甲冑の部位

立物(たてもの)とは

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日本には、5月5日(端午の節句)に甲冑を飾るという習慣があります。これは、武家社会の慣習を、江戸庶民がまねたものです。甲冑に寄せた武家の思いを今に残す文化のひとつと言えるでしょう。兜は、頭部を守るための防具ですが、それ以上に重視されたのが、戦場で自らの威厳や地位を誇示し、矜持を表す武具としての意味合いでした。兜のなかでも、武将の信念や矜持を示すために用いられたのが「前立」(まえだて)をはじめとする「立物」(たてもの)です。立物の魅力を探ると共に、有名武将が立物に込めた思いを紐解きます。

甲冑(鎧兜)写真/画像
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甲冑(鎧兜)写真集
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兜に設置した装飾品

衝角付冑の立物

衝角付冑の立物

立物」(たてもの)の歴史は古く、日本式甲冑が登場する以前の古墳時代までさかのぼると言われています。

古墳時代後期の代表的な「兜鉢」(かぶとのはち)である「衝角付冑」(しょうかくつきかぶと)の天辺(てへん:頭頂部)に設置された「伏鉢」(ふせばち)、「筒」(つつ)、「受鉢」(うけばち)なども立物です。

中世に日本式甲冑が登場すると、大将格の身分を示すための標識的な意味合いで「前立」(まえだて)の一種である「鍬形」(くわがた)が用いられたのを契機として次第に普及。そののち、前立以外にも「脇立」(わきだて)、「頭立」(ずだて)、「後立」(うしろだて)など様々な形態が登場しました。

立物とは

立物とは、「眉庇」(まびさし)や兜鉢に立てることでを装飾する部品のことで、古墳時代から存在。中世においては着用者の威容(いよう)や存在を誇示するための道具として用いられたと言われています。

当世具足」(とうせいぐそく)の時代になると、立物は長大化すると共に、様々に意匠を凝らして制作されるようになりました。戦国武将達はこぞって自らの思想・信条や世界観などを表明する手段として立物を用いるようになっていったのです。

戦国武将
歴史を動かした有名な戦国武将を取り上げ、人物や戦い(合戦)をご紹介します。

前立

前立

前立

武将達が自らの思いを形にする手段として最も用いられていたとされているのが前立です。

その形状は多岐に亘り、主な物でも日輪や半月、三日月といった摩利支天(まりしてん)信仰や妙見(みょうけん)信仰に関連する意匠をはじめ、信仰する神仏、動植物などがありました。

当世具足における前立は、眉庇に設置した「祓立」(はらいたて)や突起した板状の金具である「角本」(つのもと)などに差し込んで装着するのが一般的です。

脇立

脇立

脇立

戦国時代後期に登場した当世具足の兜鉢には、その左右両脇に立物が設置されており、それらは、脇立と呼ばれていました。

脇立には、水牛の角を表した物、天を衝くようにそびえるU字形の物など様々な形状があり、その形状がそのまま武将の存在感になっています。

頭立

頭立

頭立

兜の天辺に設置されている立物が頭立です。頭立は木や皮革に金属、鳥獣の羽や毛など様々な素材を用いられて制作されました。

頭立を装着した代表的な兜としては、「森可成」(もりよしなり)所用と伝わる「銀箔押大釘頭立付鉄錆地日根野頭形兜」(ぎんぱくおしおおくぎずたてつきかなさびじひねのずなりかぶと)があります。1mを超える長さの大釘を配した1刎(はね:兜を数える単位)は迫力満点です。

後立

後立

後立

兜の後ろに付けられた立物が後立です。後立を設置している兜のなかでも、特に著名なのが、「豊臣秀吉」が所用したと言われている「一の谷馬藺後立兜」(いちのたにばりんうしろだてかぶと)。

29枚の葉(馬藺)が、まるで後光が差しているかのような形状をしている、非常に個性的な後立を持つ兜で、豊臣秀吉と言えばこの兜を連想する人も少なくないはずです。

「豊臣秀吉 甲冑写し」のYouTube動画

豊臣秀吉の甲冑の写しを
YouTube動画でご覧頂けます。

豊臣秀吉 甲冑写し

立物に込められた思い

現代でも、ほとんどの人がその名を知るような歴史上の名将達は、自らの信念・信仰などを表すような前立で装飾された兜を被っていました。そうした有名武将のなかから「伊達政宗」、「織田信長」、「武田信玄」、「直江兼続」を取り上げ、兜に設置した前立の由来などをご紹介します。

