攻めの戦略

武将の得意な戦術

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合戦における勝利こそが正義であった戦国時代。「武田信玄」や「上杉謙信」といった有名武将も、一族や家臣、領民のため、刀などの武器を持ち、勝利にこだわる戦をしていたと伝えられています。例えば「織田信長」は、「桶狭間の戦い」において、寡兵(かへい:少ない部隊)で大軍に奇襲をかけ、一発逆転の勝利を得ましたが、そのあとは、兵士の数で有利となる、勝てる見込みのある戦しかしていません。戦国武将達は正攻法だけでなく、敵の裏をかくような様々な戦法を駆使して味方を勝利に導いていたのです。勝利を求めて戦い抜いた、戦国武将達の得意な戦法をご紹介します。

戦国武将戦国武将
歴史を動かした有名な戦国武将のエピソードや、それに関係する人物、戦い(合戦)をご紹介します。

武田信玄:啄木鳥の戦法

「啄木鳥の戦法」(きつつきのせんぽう)は、「武田信玄」の軍師山本勘助」が考案しました。具体的には、敵陣に自身の部隊を進軍させるなどして、敵軍を挑発しておびき寄せ、敵軍がそちらに気を取られている間に、その背後から本隊が一気に攻撃を仕掛ける戦法です。啄木鳥が木の穴に入った虫を捕らえるために、反対側を突っついて穴から追い出す習性をヒントとしたことから、その名がついたと言われています。

啄木鳥の戦法により、武田信玄が勝利を収めた合戦のひとつが、1569年(永禄12年)に武田信玄と北条家が争った「三増峠の戦い」(みませとうげのたたかい)。同合戦では、数ヵ月に亘って激戦が繰り広げられるも、なかなか勝敗が決まりませんでした。そんななか、武田軍が啄木鳥の戦法で猛攻したところ、戦況が一変。武田軍に難なく軍配が上がったのです。

上杉謙信と武田信玄

上杉謙信と武田信玄

この啄木鳥の戦法により、負け知らずとなった武田軍ですが、この戦法を初めて用いたとされる、1561年(永禄4年)に「上杉謙信」と対峙した「第4次川中島の戦い」では、苦戦を強いられていたのです。

川中島の平野に突き出すように位置する妻女山(さいじょさん)に布陣した上杉軍と、川中島の防御拠点である「海津城/松代城」(かいづじょう/まつしろじょう:現在の長野県長野市)に立てこもっていた武田軍は、睨み合いを続けていました。

このとき、啄木鳥の戦法の提案を山本勘助から受けた武田信玄は、妻女山の上杉軍に対して味方を二手に分けます。別動隊が妻女山の背後から夜襲をかけ、慌てて山を逃げ下りてくる上杉軍を待ち構えていた本隊が殲滅(せんめつ:残さずに滅ぼす)する挟み撃ちの戦法です。

しかし、この夜襲を事前に上杉謙信によって察知され、武田軍の別動隊が目的地にたどり着く前に、上杉軍が妻女山を降りてしまいました。武田軍の本隊は不意打ちを受けて、単独で上杉軍と戦うことになり、大混乱に陥ります。

この戦いで、武田信玄の弟「武田信繁」(たけだのぶしげ)や山本勘助など、武田軍の有力な戦国武将が数多く討ち死にしてしまったのです。そののち、別動隊が駆け付けたことにより上杉軍は撤退しましたが、武田軍の被害は甚大でした。

上杉謙信:車懸りの陣

武田信玄の啄木鳥の戦法を事前に気が付いた上杉謙信は、「車懸りの陣」(くるまがかりのじん)と称される戦法を採ります。上杉家の家臣であった武将「柿崎景家」(かきざきかげいえ)を先鋒に、武田軍の本隊の脇に回り込んで何回も攻め立て、その間に上杉謙信の旗本(はたもと:主君の直属部隊)が、武田信玄の旗本に攻撃を仕かけました。これは、大将同士の一騎打ちに持ち込むための戦法だったと言われているのです。

江戸時代に入ると、車懸りの陣は少し形を変えて軍書(戦術や軍事に関する書物)に掲載されました。本陣を中心として、各部隊が放射状に円形陣を構え、円を描くように次々と敵に攻撃を仕かける陣形と説明されています。いわゆる「波状攻撃」であるこの戦法では、各部隊が戦ったあと一旦退いて休憩を挟めるため、次々と新手を繰り出す有利な戦いが可能となったのです。

