南北朝時代

南北朝合一

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南北朝時代は、「南朝」と「北朝」2つの朝廷が並存した時代のこと。皇統が2つに分裂したことで到来し、1336年(建武3年/延元元年)から1392年(元中9年/明徳3年)の約56年間も続きました。両朝の激しい対立によって、様々な戦いが繰り広げられましたが、最後は室町幕府3代将軍「足利義満」が仲を取り持って、和平を結ぶ形で決着。南北朝時代のはじまりから合一までの歴史をご紹介します。

はじまりは兄弟間の確執

後嵯峨上皇

後嵯峨上皇

1272年(文永9年)「治天の君」(ちてんのきみ:政務を司る上皇または天皇)であった「後嵯峨上皇」(ごさがじょうこう)が崩御しました。

後嵯峨上皇は、もともと幕府の意向で皇室を継いだ人物だったため、後継者の選出も鎌倉幕府に委ねていました。これが朝廷分裂のはじまりとなったのです。

治天の君候補となったのは、後嵯峨上皇の息子である第3子「後深草上皇」(ごふかくさじょうこう)と第7子の「亀山天皇」(かめやまてんのう)。

後嵯峨上皇は、崩御する寸前まで政務の実権を握っていましたが、第3子の後深草上皇よりも、第7子の亀山天皇を厚遇し、天皇の位を弟・亀山天皇に譲ります。

さらに、後深草上皇には皇子がいたにもかかわらず、生後1年にも満たない亀山天皇の皇子「世仁親王」(よひとしんのう:のちの「後宇多天皇」[ごうだてんのう])を皇太子に立てたのです。

後嵯峨上皇の崩御後、亀山天皇こそが後嵯峨上皇の内意であるとして、天皇親政(てんのうしんせい:天皇自らが政治を行なうこと)を開始し、これで後継者問題はすべてが丸く収まると思われたのですが、事態は次第に悪い方向へと転がっていきます。

大覚寺統と持明院統

後醍醐天皇

後醍醐天皇

亀山天皇が世仁親王に位を譲って院政をしくと、後深草上皇は不満を抱くようになりました。

そして、世間では「後深草上皇が、すべてをなげうって仏門に入る」という噂が流れるようになったのです。

幕府はこの噂を聞いて、後深草上皇、及び亀山天皇の了解を取り付けると、後深草上皇の皇子「煕仁親王」(ひろひとしんのう)を皇太子の位に付けました。

これまでの天皇と違い、武力で争うわけにもいかない両系列は、幕府に対して熾烈な裏工作を行なうことで実権を自分達の手に戻そうとします。

こうしたなか、幕府は両系統が交互に皇位を継ぐ「両統迭立」(りょうとうてつりつ)を定めました。亀山天皇の系列は、京都・嵯峨(さが)の「大覚寺」(だいかくじ)と縁が深かったため、「大覚寺統」(だいかくじとう)と呼ばれるようになります。

一方で、後深草系統は京都の里内裏のひとつである「持明院」(じみょういん)の御所に住んだため、「持明院統」(じみょういんとう)と呼ばれました。

1331年(元弘元年)大覚寺統の「後醍醐天皇」は、鎌倉幕府倒幕計画が漏れたため笠置山(かさぎやま)で蜂起します。

これに対抗して幕府は、後醍醐天皇に代わって持明院統の「量仁親王」(かずひとしんのう:「光厳天皇」[こうごんてんのう])を即位させますが、これにより2人の天皇が並存する事態に発展しました。

その後、鎌倉幕府は滅亡。後醍醐天皇は、光厳天皇の天皇即位を否定することで、自ら政治を執りはじめます。しかしその矢先に、倒幕に大きな功績があった「足利尊氏」が光厳上皇を奉じて京を制圧。光厳上皇の院政が開始されただけではなく、その弟である「豊仁親王」(ゆたひとしんのう:「光明天皇」[こうみょうてんのう])を即位させたのです。

後醍醐天皇は、一度は足利尊氏と講和したものの、1336年(建武3年/延元元年)に京を脱出。奈良の南方にある吉野に籠もり、南朝を開きました。これが、南北朝時代のはじまりです。

南北朝時代の到来

南北朝時代は、大別して3期に分けられます。

第1期は、南朝と北朝それぞれで朝廷が開かれた1336年(延元元年/建武3年)から1348年(正平3年/貞和4年)頃まで。第2期は、室町幕府内の内紛が激化した1348年(正平3年/貞和4年)から1368年(正平23年/応安元年)。第3期は、「足利義満」が3代将軍に就任する1368年(正平23年/応安元年)から、南北朝合一が成立する1392年(弘和2年/永徳2年)までです。

第1期・最も戦闘が激化した時期

高師直

高師直

1337年(延元2年/建武4年)、南朝の鎮守府大将軍(ちんじゅふだいしょうぐん:朝廷が設置した軍事機関)の「北畠顕家」(きたばたけあきいえ)が、足利家重臣「高師直」(こうのもろなお)により討ち取られます。

さらに翌年には、鎌倉幕府を滅亡させ、南朝の総大将となって北陸を中心に戦い続けていた「新田義貞」が、「藤島の戦い」の折に足利尾張家4代当主「斯波高経」(しばたかつね:「足利高経」[あしかがたかつね]とも呼ばれる)により討死。大将格を相次いで失った南朝は、軍事的に不利な状況となります。一方で北朝は、この機を逃すことなく有利に戦いを進めていきました。