月への信仰を表す「三日月型」用いた伊達政宗

伊達政宗 甲冑写し
伊達政宗 甲冑写し

伊達家17代当主・伊達政宗の兜は、「三日月型」の前立で装飾されていました。

これは、星や月、太陽を神として崇拝する妙見信仰の影響を受けたもの。

太陽や月は、天体のなかでも特に人々の生活に密接にかかわっていることもあり、神格化され、戦場の加護を願う数多くの武将によって、前立の意匠として用いられました。

伊達政宗が月のなかでも三日月形を選んだのは、戦場で日本刀や槍などを振るったとき、邪魔にならないようにするための配慮がなされた結果であるとも言われています。

「伊達政宗 甲冑写し」のYouTube動画

伊達政宗 甲冑写し

子孫の繁栄と神の加護を願った織田信長

織田木瓜紋

織田木瓜紋

尾張の一領主として生まれながら、従来の考え方にとらわれない斬新な戦法をもって天下統一を狙うまでの武将に上り詰めた織田信長の兜は、織田家家紋「木瓜紋」(もっこうもん)と「御簾」(みす)で装飾されています。

木瓜紋については、瓜を輪切りにした断面や、鳥の巣を図案化したという説が有力。いずれにしても、子孫繁栄の象徴という位置付けであることに変わりはありません。

もうひとつの御簾は、寺院や神社、宮殿などで用いられる「すだれ」を表しています。ここから、御簾には尊いもの、神の加護を願う意味が込められるようになりました。自ら「絶対君主」のように振る舞い、合理主義者として知られている織田信長ですが、兜の前立には神への祈りを込めていたとも言えるのです。

「織田信長 甲冑写し」のYouTube動画

織田信長 甲冑写し

諏訪上下大明神への祈祷を込めた武田信玄

武田信玄 甲冑写し
武田信玄 甲冑写し

武田信玄と言えば、「ヤク」(インドなどの山岳地帯に生息している動物)の毛をあしらった兜を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

この、獣の毛で装飾された兜は、「兜蓑」(かぶとみの)と呼ばれる1刎。この兜によって、武田信玄は、さらに強くいかめしい武将としてイメージされるようになったとされます。

実は武田家の史料には、この兜蓑に関する記述が見付かっていません。武田信玄のいわゆる「諏訪法性兜」(すわほっしょうのかぶと)は、「諏訪上下大明神」(すわかみしもだいみょうじん)と記された前立が付けられた兜であるという旨だけが記されており、白いヤクの毛があしらわれているとは記されていないのです。

もっとも、武田信玄が諏訪上下大明神への深い信仰を有していたことは事実。自らに神を宿し、戦に勝利しようとしていたのです。

諏訪法性兜からは、生と死を分かつ戦場において、何とか神の加護を受けたいという武田信玄の思いを感じ取ることができます。

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武田信玄 甲冑写し

「愛」の文字を掲げた直江兼続

直江兼続 甲冑写し
直江兼続 甲冑写し

直江兼続と言えば、愛の文字で飾られた兜が印象深い武将。戦国時代に制作された個性的な立物のなかでも、一段と個性的で、他に類を見ません。

この愛の文字が意味するところについては諸説あります。主な説を3つご紹介しましょう。

①勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)が垂迹(すいじゃく:仏や菩薩が衆生[しゅうじょう]を救済するために仮の姿となってこの世に現れること)した軍神として、戦国武将から信仰を集めていた「愛宕権現」(あたごごんげん)の愛という説

②欲望や執着などの煩悩を悟りの境地へと導く「愛染明王」(あいぜんみょうおう)の愛という説

③義を重んじたことで知られる直江兼続らしく「仁愛」の愛という説が存在。

いずれにしても、直江兼続が愛に秘めた思いと共に戦いに臨んでいたことに変わりはありません。

「直江兼続 甲冑写し」のYouTube動画

直江兼続 甲冑写し

立物(たてもの)とは

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甲冑の胴

甲冑の胴
甲冑(鎧兜)における胴は、胸から腹の下までの前面と側面、背中をカバーする防具です。その中でも、特に人の胴体を保護するのが、甲冑(鎧兜)の胴。人の胴体には多くの内臓があり、頭や首と同様、優先的に守る必要のある部位です。胴もそれに合わせて、大きく丈夫に作られています。甲冑(鎧兜)の胴の種類や、その姿が時代と共に、どのように変化していったのかをご説明します。

甲冑の胴

甲冑の袖

甲冑の袖
古墳時代に出現した甲冑(鎧兜)は、時代を追うごとに進化し、平安時代から用いられた「大鎧」(おおよろい)でほぼ基本的な部分の完成が見られます。主な部位としては、頭を守る「兜」(かぶと)、身体の中心を守る「胴」、足回りを守る「草摺」(くさずり)、そして戦闘力の要として、腕部分を守る「袖」(そで)です。大鎧には、「小札」(こざね)で作られた「大袖」(おおそで)があり、敵の矢や刃による攻撃に対し、肩から上腕部を保護しました。このように、甲冑(鎧兜)の部位のひとつひとつには、古人の工夫が込められているのです。甲冑(鎧兜)の袖について、その役割や種類、進化の過程を追っていきます。

