日本刀の切れ味

大業物・良業物・業物混合

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「大業物・良業物・業物混合」(おおわざもの・よきわざもの・わざものこんごう)とは、江戸時代後期に編纂された刀剣書「懐宝剣尺」(かいほうけんしゃく)と「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)において、大業物や良業物、業物に格付けされなかった68刀工をまとめて紹介した項目です。
大業物・良業物・業物混合では、なぜ各刀工が大業物・良業物・業物に含まれず、「混合」という形で選定されたのかをご紹介。各刀工の特徴や著名刀工などについても掘り下げていきます。

大業物・良業物・業物に選ばれなかった理由

「大業物・良業物・業物混合」に選定された刀工達は、必ずしも各格付けの下に位置する刀工ではありません。あくまで同等の切れ味を有した日本刀を、追で選定したものです。

なぜ当初の格付け(最上大業物を除く大業物・良業物・業物)に含まれなかったのかについては諸説ありますが、一説では、「懐宝剣尺」と「古今鍛冶備考」が出された時期の違いが影響していると考えられています。

懐宝剣尺の初版が刊行されたのは1797年(寛政9年)。これがあまりに好評を博したため、著者のひとりだった「山田浅右衛門吉睦」(やまだあさえもんよしむつ)が再編纂を思い立ち、1830年(文政13年)に古今鍛冶備考が刊行されました。

古今鍛冶備考

古今鍛冶備考

しかし、実はこの30余年の期間も、山田浅右衛門吉睦は幕府の「御様御用」(おためしごよう)という立場を活かして、試し斬りを続行していたのです。これにより懐宝剣尺刊行時には切れ味を吟味できなかった日本刀が、古今鍛冶備考刊行時には膨大な数に増加。

これらのうち、特に切れ味鋭い作例を掲載するため追加された項目が大業物・良業物・業物混合だったと考えられています。なお、切れ味の基準は懐宝剣尺と同様、平時に荒事をしている30~50歳前後の男子で、乳割(ちちわり:両乳首より少し上の部分を指す試し斬り用語)以上に堅い部分を10回斬撃する方法です。両断もしくは両断寸前まで切り込めた回数が、7~8回なら大業物、5~7回なら良業物、3~4回なら業物。

大業物・良業物・業物混合の作例も、すべてこの範囲の切れ味を有していました。

鍋割、兜割の異名を持つ「同田貫」

大業物・良業物・業物混合の68刀工の中にも、著名な刀工は多々見られます。なかでも注目すべきは、「鍋割」(なべわり)と名付けられた日本刀を制作したことで知られる「同田貫正国」(どうだぬきまさくに)。永禄年間(1558~1570年)頃から肥後国(現在の熊本県)の同田貫という地で作刀を続けた刀工集団です。

なお、代表作の鍋割には、戦国時代ならではの次のような逸話が残されています。

徳川家康

徳川家康

徳川家康」が「武田勝頼」(たけだかつより)の支城である高天神城(たかてんじんじょう:現在の静岡県掛川市)を攻めていたとき、城への帰途で武田氏の武者に襲われたことがありました。すると道案内役だった家臣「永田正吉」(ながたまさよし)が敵に突進し、見事に斬撃。

鍋のように頑丈であった兜ごと切り伏せたことから、徳川家康は「今後、その刀を鍋割と呼ぶが良い」と褒め称えたのです。以後、「九州肥後同田貫藤原正国」と銘が切られたこの1振は、鍋割と呼ばれるようになります。

なお同田貫派は、1596(慶長元年)~1780年(安永9年)の新刀期と、そのあとに続く新々刀期に至るまで、質実剛健を旨とした頑強な作例を次々と世に送り出しました。

幕末から明治にかけて活躍した剣客「榊原健吉」(さかきばらけんきち)の愛刀「兜割」(かぶとわり)も、同派の作例が尋常でない切れ味と頑強さを有することを今に伝えています。もともと榊原健吉は、直心影流(じきしんかげりゅう)の剣豪であり、江戸幕府お抱えの剣術教授方でした。

