで、人知を超えた存在である神仏への信仰心が強まるのは必定。寺社への戦勝祈願や結束力を強くするための軍神崇拝は、家臣達の士気を高めるためにも重要な役割を持ったと言えます。また、領国経営においても神仏への信仰は欠かすことのできないことで、武将達は家臣と領民の信頼関係を強める手段として神仏の力に頼りました。武将達が仏教にどんな役割を求めて信仰していたのか理由と共にご紹介します。

上杉謙信と毘沙門天の加護

「越後の龍」や「越後の虎」などと呼ばれ、戦国最強と言われる「上杉謙信」は、仏教への信仰心が厚かった戦国武将です。49年の生涯で70回の戦を行い、負けたのはたったの2回しかないという勝負強さを誇ります。

この上杉謙信が、幼少の頃から崇敬したのが「毘沙門天」(びしゃもんてん)です。また、崇敬したのみならず自分自身を「毘沙門天の化身である」とも信じていました。

幼少期の禅の教え

上杉謙信

上杉謙信

上杉謙信が、毘沙門天信仰にのめり込んでいったきっかけは、幼少時代の生活環境にあったと言います。

母「虎御前」(とらごぜん)から仏の功徳を聞いて育ったことで仏教信仰への下地が作られました。

さらにその信仰を決定付けたのが、少年時代に預けられた上杉家の菩提寺「林泉寺」(りんせんじ:現在の新潟県上越市)でのことで、上杉謙信は「天室光育禅師」(てんしつこういくぜんし)から禅宗と文武、そして毘沙門天への教えを受けたのです。

正義感が強く、正直で真っ直ぐな性格だった上杉謙信は禅の教えにより文武を磨き、さらに「義」を重んじる清廉潔白な倫理観が備わるようになりました。

兄から上杉家の家督を譲り受ける

上杉謙信は1544年(天文13年)の「栃尾城の戦い」で、越後国(現在の新潟県)の豪族反乱を抑えるための戦に参戦し初陣を飾ります。以降は、兄から上杉家の家督を譲り受け、わずか14歳で上杉家の当主となり義のための戦を繰り返すのです。毘沙門天への信仰は、こうした戦続きの生活の中で深まっていきます。

毘沙門天

毘沙門天

毘沙門天は別名「多聞天」(たもんてん)とも言い、仏教の教えでは世界の中心とされる「須弥山」(しゅみせん)を守護する四天王のひとりで、そのなかでも北方を守護する武神が毘沙門天です。

また「鞍馬寺」(くらまでら:京都市左京区)に伝わる縁起「扶桑略記」(ふそうりゃくき)によれば、毘沙門天は悪を破り正義を守る仏として書かれています。

上杉謙信の居城「春日山城」(現在の新潟県上越市)には、毘沙門天像を安置した「毘沙門堂」(びしゃもんどう)を建立し、日々の読経を欠かしませんでした。出陣の際には必ず参籠して戦勝祈願をし、戦には毘沙門天を意味する「毘」(び)や「刀八毘沙門天」(とうはちびしゃもんてん/とうはつびしゃもんてん)を旗印として持参。戦場においても「我は毘沙門天と共にあり」を口にして兵士達を鼓舞したと伝わります。

甲斐国(現代の山梨県)の「武田信玄」と5回も戦を交えたものの勝敗が付かなかった「川中島の戦い」も義を貫いての行動です。信濃侵攻により信濃国(現在の長野県)を領国化しようとした武田信玄の野心を悪と断じての戦でした。

しかし、1567年(永禄10年)に武田信玄は、駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の今川家との関係を悪化させてしまい、これにより武田信玄の領国への塩輸送が止められてしまいます。海のない甲斐国では塩が採れず、武田信玄が困ることは明白。上杉謙信は「戦とは正々堂々と行うべき」として、甲斐国への塩輸送を続けました。上杉謙信は、敵であっても慈悲を忘れない精神を持ち合わせていたのです。

上杉謙信が毘沙門天を信仰したのは、苛烈な乱世を生き抜く上での精神的支柱としてであったかもしれませんが、清廉潔白な行いは毘沙門天の化身であると信じていたからこそできたことだと言えます。

朝倉義景と一乗谷に築かれた仏教王国

北陸の雄として隆盛した朝倉家の最後の当主として知られる武将「朝倉義景」(あさくらよしかげ)は、「織田信長」に敗れたことで優柔不断で戦が不得意、などと言われる武将でもあります。