甲冑の袖

兜の種類と特徴、立物、面頬、機能

兜の種類と特徴、立物、面頬、機能
「兜」(かぶと)とは、頭部を守る防具です。「兜」という漢字は人が兜を被っている様子からできています。日本において、兜が出現したのは古墳時代。当初は防具としての役割を担っていましたが、時代の変化と共に武将達の威厳や個性を表現する役割も担うようになりました。現代では、端午(たんご)の節句に兜を飾ります。兜を飾る意味は、男の子が病気や事故などにならずに成長してくれることへの願いです。地域によっては誰が買うかも決まりがあります。兜は伝統的な兜飾りから、現代風のおしゃれな兜飾りまで様々です。兜の種類や兜飾りについて、また兜の付属品(立物、面具)及びその機能を通して、兜の役割についてご紹介しましょう。

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兜鉢(かぶとのはち)とは

兜鉢(かぶとのはち)とは
甲冑において、頭部を守るための防具が「兜」です。頭部は言わずと知れた人体の最重要部。そのため、兜は鉄板などの素材を用いて頑強に作られていました。その歴史は古く、日本式甲冑が登場する前からすでに存在。そののち、日本式甲冑と共に独自の進化を遂げていきました。頭部を守る兜の本体である「兜鉢」(かぶとのはち)についてご説明します。

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陣笠・とんきょ帽

陣笠・とんきょ帽
室町時代末期になると、戦での戦い方が大きく変化しました。騎馬武者同士による一騎打ちが影を潜め、集団での白兵戦(はくへいせん:近接した距離で行なわれる戦闘)に移行。各武将は農民などを最前線で戦う兵士として招集するようになったのです。「足軽」(あしがる)と呼ばれた彼らの頭部を守っていたのは、兜よりも安価で大量生産が可能な「陣笠」(じんがさ)でした。今回は、足軽の象徴である陣笠についてご紹介します。

陣笠・とんきょ帽

変わり兜

変わり兜
中世においては、初期の兜である「星兜」(ほしかぶと)に改良を加えた「小星兜」(こぼしかぶと)や「筋兜」(すじかぶと)、「頭形兜」(ずなりかぶと)が出現しました。そして、室町時代末期から江戸時代にかけては、鉄板を打ち出したり、紙や革で様々な物を形作ったりした「形兜」(なりかぶと)や、「張懸兜」(はりかけかぶと)など、従来の兜の概念に収まりきらない兜も登場。武将達は、自らの思想・信条を兜に込めた「変わり兜」を身にまとって戦場に立ったのです。ここでは、数多くの個性豊かな作品が作られた当世具足に付属していた、変わり兜について考察します。

変わり兜

面頬(面具)とは

面頬(面具)とは
面頬(めんぽお/めんぼお)は、甲冑(鎧兜)に付属した顔面を守るための防具で、最初に登場したのは平安時代後期。そののち、室町時代末期から安土・桃山時代にかけて広く普及したと言われています。 この時代には、機動性と堅固さをかね備えた「当世具足」(とうせいぐそく)が登場。各戦国武将が趣向を凝らし、百花繚乱の様相を呈した当世具足と同様、面頬(面具)も様々な作品が登場しました。 ここでは、面頬(面具)の基本的な事項についてご説明します。

面頬(面具)とは

面頬(面具)の歴史

面頬(面具)の歴史
面頬(めんぽお/めんぼお)は、日本式甲冑とともに進化・発展を遂げてきました。平安時代になると、それまで用いられていた「短甲」(たんこう)や「挂甲」(けいこう)から「大鎧」(おおよろい)へと進化。これに伴い、小具足のひとつとして、面頬(面具)が誕生したのです。西洋においても顔面を防御する、いわゆる「兜面」(かぶとめん)がありますが、これとは一線を画する日本独自の発展を遂げた防具。ここでは、日本における面頬(面具)の歴史についてご紹介します。

面頬(面具)の歴史

面頬(面具)の種類

面頬(面具)の種類
面頬(めんぽお/めんぼお)に取り外し可能な鼻が付属するようになると、様々な表情が作出されるようになりました。表情のある面頬(面具)は、着用した武者達にとって、仮面の役割も果たし、ときに怒り、ときには笑みを浮かべます。美女や老婆、翁さらには動物、鬼霊、神仏まで。様々な表情の面頬(面具)が制作されるようになりました。こうした表情は、敵を当惑させ、不気味さを感じさせるなど、精神的な揺さぶりをかける役割も果たしていたのです。面頬(面具)に表現された表情についてご説明します。

面頬(面具)の種類