攻めの戦略

日本三大合戦

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戦国時代は、いずれ劣らぬ強豪達が割拠(かっきょ:権力者がそれぞれ地域を占拠し勢力を張ること)し、自らの命や領土のため、日本刀などの武器を持って、日夜合戦を繰り広げていた時代です。個性あふれる魅力的な武将達も多く、彼らは味方を勝利に導くため、あらゆる戦術を駆使して敵に挑みました。起死回生の一戦やライバル同士が長年に亘って繰り広げた合戦、天下分け目の合戦など、歴史上名高い合戦も多くあります。「日本三大合戦」と称される合戦の他に、「日本三大奇襲」や「日本三大水攻め」と呼ばれる合戦についてもご紹介します。

日本三大合戦とは

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い」は、1600年(慶長5年)9月15日に行なわれた、天下分け目の合戦です。

上杉景勝」(うえすぎかげかつ)を討伐するために関東へ向かった「徳川家康」に対して、「石田三成」が挙兵したことから始まりました。

知らせを聞いた徳川家康が、畿内(きない:現在の京都府付近)に引き返し、関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)において、徳川軍(東軍)約70,000人と石田軍(西軍)約100,000人の兵がぶつかります。両軍で全国を二分して天下を争う戦いとなり、最終的に徳川家康率いる東軍の大勝利に終わりました。

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川中島の戦い

上杉謙信と武田信玄

上杉謙信と武田信玄

川中島の戦い」は、「上杉謙信」と「武田信玄」によって、5回に亘って繰り広げられた合戦です。

信濃国(現在の長野県)を流れる千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)に挟まれた、三角地帯の中央にある川中島で行なわれました。

同合戦において、もっとも有名で激戦となったのが、1561年(永禄4年)に行なわれた4度目の戦いです。日本の歴史上で猛将として名高い、上杉謙信と武田信玄による一騎打ちがあったと言われています。

5回に及ぶ戦いとなりましたが結局勝敗は決まらず、2人が力を削ぎ合って戦っている間に、「織田信長」が着々と力を付け、天下人への道を歩み出していました。

筑後川の戦い

「大保原の戦い」(おおやすはらのたたかい)や「大原合戦」とも呼ばれる「筑後川の戦い」(ちくごがわのたたかい)は、菊池家の黄金時代を築いた同家15代当主「菊池武光」(きくちたけみつ)が、1359年(延文4年)に、宿敵「少弐頼尚」(しょうによりひさ/しょうによりなお)と筑後川をはさんで戦った合戦です。菊池軍約40,000人の軍勢に対して、少弐軍は約60,000人と言われており、九州史上もっとも大規模な戦いとなりました。

日本三大奇襲

河越城の戦い

太田道灌

太田道灌

河越城/川越城」(かわごえじょう:現在の埼玉県川越市)は、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の家宰(かさい:家長の代わりに家政を取り仕切る武家の職責)であった、「太田道灌」(おおたどうかん)が築城した城です。

「河越城の戦い」は、1537年(天文6年)に、「上杉朝興」(うえすぎともおき)の死により、その子である「上杉朝定」(うえすぎともさだ)が家督を相続する隙を突き、「北条氏綱」(ほうじょううじつな)が、同城を奪ったことがその発端。この河越城を取り返すため、1546年(天文15年)に反北条連合軍約80,000人の兵が攻め寄せてきたのが、河越城の戦いです。

河越城から救援の依頼を受けた「北条氏康」(ほうじょううじやす)は、謀略(ぼうりゃく:人をあざむく企み)を用いて、敵を油断させて夜半に奇襲をかけ、河越城を包囲中の連合軍を撃退しました。このあと、上杉家の勢力は弱まり、北条家が力を付けていったのです。

厳島の戦い

毛利家はもともと、安芸国(現在の広島県西部)において、大内家と尼子家(あまごけ)の二大勢力に挟まれ、その顔色を窺いながら両家に家臣として仕えていた小豪族でした。

しかし、「毛利元就」(もうりもとなり)の時代に頭角を現すようになると、毛利家は尼子家と手を切って大内家に忠誠を誓います。ところが大内家は、下剋上により家臣「陶晴賢」(すえはるかた)に乗っ取られてしまいました。