しかし、領国である越前国(現在の福井県北東部)に、祖先が作り上げた「朝倉文化」と言われる独自の文化を存続させた領国経営の手腕を持った武将でもあるのです。

初代「朝倉敏景」が作った朝倉文化

朝倉義景

朝倉義景

朝倉家は、初代「朝倉敏景」(あさくらとしかげ)が、越前国の守護・斯波氏(しばし)を倒し一乗谷(いちじょうだに)に本拠地を構え「一乗谷城」(いちじょうだにじょう:現在の福井県福井市)を築き、その城下町を拓いたことがはじまりです。

以後、京都から高名な禅僧を招き公家達と交流をして、公家文化を取り入れながら朝倉家による武家文化を作り上げていきます。

朝倉家は代々曹洞宗(そうとうしゅう)に帰依していましたが、家臣達は臨済宗(りんざいしゅう)・浄土宗・天台宗・日蓮宗などに帰依していました。こうしたことから一乗谷には、各宗派に属する寺院が約40ヵ所あったと伝わります。朝倉家の治めた一乗谷は、まさに仏教文化が色濃く根付いた「仏教王国」だったのです。

初代・朝倉敏景も神仏への信仰が篤く読経を欠かさなかったと言い、朝倉家の分国法(戦国大名が領地内で定めた法令)である「朝倉敏景十七ヶ条」にも「人の上に立つ主人たるべき者は、不動明王と愛染明王のようでなければならない」と書かれているのです。

不動明王は憤怒の形相で悪を降伏させ、右手に持つ宝剣で煩悩を打ち砕き、慈悲の心で衆生(しゅじょう:すべての生物のこと)を救済。愛染明王も怒りの形相は不動明王と同じですが、愛染明王は深い愛情で衆生を救うとされています。こうした仏の内面を備えることこそ、支配者が目指す理想の形であると朝倉敏景は説いたのです。

朝倉家の終焉

朝倉義景は、朝倉家4代目の当主「朝倉孝景」(あさくらたかかげ)の長男に生まれます。ひとり息子であったことで幼少期から朝倉義景は父に溺愛されて育ちました。朝倉家は、仏教を中心とした宗教政策で領国経営の支柱としていたことから、朝倉義景も幼い頃から神仏に対する信仰心が厚かったと言えます。

一乗谷朝倉氏遺跡

一乗谷朝倉氏遺跡

しかし織田信長と対立していた朝倉義景は、1573年(天正元年)の「一乗谷の戦い」で織田信長により居城である一乗谷城を追われ、朝倉家の当主が代々受け継いできた一乗谷は灰燼(かいじん:燃えて跡形もないこと)へと帰しました。

現在、朝倉家の一乗谷城や城下町のあった場所は「一乗谷朝倉氏遺跡」(福井市城戸ノ内町)となり福井県の観光名所のひとつです。

そして周辺には寺院や庭園跡と思われる石仏や石塔が6,000以上も見られることから、残された遺構だけでも往時の一乗谷がどれほど豊かで先進的な場所であったかがうかがえます。

前田慶次と臨済宗による禅の境地

「かぶき者」と呼ばれた「前田慶次」(まえだけいじ)には、伝えられているだけでも「前田慶次郎」(まえだけいじろう)、「前田利益」(まえだとします)、「前田利広」(まえだとしひろ)など複数の名前がある謎めいた人物。また事跡を伝える一次史料が少なく、その実像はよく分からないところも多いのです。

しかし、自由気ままで個性的な振る舞いの多かった前田慶次は、江戸時代に書かれた常山紀談(じょうざんきだん)や武辺咄聞書(ぶへんばなしききがき)にも多くの逸話を残しています。

前田慶次の紆余曲折あった前半生

前田慶次

前田慶次

前田慶次は、織田信長の家臣「滝川一益」(たきがわかずます)の親類の家に生まれ、尾張国(現在の愛知県西部)の「荒子城」(あらこじょう:現在の名古屋市中川区)城主「前田利久」(まえだとしひさ)の養子になりました。

前田家の家督を継ぐ予定でしたが、織田信長の命で変更になり、前田利久の弟「前田利家」(まえだとしいえ)が家督を継ぐことが決まります。

このことをきっかけに前田慶次は、前田利家に反発し荒子城を出奔。以降は、京都で浪人生活を送りつつ連歌茶道に親しみ「古田織部」(ふるたおりべ:茶人)や「細川藤孝/細川幽斎」(ほそかわふじたか/ほそかわゆうさい)などの文化人達と交流を重ねていました。前田慶次に転機が訪れたのは、「直江兼続」(なおえかねつぐ)との出会いだったと言います。