明治維新後は政府が大々的な欧化政策に舵を切ると撃剣会(げきけんかい)と言う団体を設立し、剣術普及活動を開始。「撃剣興行」を行ない、大衆の前で華麗な刀さばきを披露していました。そんな折、1887年(明治20年)11月10日に、伏見宮邸で行なわれる兜の試し斬り試合への参加を促されたのです。同邸に行幸した明治天皇御前での演武であり、示されたのは明珍(みょうちん:平安時代より続く甲冑師の家名)作の南蛮鉄桃形兜(なんばんてつももなりかぶと)でした。

兜は元来、斬れないように作られているため、よほどの切れ味を有する刀でなければなし得ません。実際、榊原健吉は事前に何度も自前の刀で試し「刀で兜を切るのは不可能である」と出場辞退を申し出たほどでした。しかし、辞退が認められず思案に暮れていた榊原健吉に、ある刀剣商が「同田貫業次」(なりつぐ)が鍛えた1振を授けたのです。

当日、立身流(たちみりゅう)居合と鏡新明智流(きょうしんあけちりゅう)剣術の使い手「逸見宗助」(へんみそうすけ)や、鏡新明智流の達人「上田馬之助」(うえだうまのすけ)が次々と兜割りに失敗する中、いよいよ榊原健吉の出番が回ってきます。得意の大上段に構え、裂帛(れっぱく:帛 [きぬ] を引き裂くような鋭い声)の気合とともに振り下ろすと、明珍の兜は3寸5分(約10.5cm)も斬り割られていたのです。

以来、この1振は「兜割」とも称されるようになりました。「同田貫」の切れ味が、大業物などに引けを取らない水準だったことがうかがえます。

同田貫正国

同田貫正国

地域性や希少鍛冶の名前も見られる

大業物・良業物・業物混合に列せられた刀工達を土地の観点から見るのも興味深いところです。美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)の関鍛冶が8名、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県東南部)の長船鍛冶が7名、加賀国(かがのくに:現在の石川県南部)の加州鍛冶が5名まとまって挙げられている事実からは、懐宝剣尺と古今鍛冶備考が刊行された時期に、同地が作刀振興地として隆盛を誇っていたことが分かります。

また、これらの刀工に混じり「波平重吉」(なみのひらしげよし)の名が見えることも注目すべき点です。波平派は薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県西部)谷山郡波平(現在の鹿児島県鹿児島市)に居住し、作刀に従事した刀匠群。国内でもまれに見る希少流派のひとつとされています。同派の祖とされるのが、平安時代後期に活躍した「波平行安」(なみのひらゆきやす)で、別名(改名以前の名)は「橋口正国」(はしぐちまさくに)。大和古千手院派(やまとこせんじゅいんは)の刀匠であり、平安時代末期に薩摩国に移住した人物でした。

ちなみに現地の鹿児島市東谷山には「波之平刀匠之遺蹟」と刻まれた石碑も立っています。

なお、波平鍛冶の嫡流家は代々波平行安を称して作刀に励みました。その歴史は極めて長く、代にして64代。時代にすると幕末期まで約900年間続きました。これは剣史上比類のないことです。また、切れ味においても評価が高く、様々な時代の武将達が波平行安の日本刀を佩刀にしました。古くは「平家物語」や「太平記」などの軍記物にも「波平」の名が登場。

「源平盛衰記」では源氏方の武将「猪俣範綱」(いのまたのりつな)が、平家方の武将「平盛俊」(たいらのもりとし)の首級を上げた場面に「彼ノ刀ハ薩摩国住、浪平造ノ一物ナリケリ」という文言で記されています。

さらに明治時代には、元薩摩藩士で歌人の「八田知紀」(はったとものり)が和歌にのせて「波平」の1振を称賛。「剣(つるぎ)打つ波平より海見れば、研ぎすましたる色にこそあれ」と詠み、錦江湾の美しい色合いと「波平」の鋭さを重ねています。

切れ味のほどを彷彿とさせる和歌です。こうした希少流派も名を連ねている点を鑑みると、懐宝剣尺や古今鍛冶備考の刊行に至るまで、いかに多くの試し斬りが行なわれたのかが分かります。一説によれば、その数は20,000回にも上ったと言われています。