当初こそ陶晴賢に従っていた毛利元就でしたが、その後は陶晴賢の城を次々と攻め落としていったのです。怒った陶晴賢は応戦しますが、毛利元就が流した噂に踊らされ、陶家随一の知将だった「江良信俊」(えらのぶとし)を殺害し、厳島(いつくしま:現在の広島県廿日市市にある島)を占領。毛利元就は厳島に奇襲をかけ、陶晴賢軍を全滅させました。この戦いを経て毛利元就は、中国地方の覇者となっていったのです。

桶狭間の戦い

織田信長の父「織田信秀」(おだのぶひで)が亡くなったことをきっかけに、1560年(永禄3年)5月19日、尾張国(現在の愛知県西部)を攻めようと、「今川義元」が動き出します。25,000人もの今川軍が攻めてきたことで、たった4,000人しかいない織田軍側の武将達は、次々に今川軍に寝返りました。

しかし、当時27歳だった織田信長は知略により今川軍を分散させ、今川義元の守りが手薄になったところで奇襲をかけ、今川義元の首を討ち取ることに成功。これが世に言う「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)です。

日本三大水攻め

備中高松城の戦い

織田信長の天下統一事業により、中国地方を担当していた「豊臣秀吉」は、毛利家の防衛拠点だった「備中高松城」(現在の岡山県岡山市)の攻略に取り掛かります。まずは、城主「清水宗治」(しみずむねはる)に、毛利家から織田家へ寝返るように呼び掛けましたが、受け入れられませんでした。

そこで、備中高松城が三方を沼地に囲まれていたことから、水攻めを思い付いた豊臣秀吉は、堤(つつみ)を築く工事を始めます。季節は梅雨、備中高松城は水の中に孤立してしまいました。毛利家との交渉が進まないなか、「明智光秀」から毛利家に自分の味方となるように依頼する手紙が届きます。京都では明智光秀の謀反によって「本能寺の変」が起こり、その主君であった織田信長が自害していたのです。

本能寺の変を知った豊臣秀吉は、それを毛利側には隠したまま交渉を手短に切り上げるため、ある条件を提示します。それは、城主の清水宗治が切腹すれば、その他の兵の罪は問わず停戦するという内容でした。

清水宗治が切腹するのを見届けた豊臣秀吉は、織田信長の仇を討つため、明智光秀のいる京都へ向かいます。豊臣秀吉は、昼夜兼行で京都まで突っ走り、明智光秀を打ち負かすと天下人への道を歩き出したのです。

太田城の戦い

天下を目前にした豊臣秀吉は、紀伊国(現在の和歌山県、及び三重県南部)を平定するために出陣します。敵は「根来衆」(ねごろしゅう:根来寺[現在の和歌山県岩出市]の僧兵による武装集団)と「雑賀衆」(さいかしゅう:紀伊国北西部一帯の地侍による傭兵集団)です。

豊臣軍は圧倒的な兵力で根来寺を焼き尽くし、根来衆も雑賀衆も次々と豊臣秀吉の軍門に下るなか、唯一徹底抗戦を挑んできたのが、「太田城」(現在の和歌山県和歌山市)の城主「太田左近」(おおたさこん)でした。

豊臣秀吉は当初、大軍で一気に太田城を攻め落とそうとしましたが、なかなか思うようにいきません。そこで豊臣秀吉は備中高松城の戦いと同様に、水攻めを決行することにしたのです。大雨が降るなか、太田城を孤立させた豊臣秀吉は、やっとのことで落城させました。

忍城の戦い

忍城

忍城

1590年(天正18年)に豊臣秀吉は、「北条氏政」(ほうじょううじまさ)が立て籠もる「小田原城」(現在の神奈川県小田原市)を包囲します。

そして、北条氏政と共に籠城していた人物が、北条方の「忍城」(おしじょう:現在の埼玉県行田市)の城主「成田氏長」(なりたうじなが)。

このとき、城主不在となっていた忍城は城代(じょうだい:城主が不在のときに城を管理した者)であった「成田泰季」(なりたやすすえ)が守っていましたが、同城を攻略するため豊臣軍が攻撃を仕掛けてきました。しかし、「忍城の戦い」と呼ばれるこの攻城戦の最中に、成田泰季は死亡。代わって城代となったのが、成田泰季の嫡男である「成田長親」(なりたながちか)でした。