直江兼続は、1588年(天正16年)に主君「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)に付き従い上洛し、臨済宗の総本山「妙心寺」(みょうしんじ:京都市右京区)に立ち寄りました。前田慶次も妙心寺で禅宗の教えに興味を持ちよく訪れていたのです。妙心寺の和尚が、直江兼続と前田慶次を引き合わせたことで2人は意気投合。そして前田慶次は直江兼続と親交を深め、上杉景勝に仕えるようになります。

隠居屋敷「無苦庵」の意味

年月が経ち「関ヶ原の戦い」で西軍に属していた上杉家は、「徳川家康」から1601年(慶長6年)に会津藩(現在の福島県)120万石から米沢藩(現在の山形県)30万石へと減封されました。前田慶次もそれに付き従います。

晩年の前田慶次は、現在の山形県米沢市万世町堂森(ばんせいちょうどうもり)の辺りで隠居生活をはじめるようになり、その隠居所を「無苦庵」(むくあん)と名付けているのです。禅における「無」とは、「有無」を超えた絶対的な境地で、この無を体得することが禅の目的ともされています。また「苦」とは、「釈迦」の説く4つの苦しみである「生」・「老」・「病」・「死」に通じるのです。

前田慶次の綴った「無苦庵記」には「生きるだけ生きたらば死ぬるであろうかと思ふ」という言葉があり、ここにはかぶき者として自由に生きた頃のこだわりを脱ぎ捨てて「無苦」の境地に至ろうとする前田慶次の思いが見えてきます。

加藤清正と「南無妙法蓮華経」の旗印

加藤清正」(かとうきよまさ)と言えば、「猛将」の代表格であり「武辺者」(ぶへんもの/ぶへんしゃ:勇敢な武士)の印象が強い武将です。一方で、名城として知られる「熊本城」(現在の熊本市中央区)の築城や灌漑(かんがい:農地に外部から人工的に水を供給すること)による治水、干拓、新田開発などにも尽力し、殖産興業の基礎作りに手腕を発揮した「智将」でもありました。

母の影響を受けた日蓮宗

加藤清正

加藤清正

加藤清正は、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に「加藤清忠」(かとうきよただ)の子として生まれます。

父・加藤清忠は、加藤清正が3歳の頃に亡くなってしまい、以来、加藤清正は母「伊都」(いと)と2人で暮らすようになりました。

加藤清正が熱心な日蓮宗の法華経信者であったことは広く知られていますが、これは日蓮宗の信者であった母・伊都の影響を受けていたからだと言われています。

幼少期の加藤清正は、母・伊都が信仰する姿を見ながら、日蓮宗「妙延寺」(みょうえんじ:愛知県津島市)にて法華経と学問を教わっていました。この生活が加藤清正の人格形成に大いにかかわっていると言えます。

大名人生への勝利を導いた旗印

加藤清正は1574年(天正2年)の13歳の年に、母・伊都が「豊臣秀吉」の母「なか」の遠縁であったことから、豊臣秀吉に仕えることになりました。そして15歳で元服をし「清正」と名乗るようになり、豊臣秀吉から170石の知行を与えられ、名実共に豊臣秀吉の配下に加わることとなったのです。

そして加藤清正は、豊臣秀吉のもとで「備中高松城の水攻め」や「山崎の戦い」などで戦功を挙げ、さらに1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」では「賤ヶ岳七本槍」のひとりに上げられるほど活躍。

この賤ヶ岳の戦いで加藤清正が掲げていたのが、「南無妙法蓮華経」の旗印でした。これは文字が跳ねたように書かれる字体で「跳ね題目」や「髭題目」とも呼ばれます。南無妙法蓮華経は、日蓮宗の開祖「日蓮」(にちれん)がこの経を唱えて修行をすれば釈迦の加護を受けることができると説いた経文です。「南無」は、「帰依」(尊い力にすがること)することで「妙法蓮華経」は、釈迦の教えを説く経典のことで別名「法華経」とも言います。

のちに加藤清正は、肥後国(現在の熊本県北部)の半分を治めることになり、堺国(現在の大阪府)に建立していた父の菩提寺である日蓮宗の「本妙寺」(ほんみょうじ:熊本市西区)を肥後国に移築。この本妙寺を拠点に、日蓮宗信仰が皆無だった領国内に多くの日蓮宗寺院を創建していきました。

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