1339年(延元4年/暦応2年)、後醍醐天皇の崩御に伴い、新しく即位したのが「後村上天皇」(ごむらかみてんのう)。後村上天皇は、後醍醐天皇の第7子で、父・後醍醐天皇が果たせなかった南北朝の合一を叶えるために奔走した人物です。

1341年(興国2年/暦応4年)頃から1348年(正平3年/貞和4年)までは、南北朝の小競り合いが続きましたが、吉野行宮(よしのあんぐう:奈良県吉野町にあった行宮[皇族が使用した施設])にいた後村上天皇を、高師直らが襲撃したことで、南朝の勢力は次第に衰退していきました。

第2期・室町幕府内の抗争

足利直義

足利直義

南朝を圧倒した北朝と室町幕府でしたが、ここにきて思わぬ事態に発展しました。それは、高師直と足利尊氏の弟「足利直義」(あしかがただよし)による対立の激化です。

当時、足利政権は政務を弟・足利直義が行ない、軍事を足利尊氏が担う二頭政治で動いていました。高師直は、足利尊氏を補佐する形で軍事指揮権にかかわっています。

そして、足利直義と足利尊氏はそれぞれの立場、及び政治的な思想の食い違いから、少しずつ対立を深めていったのです。

足利直義は、裁判制度の充実や、従来行なわれてきた制度・秩序を重んじる「保守派」の思想を持っていました。これに対して足利尊氏は、武力を行使することで利権を得る「革新派」としての思想を持っていたのです。

なお、革新派としての思想は足利尊氏ではなく、現場で指揮を執っていた高師直ら家臣の方が強かったと言います。

革新派と保守派それぞれに家臣が付き、起きた騒乱が「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)です。観応の擾乱のはじまりは、幕府内の内紛でしたが、この争いに乗じて南朝方の武士が次々に挙兵。戦いは京都、鎌倉、中国地方、九州にまで波及していきました。

1358年(正平13年/延文3年)合戦の後遺症が原因となり足利尊氏が病没。家督は嫡男の「足利義詮」(あしかがよしあきら)に譲られ、征夷大将軍に任命されます。

南北両朝が入り混じり、多くの合戦が繰り広げられるうちに、両軍の士気は次第に低下。南朝・後村上天皇や、北朝の将軍・足利義詮は、疲弊を理由に和平を考え始めていました。しかし、1367年(正平22年/貞治6年)に事態は急変します。

南朝の和平代表を務めていた公卿の「洞院実守」(とういんさねもり)が、「北朝側が降伏するべきだ」と主張。北朝は、これを聞いて激怒し、再び合戦が勃発しかけます。

後村上天皇は、南朝の和平代表を洞院実守から「楠木正成」の三男「楠木正儀」(くすのきまさのり)に変更し、和平交渉を継続させようとしましたが、同年12月に足利義詮が病没。さらに、翌年の1368年(正平23年/応安元年)には、後村上天皇も崩御してしまいます。

両朝の大将が相次いで没したことで、和平交渉は自然消滅し、その後約25年に亘り両朝の争いは続くことになりました。

第3期・幕府の将軍権威の確立から南北朝合一

足利義満

足利義満

1368年(正平23年/応安元年)4月、足利義詮の長男「足利義満」が元服し、朝廷から征夷大将軍を任命されたことで正式に室町幕府3代将軍となります。

足利義満は、管領「細川頼之」(ほそかわよりゆき)の補佐を受けながら、将軍権威を確立していきました。

細川頼之が南朝方に対して行なった寝返り工作により、楠木正儀を北朝へ引き入れることにも成功。これにより、南朝方の勢力は衰退し、幕府の体制はさらに盤石となります。

1379年(天授5年/康暦元年)、幕府の実権を握っていた細川頼之は、政敵「土岐頼康」(ときよりやす)や「斯波義将」(しばよしゆき)により罷免(ひめん:解雇)を求められて失脚。この出来事は「康暦の政変」(こうりゃくのせいへん)と呼ばれています。

細川頼之の代わりに管領に就いたのは斯波義将でしたが、この頃、斯波氏や土岐氏などの守護大名は勢力が大きかったため、統制ができないという背景がありました。そのために足利義満は、有力な守護大名の排除に動き出します。

はじめに、最も勢力が大きかった土岐氏に目を付けました。足利義満は、土岐頼康が没したのち、家督を継いだ「土岐康行」(ときやすゆき)と、その弟「土岐満貞」(ときみつさだ)を不仲にさせます。

結果、土岐氏の間で内乱が勃発。足利義満は、土岐康行を討伐する命を土岐氏一族の「土岐頼忠」(ときよりただ)と「土岐頼益」(ときよります)に下しました。

土岐康行は、土岐頼忠らが加勢した室町幕府軍に敗北。足利義満は、土岐氏の所領を大幅に削減することに成功します。次いで、足利義満は守護大名「山名氏」の勢力を削るため、山名氏が幕府に対して忠義を示していないことを理由に討伐を決行。山名氏を内部分裂させ、勢力を半減させることに成功したのです。

室町幕府の権威は、この時点で南朝を大きく上回っていました。また、幕府に対して不満を抱いていた寺社などに対しても、寺社の修復を積極的に行なうなどの寛大な対応を見せたことで、幕府に恭順の意向を示すようになります。

そして幕府は、1392年(元中9年/明徳3年)、南朝第4代天皇「後亀山天皇」(ごかめやまてんのう)との間に「明徳の和平」を締結。これが事実上の「南北朝合一」となり、約58年にも亘る南北朝の分裂は終わりを迎えたのです。

南北朝合一

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