そののち、豊臣軍は豊臣秀吉の命により、水攻めのための堤を築きましたが、大雨により決壊。忍城は難攻不落の城として、後世にまで知られるようになったのです。

日本史上初の戦い

戦国時代に起きた有名な合戦について解説しましたが、中国の複数の史書に残された記述により、日本史上初の戦いであったと推測されているのが、弥生時代後期にあたる2世紀後半に起こった「倭国大乱」(わこくたいらん)です。

倭国大乱以前に、日本で争乱があったとする記録は残されていませんが、ただ記録がないだけで、日本各地では様々な戦いが繰り広げられていたのではないかとする説もあります。

この倭国大乱から戦国時代まで、国内では天下統一を目指した武将達が競い合って、様々な戦いが起こりました。そのなかで最終的に天下の覇者となった人物が徳川家康です。そののち、江戸時代が終わりを告げるまで、日本では、合戦のない平和な世の中が続きました。

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武将の得意な戦術

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合戦における勝利こそが正義であった戦国時代。「武田信玄」や「上杉謙信」といった有名武将も、一族や家臣、領民のため、刀などの武器を持ち、勝利にこだわる戦をしていたと伝えられています。例えば「織田信長」は、「桶狭間の戦い」において、寡兵(かへい:少ない部隊)で大軍に奇襲をかけ、一発逆転の勝利を得ましたが、そのあとは、兵士の数で有利となる、勝てる見込みのある戦しかしていません。戦国武将達は正攻法だけでなく、敵の裏をかくような様々な戦法を駆使して味方を勝利に導いていたのです。勝利を求めて戦い抜いた、戦国武将達の得意な戦法をご紹介します。

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陣形から見る3つの合戦

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戦国八陣は、中国から伝来した8種類の陣形・八陣を武田信玄が独自に解釈したもの。武田軍を中心に、実戦でも活用されていました。この戦国八陣による陣形は、実際にはどれほどの意味を持ち、また、どのように役立てられたのでしょうか。 ここでは、「第4次川中島の戦い」、「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)、「関ヶ原の戦い」における3つの合戦で用いられた陣形について解説していきます。

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武田信玄の戦国八陣

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戦国時代の大名の中でも大きな勢力を持っていた武田信玄によって、戦国の陣形とも言える戦国八陣(せんごくはちじん)が生み出されます。ただ、生み出すというよりは、すでにあった陣形の史料を皆が理解しやすいように解釈したもの。戦国八陣誕生のきっかけになったのが、信玄の家臣で、兵法家でもあった「山本勘助」(やまもとかんすけ)です。 当時は、中国から伝わっていた八陣の考え方が良いものだというイメージはあっても、内容をしっかり理解できる日本人は限られていました。そのため、日本の陣形には決まった形があるとは言えず、古代中国の軍法は、ほとんど導入されていなかったのです。 勘助は、まずは利用価値のある中国の軍法を自軍に取り入れて、戦局で優位に立てるようにした方が良いのではと考えました。そこで、信玄配下の武将によって、これらの陣形を組むことができるようにすることを信玄に提案。この進言を、信玄が採用したことにより、日本の合戦シーンに戦国八陣が登場したのです。 戦国八陣は、ひとつの史料に基づいたものではなく、実際は中国・三国時代の軍師「諸葛亮孔明」(しょかつりょうこうめい)の八陣図、唐代の知識人「李善」(りぜん)の「雑兵書」に見られる八陣、さらには秦から漢の時代にかけての軍師「張良」(ちょうりょう)が創作したとされている八陣として伝承されたものが参考にされたのではないかと言われているのです。以下において、武田信玄の戦国八陣「長蛇の陣、偃月(えんげつ)の陣、鋒矢(ほうし)の陣、鶴翼(かくよく)の陣、雁行(がんこう)の陣、方円の陣、魚鱗(ぎょりん)の陣、衡軛(こうやく)の陣」を見ていくことにします。

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合戦の種類 ~野戦・海戦・攻城戦~

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戦国時代には敵味方の両軍がぶつかり合う合戦が頻繁に起こりました。合戦の目的は領地を奪い、覇権を拡大することであり、城を落とすことが勝利を意味します。城を落とすための攻撃を城攻めと言い、場所や規模によって戦略や戦術も多様化。戦国武将は、合戦に勝利するため、様々な作戦を立てて敵陣を攻める必要があったのです。合戦の種類や城攻めの方法などについてご紹介します。

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