島津義久:釣り野伏せ

「釣り野伏せ」(つりのぶせ)は、薩摩国(現在の鹿児島県西部)「島津義久」(しまづよしひさ)と弟「島津義弘」(しまづよしひろ)の祖父「島津忠良」(しまづただよし)が、「伊作征伐」(いざくせいばつ)の際に用いた戦法です。のちに島津家のお家芸ともなり、数々の戦いで勝利を収めています。

釣り野伏せでは、まず多くの伏兵(ふくへい:敵を不意打ちするために待ち伏せする兵)が、茂みの中に隠れます。そして、敵陣に突入した先攻部隊を意図的に退却させ、伏兵が隠れているエリアまで敵を誘導。機を見た伏兵が、一気に側面から不意打ちする戦法です。

島津軍は、この釣り野伏せ戦法で幾度もの勝利を手にしました。何度も用いていた戦法であったため、敵に見破られることも想定したうえで、裏の裏をかいて巧みに敵を蹴散らします。自軍の兵数が敵軍の兵数より圧倒的に少ない場合、この戦法を用いることが多かったと言われているのです。

鈴木重秀:組撃ち鉄砲

鉄砲隊が活躍したことで知られる合戦と言えば、「織田信長」が「武田勝頼」(たけだかつより)の騎馬隊を破った「長篠の戦い」(ながしののたたかい)。

しかし、1575年(天正3年)に起こった長篠の戦い以前にも、1570年(元亀元年)から始まった「石山合戦」において、「鈴木重秀」(すずきしげひで)率いる「雑賀衆」(さいかしゅう:紀伊国[現在の和歌山県、及び三重県南部]北西部一帯の地侍による傭兵集団)が「組撃ち鉄砲」の戦法を用いていたのです。

組撃ち鉄砲は、数人で1組となって複数の鉄砲を使い、弾込め役や射撃役など分業制を採る戦法です。当時の一般的な鉄砲は、ひとりで使うと約20秒間隔でしか撃てませんでしたが、組撃ち鉄砲は、約4~5秒間隔という驚異の早撃ちを実現させた画期的な射撃法でした。

石山合戦は、「石山本願寺」(現在の大阪市中央区)に立てこもる「本願寺顕如」(ほんがんじけんにょ)と浄土真宗の門徒達が、織田信長と10年にも亘って戦った合戦です。織田信長は、本願寺顕如に加勢した鈴木重秀ら雑賀衆の組撃ち鉄砲に苦しめられ、本願寺顕如を屈服させるのに、10年の月日がかかりました。その苦い経験から、のちの長篠の戦いにおける鉄砲の活用に至るのです。

伊達政宗:騎馬鉄砲隊

「騎馬鉄砲隊」とは、その名の通り鉄砲を備えた騎馬隊のことです。名馬の産地である奥州(おうしゅう:現在の東北地方北西部)を領地とし、鉄砲を大量に揃える財力を持つ、「伊達政宗」だからこそ実現できた戦法でした。鉄砲を装備した騎馬隊が、前衛となって戦いのはじめに鉄砲を1発撃ち、その煙のなかから、後続する騎馬隊が突撃する戦法です。

騎馬隊と鉄砲隊の長所を活かした戦法で、長篠の戦いからヒントを得たとも、あるいは、鈴木重秀の助力があったとも言われています。前例のない戦法であった騎馬鉄砲隊は、向かうところ敵なしの部隊でした。

1615年(慶長20年)に勃発した「大坂夏の陣」でその力を発揮し、同合戦における一連の戦いのひとつ、「道明寺の戦い」(どうみょうじのたたかい)では、「後藤基次/後藤又兵衛」(ごとうもとつぐ/ごとうまたべえ)を始めとした数多くの敵を討ち取りました。

ところがそのあと、遅れて到着した「真田幸村/真田信繁」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)の軍勢が、伊達軍の騎馬鉄砲隊をぎりぎりまで引き付けて接近戦に持ち込み、伊達軍の撃退に成功したのです。雪辱に燃える伊達政宗でしたが、最終的に真田幸村は、この大坂夏の陣で討死。そして、同合戦で「徳川家」が「豊臣家」を滅亡させたことにより、戦そのものがなくなり平和な世が到来したのです。

伊達政宗
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

戦国時代の終わり

ここまで見てきた通り、武田信玄や上杉謙信などの個性的な戦国武将達は、それぞれに異なる戦法を用いて、幾度となく激しい合戦を繰り広げていました。そんななかで武将達は、あらゆる手を尽くして知略を巡らせ、敵の戦法における裏の裏を読むことで、味方と共に勝利を収めています。しかし、武将達が合戦に明け暮れていた戦国時代も、「徳川家康」が「石田三成」率いる西軍と戦った「関ヶ原の戦い」、そして「大坂冬の陣」と大坂夏の陣を経て終わりを告げたのです。

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