守りの戦略

籠城戦 ~城を守る合戦~

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各地で戦いが繰り広げられていた戦国時代には、その戦いに備えるために、多くの城が築かれました。そのなかで、お城に立て籠もって敵と戦う「籠城戦」(ろうじょうせん)も、数多く行なわれていたのです。その具体例には、「豊臣秀吉」が天下統一を成し遂げた「小田原の役」や、豊臣秀吉亡きあと、「徳川家康」が豊臣家を滅ぼして天下人となった「大坂の陣」など、歴史に名高い籠城戦が挙げられます。これらの有名な籠城戦では、城に立て籠もった側が敗北していますが、その他の籠城戦のなかには、いくつか籠城側が勝利した戦いもありました。籠城戦において、籠城側が勝利を収めた要因について解説します。

戦国武将戦国武将
歴史を動かした有名な戦国武将のエピソードや、それに関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。

籠城戦と後詰

籠城戦に勝つために最も大切なポイントのひとつに、「後詰」(ごづめ)があります。後詰とは、いわゆる味方の援軍のこと。籠城戦では、その望みもなくただ城に立て籠もっているだけでは、いくら兵糧や武器などの備えがあったとしても、最終的に勝てる見込みは少なくなります。さらには、孤立無援であることの精神的なダメージも無視できません。そのため、後詰なしに籠城戦を戦い抜くことは、難しかったと考えられているのです。籠城側の戦国武将達は、どのように城を守り勝利を掴み取ったのでしょうか。

籠城側が勝利した戦い

河越城の戦い

河越城/川越城本丸御殿

河越城/川越城本丸御殿

1546年(天文15年)に起こった「河越城の戦い」(かわごえじょうのたたかい)において、同城に立て籠もっていたのは、「北条早雲」(ほうじょうそううん)の子「北条氏綱」(ほうじょううじつな)。

このとき、城内にいた兵の数は約3,000人でした。攻城側は、「上杉朝定」(うえすぎともさだ)や「上杉憲政」(うえすぎのりまさ)、そして古河公方(こがくぼう:現在の茨城県古河市を拠点とした関東足利家)の「足利晴氏」(あしがはるうじ)などが率いる「反北条連合軍」。彼らは80,000人もの兵により、「河越城/川越城」(かわごえじょう:現在の埼玉県川越市)を厳重に包囲していたのです。

北条氏綱は、子の「北条氏康」(ほうじょううじやす)に救援を要請。北条氏康は、8,000人の兵を率いて父のもとへ向かいましたが、敵の兵力は自身の軍勢と比べて約10倍もあったため、まともに戦って勝てる相手ではありませんでした。

そこで北条氏康は、攻城側である反北条連合軍に使いを送り、城と領地を明け渡すことを条件に、城内の兵の命を助けて欲しいと願い出ることに。実はこれは敵を油断させるための口実でしたが、攻城側は、北条軍がすでに戦う気持ちを失っていると思い込んで油断したと伝えられています。

そののち北条氏康は、連合軍の兵達が寝静まった深夜に奇襲を掛けます。油断しきっていた連合軍は大混乱に陥って統率を失い、なすすべもなく敗走しました。半年にも及ぶこの籠城戦を耐え抜いた北条氏綱でしたが、その勝利の背景には、北条氏康による後詰があってのことだったのです。

長篠城の戦い

織田信長」が鉄砲隊で騎馬隊を打ち破り、「武田勝頼」(たけだかつより)が当主となった武田家を滅亡に追い込むきっかけとなったのは、1575年(天正3年)に勃発した「長篠の戦い」(ながしののたたかい)です。それまでの武器は槍などの刀剣が一般的でしたが、同合戦は鉄砲が本格的に使われた最初の戦いとして、教科書にも記載されています。

実はそれ以前にも「長篠城」(ながしのじょう:現在の愛知県新城市)では籠城戦があり、その際、同城に立て籠もっていたのは、「徳川家康」方の「奥平貞昌」(おくだいらさだまさ)率いる約500人の兵でした。

長篠城を包囲していたのは、武田勝頼率いる約18,000人の兵です。兵力の差は明白でしたが、籠城側には鉄砲200挺(ちょう)と当時まだ珍しかった大砲があり、約1ヵ月に亘って籠城できるだけの兵糧もありました。これに対して攻城側である武田勝頼は、短時間で攻略できるつもりで戦いに挑みますが、なかなかうまくいきません。

