平安時代

平清盛が太政大臣に

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平安時代末期の武将で、武家政権を樹立したことで知られる「平清盛」(たいらのきよもり)。1167年(仁安2年)、平清盛は、朝廷から武士として初めて「太政大臣」(だじょうだいじん)に任命されました。太政大臣とは律令制度における最高位の役職であり、左右大臣の上に位置する太政官の長官です。当時、貴族ではない人物が任命されることは極めて異例だったと言えます。平清盛とはどのような人物であったのか、なぜ太政大臣という高位にまで上り詰めることができたのかご紹介します。

平清盛の出自

平清盛

平清盛

平清盛は、1118年(元永元年)、平安時代末期の武将「平忠盛」(たいらのただもり)の嫡男として誕生しました。

平清盛の祖父「平正盛」(たいらのまさもり)は、「伊賀国」(現在の三重県伊賀地方)の荘園を寄進するなどして、時の権力者「白河上皇」(しらかわじょうこう)に接近。平正盛は、朝廷の追討を受けていた「源義親」(みなもとのよしちか)を討ったことも評価され、平氏が武士の棟梁(とうりょう:武士団の統率者)として台頭するきっかけを作りました。

そして平正盛の子であり、平清盛の父の平忠盛もまた、瀬戸内海の海賊を討伐して「鳥羽上皇」(とばじょうこう)の信頼を獲得。鳥羽上皇の勅願を受けた「得長寿院」(とくちょうじゅいん:京都府京都市)を建立した功績により、「内裏」(だいり:天皇の御所)への昇殿を果たしたのです。平清盛は、祖父と父が築いた平氏政権の基盤を背景に、棟梁となって平氏をさらなる高みへと導きました。

一説によれば、平清盛の実際の父親は、白河上皇であったとも言われています。この説は、江戸時代に人々の間で伝わり、明治時代には小学校の教科書にも掲載されていたほどです。真偽は定かではありませんが、武士である平清盛の朝廷における出世が、どれほど異例であったかが分かります。

晩年は、協力関係にあった「後白河上皇」(ごしらかわじょうこう)と対立し、平氏打倒の動きが強まるなか、謎の熱病にかかり1181年(治承5年)に64歳で亡くなりました。

平清盛の性格

源頼朝

源頼朝

独裁的な政治を行なったイメージが強い平清盛ですが、情に厚い側面もありました。

自らの権力を固めることにより、近親者達を次々に重要なポストに任命したのも、一族の繁栄を願ったからこそ。

また、「平治の乱」(へいじのらん)において「源義朝」(みなもとのよしとも)を滅ぼしましたが、その嫡男「源頼朝」(みなもとのよりとも)を処刑せず、伊豆へ流刑とします。

これは平清盛の継母であった「池禅尼」(いけのぜんに)が、源頼朝が亡くなった子に似ているからと助命を嘆願したためでした。

この平清盛の棟梁らしからぬ温情が災いし、のちに源氏が平氏を滅ぼすことになるとは実に皮肉と言えます。

平清盛が太政大臣になるまで

すでに確固たる地位を築いていた平氏でしたが「保元の乱」(ほうげんのらん)及び平治の乱を経て、その力はより強大になっていきました。その集大成とも言えるのが、棟梁である平清盛が太政大臣に任命されたことです。

保元の乱

1156年(保元元年)に起きた保元の乱は、第77代天皇の「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)と「崇徳上皇」(すとくじょうこう)の対立と、藤原摂関家の家督争いが絡み合って勃発したと言われています。

平清盛は、後白河天皇軍として源義朝と共に参戦。平清盛の叔父「平忠正」(たいらのただまさ)や「源為義」(みなもとのためよし)らは崇徳上皇軍として従軍しています。平氏と源氏それぞれが、天皇家や貴族に協力して戦ったのです。

戦いでは、後白河方が崇徳方の拠点に夜襲をかけ、さらに源義朝の火攻めが功を奏して、後白河天皇の勝利に終わりました。この戦いの功績により、平清盛は播磨守(はりまのかみ)に任命されたのです。

平治の乱

深まる源氏と平氏の対立

深まる源氏と平氏の対立

保元の乱後、後白河天皇は、平清盛の功績を称え、褒美を与えたものの、共に戦った源義朝には、ほとんど褒美を与えませんでした。これは、後白河天皇に信頼され、権力を持っていた僧の「信西」(しんぜい)と、平清盛が協力関係にあったためと言われています。

信西と対立関係にあった後白河天皇の側近「藤原信頼」(ふじわらののぶより)は、平清盛が権力の中心に近いことを危惧し、褒美が少ないことに不満を抱いていた源義朝に近付いて、信西と平清盛を倒すように仕向けたのです。

1159年(平治元年)、源義朝は、平清盛が平氏一族を率いて熊野詣に出かけた隙を突き、後白河上皇が住む三条東殿(さんじょうひがしどの)に火を点け、さらに第78代天皇の「二条天皇」(にじょうてんのう)を捕えます。平治の乱の勃発です。

熊野に向かう途中で事件を耳にした平清盛は京都に戻り、後白河上皇と二条天皇を救出。上皇と天皇が救出されたことで、貴族達も平清盛の味方となり、結局は平氏が源氏を滅ぼすに至ったのです。

平治の乱の終結により、源義朝を失った源氏は大きく衰退し、平氏一強の時代に突入していきました。

積極的に姻戚関係を結び出世

平治の乱を勝ち抜いた平清盛は、関白「藤原基実」(ふじわらのもとざね)に娘の「平盛子」(たいらのもりこ)を、後白河上皇に妻の妹である「平滋子」(たいらのしげこ)を嫁がせ、自らの地位を固めていきます。

1160年(永暦元年)には武士として初の正三位(おおきみつのくらい)に、そして1167年(仁安2年)には、ついに太政大臣に昇進。どちらも武士としては初めて、かつ異例の大出世でした。

しかしその後、平清盛は日宋貿易の振興や多くの知行国を所有したことにより富を蓄え、次第に貴族化。宮廷内の貴族から反感を買い、武士からの支持も失っていきます。

また、平氏の台頭を抑えようとし始めた後白河上皇との確執が深まると、平清盛は後白河上皇を鳥羽殿(とばでん:京都府京都市)に幽閉。さらに、自身の孫を第81代天皇「安徳天皇」(あんとくてんのう)として即位させて、平清盛が政治の実権を掌握します。こうして平清盛は、初の武家政権である平氏政権を樹立したのです。

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