南北朝時代

延元の乱

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「延元の乱」(えんげんのらん)とは、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)ら足利氏と「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の建武政権との間で起こった一連の戦いのことです。1336年(建武3年)に足利尊氏が後醍醐天皇に謀反を起こしてから、室町幕府を開くまでの戦乱を指します。足利尊氏を反逆者とする場合に「延元の乱」と呼び、反対の場合は「建武の乱」(けんむのらん)と呼ぶ、この戦いについてご紹介します。

延元の乱が起こった背景

後醍醐天皇

後醍醐天皇

1333年(元弘3年)、鎌倉幕府を倒したのち、「後醍醐天皇」は政治改革「建武の新政」に着手します。しかし、武士よりも公家を重用した政策で、鎌倉幕府倒幕に協力した武士の多くは不満を募らせていきました。

鎌倉幕府最後の執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)の子「北条時行」(ほうじょうときゆき)は、これを好機と捉え、1335年(建武2年)7月に建武政権の関東統治機関である「鎌倉将軍府」を襲撃。「中先代の乱」(なかせんだいのらん)が勃発します。

このとき、鎌倉将軍府を守っていたのは、「足利尊氏」の弟「足利直義」(あしかがただよし)でした。北条時行により足利軍は次々と撃破され、ひっ迫した足利直義は、京都にいた足利尊氏に助けを求めます。

弟の救援に向かうため、足利尊氏は後醍醐天皇に、自分を征夷大将軍に任命し、鎌倉への出兵を許可するよう求めましたが、後醍醐天皇はこれを拒否。後醍醐天皇は、「清和天皇」の血筋をひく「清和源氏」(せいわげんじ)の名門で、武士の支持を集める足利尊氏を野に放つことに危機感を抱いていたのです。

その結果、足利尊氏は、後醍醐天皇の許可を得ないまま、弟の救援のため鎌倉に向かいました。鎌倉に向かう道中、各地の武士が次々と加わり、足利尊氏の軍は最終的に約30,000にも達したと言います。一気に勢いを付け、足利尊氏は北条軍を打ち破り、中先代の乱を鎮圧しました。

延元の乱の始まり

足利尊氏・新田義貞

足利尊氏・新田義貞

北条軍に勝った足利尊氏は、弟・足利直義の願いもあり、そのまま鎌倉に残ります。これに不安を感じた後醍醐天皇は、足利尊氏にすみやかに京都に戻るよう命じますが、足利尊氏は従いません。

後醍醐天皇は、これを謀反と判断し、鎌倉幕府倒幕の立役者でもある武将「新田義貞」(にったよしさだ)に足利尊氏討伐の命令を下しました。

後醍醐天皇による自身の討伐令を知った足利尊氏は、もともとは尊皇の気持ちが篤かったこともあり、もとどり(頭上に束ねた髪)を切って剃髪(ていはつ)し、寺にこもって謹慎します。

しかし足利直義は、新田義貞軍と交戦。足利直義は苦戦し、結局、足利尊氏が出陣することになります。

足利尊氏は、1335年(建武2年)12月、「箱根・竹ノ下の戦い」で新田義貞軍を破りました。足利尊氏は、さらに京都の制圧を目指し、1336年(建武3年)1月に入京します。

後醍醐天皇は比叡山(ひえいざん:京都府京都市北東部)へと逃亡。しかし、「鎮守府将軍」(ちんじゅふしょうぐん:東北地方に置かれた軍政府の長官)である「北畠顕家」(きたばたけあきいえ)の軍が足利尊氏を包囲します。

北畠軍は100,000人、一方の足利軍は160,000と言われていましたが、足利尊氏は敗走することになり、命からがら摂津国(現在の大阪府北中部、兵庫県南東部)へ逃げ延び、そのまま船で九州へ向かいました。

時を同じくして、後醍醐天皇は、元号を「延元」と改めます。足利尊氏は新元号を認めることなく、引き続き「建武」という元号を使い続けました。延元の乱、建武の乱の呼び名があるのは、このためです。

九州に向かう道中、足利尊氏は「鞆の浦」(とものうら:広島県福山市)で、「光厳上皇」(こんごうじょうこう)から新田義貞討伐の院宣(いんぜん:上皇や法皇の命令が記された文書)を得ることに成功します。

光厳上皇は、1333年(元弘3年)に後醍醐天皇によって即位が覆された天皇でした。院宣により、足利尊氏は朝敵(ちょうてき:天皇の敵)となることを免れることができたのです。

室町幕府を開くまで

楠木正成

楠木正成

足利尊氏は、逃げ延びた九州で巻き返しを図ります。院宣のおかげで、九州への道中、そして九州内でも続々と味方を増やしていきました。

後醍醐天皇に不満を抱いていた武士の多くが、足利尊氏に賛同したのです。

しかし、1336年(建武3年/延元元年)3月、多々良浜(現在の福岡県東区)で、九州最大の後醍醐天皇方であった肥後国(現在の熊本県)の武将「菊池武敏」(きくちたけとし)と衝突します。それが「多々良浜の戦い」(たたらはまのたたかい)です。

兵力は圧倒的に菊池軍が大きかったにもかかわらず、足利軍が勝利しました。勝因は強い風。高地に陣を張っていた足利軍側から、菊池軍に向けて砂ぼこりを伴った強風が吹き付け、足利軍は風に乗せて次々と弓矢を放ったことで、菊池軍は退却を余儀なくされたと言います。

同年4月、多々良浜の戦いに勝利した勢いのまま筑前国(現在の福岡県福岡市)を発った足利尊氏は、約500,000の兵(諸説あり)を率いて、京都へ向けて進軍。陸路と水路に分隊し、陸路の指揮は弟の足利直義、水路を足利尊氏が指揮しました。

足利軍を迎え撃つのは、後醍醐天皇の忠臣、新田義貞と「楠木正成」(くすのきまさしげ)です。新田義貞は約10,000の兵で和田岬(わだみさき:現在の兵庫県神戸市)に陣を構え、楠木正成は約1,000の兵で会下山(えげやま:現在の兵庫県神戸市)に布陣します。

楠木正成は、足利軍に前後を挟まれるも撤退せずに最期まで戦い続け、遂に自害。新田義貞は挟撃を避けましたが、やがて敗走することになります。「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)と呼ばれるこの戦いに勝利した足利尊氏は、同年6月、光厳上皇を奉じて京都に入りました。

同年8月、足利尊氏は、光厳上皇の弟「豊仁親王」(とよひとしんのう)を天皇の位につけ、「光明天皇」(こうみょうてんのう)として擁立します。後醍醐天皇は比叡山を拠点に抵抗しましたが、同年10月、足利尊氏の説得により下山。皇位の象徴である「三種の神器」(さんしゅのじんぎ)を光明天皇に移譲します。

足利尊氏は、「建武式目」(けんむしきもく:室町幕府の施政方針を示した文書)を制定し、武家政権である室町幕府が誕生。延元の乱は幕を閉じました。

しかしその後、後醍醐天皇は、京都の吉野へ逃れ、南朝を宣言。後醍醐天皇の南朝と、光明天皇の北朝(鎌倉幕府)が並び立つ、南北朝時代へと突入していくことになります。

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