一方、籠城側の奥平貞昌は、徳川家と同盟関係にあった織田信長が後詰に来てくれると信じて、自身の士気を上げていました。武田勝頼は様々な攻撃を仕掛けましたが、城内から鉄砲や大砲、も打ちかけられたことで思うように攻略できず、ついには全軍で総攻撃をかけるに至ります。

籠城側は死に物狂いで城を守り、攻城側に多くの死傷者を出します。長篠城を落とせなかった武田勝頼は、長篠城に抑えとなる兵だけを残し約15,000人の兵を率いて、「設楽原」(したらがはら)へ向かいました。その目的は、奥平軍の後詰にやって来た織田・徳川連合軍、約30,000人の兵に立ち向かうことであり、この地において歴史上で有名な長篠の戦いが行なわれます。

この戦いで、織田・徳川連合軍が勝利できたのは、その前の20日間に武田勝頼の猛攻を耐えて長篠城を死守し、武田軍の力を削いでいた奥平貞昌あってのことだったのです。

第一次上田合戦

真田昌幸

真田昌幸

上田城」(現在の長野県上田市)の城主「真田昌幸」(さなだまさゆき)は、籠城戦により徳川軍を2度撃退しています。

1回目の籠城戦で真田昌幸は、近くを流れる神川(かんがわ)まで出て徳川軍を迎え撃とうとしましたが、家臣に説得されて上田城内に立て籠もりました。このとき、真田昌幸は、城内で囲碁を打ちながら采配を振ったと言われています。

徳川軍を城壁ぎりぎりまで引き付け、いっせいに鉄砲で攻撃する戦略を採りました。随所に伏兵(ふくへい)も忍ばせて、敗走していく徳川軍を混乱させたのです。そして、城内は迷路のように入り組んでおり、さらにあちこちに柵を作ってあったため、徳川軍は自由に動くことすらできなくなり、混乱状態に陥ったのです。

そこへ上田城の支城であった「砥石城/戸石城」(といしじょう:現在の長野県上田市)からは、長男の「真田信之」(さなだのぶゆき)が後詰として現れ、逃げる徳川軍の横から攻撃を仕掛けました。

徳川軍は一旦後退して態勢を整え、もうひとつの支城である「丸子城」(まるこじょう:現在の長野県上田市)を落として、味方の士気を上げようとしました。ところが、真田側から丸子城にも後詰が送られ、徳川家康は支城すら落とせないまま、総退却するに至ったと伝えられています。

第二次上田合戦

徳川秀忠

徳川秀忠

真田昌幸にとって2回目となった籠城戦は、天下分け目の合戦「関ヶ原の戦い」前夜に行なわれました。

徳川家康の子「徳川秀忠」(とくがわひでただ)軍が、関ヶ原(現在の岐阜県不破郡)へ向かう途上にあった上田城を落としていこうとしたことが、その運の尽きであったと言われています。

1回目の籠城戦となった「上田合戦」で用いた「引き付け作戦」が成功したことにより、真田軍はそのあと何度も同様の作戦で戦っていました。

その一方で、同じ失敗を繰り返したくない徳川軍は、細心の注意を払っていたのにもかかわらず、再びこの引き付け作戦に引っかかってしまったのです。

真田昌幸の計略に引っ掻き回された徳川秀忠軍は、結局上田城を落とせないままとなり、この籠城戦は真田軍に軍配が上がっています。そしてこの戦いにより、徳川秀忠は関ヶ原の戦いに遅参し、父・徳川家康より叱咤を受けることになりますが、最終的には徳川家康率いる東軍が大勝を収めました。そののちの上田城は、城主であった真田昌幸が西軍に付いていたために、開城の憂き目に遭ったのです。

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後詰の重要性

このように籠城戦での勝敗は、後詰の有無が大きく左右していました。そのため、支城や同盟国から後詰が来ると信じられることで、籠城している兵達の士気も上がり、実際に後詰が駆け付ければ、城の内外から攻城側の軍勢を挟み撃ちすることもできます。こういったことから、城に立て籠もって戦うためには、兵糧や武器はもちろん後詰の存在も非常に重要だったのです。

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