大業物・良業物・業物混合 68刀工一覧
会津為利 石堂正俊
宇多国房 越前兼正
越中守高平 越後守忠道
長船在光 長船祐定
長船経家(初代) 長船経家(二代)
長船治光 長船久光
長船賀光 小山関広長
加州家忠 加州家吉
加州兼巻(初代) 加州行光
加州吉家(初代) 河内守包定
貝三原正近 月山寛安(日向)
清左(佐藤) 国輝(与州)
国富(日向) 国長(赤坂千手院)
国平(奥氏) 国平(川崎)
上野守兼定 相模守兼安
相模守政常(初代) 佐々木一峯(初代)
三条義国 鎮忠(同位)
鎮政(甲賀) 下総大掾宗吉
下原康重(初代) 助鄰(江戸)
関兼音 関兼国
関兼貞 関兼辰
関兼則 関兼道
関広辰(初代) 関長俊
仙台永重(初代) 相州綱家
相州康春 高田国行
高田輝行 平高田盛方
手掻包俊 出羽守助重
寿命 土佐将監為康(初代)
土州久国 同田貫正国
波平重吉 南紀重国(二代)
播磨入道吉成 広隆(広島)[初代]
弘包(初代) 豊後守正金
法城寺国吉 陸奥守輝政
大和守安行 若狭守道辰

大業物・良業物・業物混合

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日本刀の切れ味

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日本刀の特徴を「折れず、曲がらず、よく切れる」と表現しますが、その理由はどこからきているのでしょうか。日本古来の伝統技法によって鍛えられた日本刀には、切れない物はないと言っても過言ではない強靱さと鋭利さをかね備えています。言わば最強の刀剣「日本刀」。そんな日本刀の切れ味は日本国内や海外でも非常に高く評価されており、その凄すぎる切れ味を伝えられる逸話が多数残されているのです。 今回は「日本刀の切れ味が分かる歴史」と「日本刀の切れ味を伝える名刀の逸話」についてご紹介。罪人の遺体を何人切れるかで日本刀の切れ味を確かめる「試し切り」や、日本刀で一刀両断されたと伝えられる「天石立神社の一刀石」など、日本刀の歴史や名刀の逸話を解説していきます。また、最強の刀剣とは一体どれなのかを決めるランキングをまとめた江戸時代の書籍もご紹介しますのでお楽しみ下さい。 日本刀の切れ味 関連YouTube動画 日本刀の切れ味~抜刀道~ 最強の日本刀

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刀剣の価値は、美術品としての美しさだけでなく、実戦で扱う際の切れ味の鋭さも非常に重要とされてきました。そのため、鋭い切れ味を表す特殊な名前(号)が付けられた名刀が、数多く存在します。「へし切長谷部」や「小豆長光」など、一見不思議な名前に見える、刀剣の切れ味が名前(号)となった名刀を見ていきましょう。

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「大業物」(おおわざもの)とは、江戸時代後期に編纂された「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)と「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)において、「最上大業物に次ぐ切れ味を有している」という評価を得た業物のことです。刑死した罪人に死体を使った試し斬りによって格付けされ、計21工が選出されました。大業物では、どのような刀工が選ばれ、いかなる特徴を持った日本刀なのかをご紹介していきます。

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「良業物」(よきわざもの)とは、刑死した罪人に死体を使った試し斬りの結果、「大業物(おおわざもの)に次ぐ切れ味を有している」との評価を得た業物のことです。いずれも江戸時代後期に編纂された「懐宝剣尺」(かいほうけんしゃく)と「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)に記されており、刀工の数は総勢58。平時に荒事をしている30歳〜50歳前後の男子の胴で、乳割(ちちわり:両乳首より少し上の部分)以上に堅い部分を10回斬撃して5~7回両断もしくは両断寸前まで切り込めた作例が選ばれました。良業物では、選ばれた刀工達の中でも著名な作例を紹介し、その魅力を掘り下げていきます。

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