日本刀の切れ味

良業物

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「良業物」(よきわざもの)とは、刑死した罪人の死体を使った試し斬りの結果、「大業物(おおわざもの)に次ぐ切れ味を有している」との評価を得た業物のことです。いずれも江戸時代後期に編纂された「懐宝剣尺」(かいほうけんしゃく)と「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)に記されており、刀工の数は総勢58。平時に荒事をしている30歳〜50歳前後の男子の胴で、乳割(ちちわり:両乳首より少し上の部分)以上に堅い部分を10回斬撃して5~7回両断もしくは両断寸前まで切り込めた作例が選ばれました。良業物では、選ばれた刀工達の中でも著名な作例を紹介し、その魅力を掘り下げていきます。

日本刀の名産地となった備前国

まず、良業物を見ていく際に注目すべき点は、58刀工中15名を「備前伝」(びぜんでん:備前国[現在の岡山県北南部]近辺で輩出された刀工達による日本刀制作法)が占めていることです。

このような偏った比率は良業物以外では見られず、良業物ならではの特徴となっています。

また備前伝は、明治時代に行なわれた日本刀の代表的な産出地決定のときに「大和伝」(やまとでん)、「美濃伝」(みのでん)、「山城伝」(やましろでん)、「相州伝」(そうしゅうでん)とともに「五箇伝」(ごかでん)のひとつに指定されました。

五箇伝

五箇伝

備前伝が鍛えられた備前国の吉井川下流域では、平安時代後期から室町時代に至る数百年の間に、日本刀の作刀がたゆみなく行なわれてきました。

福岡一文字(ふくおかいちもんじ)派、吉岡一文字(よしおかいちもんじ)派、長船(おさふね)派、畠田(はたけだ)派の諸流派が競い合って切れ味に優れた日本刀を作刀し、多数の名刀と名工を輩出。なお、良業物に選ばれている備前伝の日本刀はすべて長船派です。

吉井川下流域が日本屈指の日本刀制作地となった要因は2つあります。

ひとつは吉井川の水運を利用して、同国北部に控える中国山地とつながっていた点です。同山地では良質な砂鉄に加えて、炭用の薪を大量に採取することができました。砂鉄は刀身の原料で、炭は刀身鍛造に必要な火の燃料。

これらの物品が吉井川の水運を利用して、下流域に供給され続けたのです。

もうひとつの要因は地の利。吉井川下流域は、中国山地を水源とする湧水が豊富であった上に、交通の便に恵まれていました。まず、水は刀身の焼き入れ時に不可欠であるため、良質な湧水が豊富な吉井川下流域は作刀に適していたのです。

さらに、交通手段として瀬戸内海の海運を利用できました。日本刀制作に必要な道具はもちろん、食料や生活必需品なども運んでいました。

このように、吉井川流域が名刀・名工の輩出地となったのは、砂鉄・燃料・水に恵まれていたことに加え、瀬戸内海の海運を通じて、日本刀鍛造に必要な諸道具や様々な生活物資を絶え間なく得ることができたためです。

五箇伝の名工
刀剣・日本刀の歴史に名を残した、数々の名工をご紹介します。

中国人も絶賛した備前刀の切れ味

備前伝の日本刀は平安時代後期〜1595年(文禄4年)の古刀期にかけて、産出量日本一を誇っており、「良質な日本刀=備前刀」と言われていました。

古刀期の日本刀は中国大陸にも輸出されており、その始まりは平安時代。宋王朝(960~1279年)に向けて運ばれていました。珠のように美しく、かつ切れ味鋭い日本刀はたちまち評判となり、同時代の文学者・詩人・歴史学者の欧陽脩(おうようしゅう)などは「日本刀歌」を詠んで絶賛するほどでした。

日本刀の制作技術が向上し量産化に拍車がかかると、輸出数はさらに激増。明王朝時代(1368~1644年)の中国大陸に向けて膨大な数の日本刀が東シナ海をわたって運ばれました。明王朝時代の中国では日本刀は「倭刀」(わとう)とも呼ばれていました。なお、「倭」は日本を指す古い言葉。明国で記された物産解説書「東西洋考」(とうざいようこう)には「倭刀、甚(はなは)だ利あり。中国人多くこれをひさぐ(鋭い)」とまで記載されています。

刀剣制作に関して中国は、日本以上の歴史を有しています。日本列島が石器を使っていた時代、すでに青銅や鉄などにより武器を制作していたのです。この悠久の歴史を持つ中国で絶賛された点こそ、当時の切れ味が鋭い最強の日本刀がいかに鋭かったのかを物語っています。

良業物に見る著明な刀工

良業物に選出された刀工の中には、著名刀工も少なくありません。

まずは、「会津兼定」(あいづかねさだ)。美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)を拠点とした刀工集団です。古刀期から作刀を開始しており、やがて室町時代末期、陸奥国会津(むつのくにあいづ:現在の福島県会津若松市)に移住し、芦名氏に仕えたのが会津兼定の祖となりました。以来、11代に渡り日本刀を制作しています。

「懐宝剣尺」や「古今鍛冶備考」の成立よりあとになりますが、最後の11代兼定はとりわけ有名です。1837年(天保8年)会津城下の浄光寺町に生まれた11代兼定は刀鍛冶として天分の才を有していたとされ、16歳のとき、藩主の命令で10代兼定の代作を務めて見事に仕上げています。以来、会津藩お抱え鍛冶として会津城下で鍛刀していましたが、最後の会津藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)が京都守護職として上洛した際に、あとを追って京都に入りました。

上洛後は西洞院竹屋町に鍛冶場を構えて、日本刀の鍛造を開始。1863年(文久3年)には松平容保の周旋により「和泉守」を受領しています。

ちなみに幕末期の京都は尊王攘夷浪士によるテロが横行。松平容保は京都守護職の任務である治安維持活動をより強く推進するため、浪士を中心とした警護部隊を発足させます。こうして誕生した新選組こそ、11代兼定の名を一躍世に広める役割を担いました。

新撰組

新撰組

新選組は天然理心流4代目宗家・近藤勇(こんどういさみ)を中心に結成された組織であり、局長の近藤勇を筆頭に剣客揃い。治安回復の最前線に投入されていたため、切れ味の鈍い鈍刀(なまくらがたな)を帯びることは死を意味しました。

そのため11代兼定が作刀を始めると、応じきれないほどの注文が新選組から舞い込んだそうです。新選組隊士の11代兼定に対する信頼に加え、作例の切れ味のほどが察せられます。なお、新選組にあって「鬼の副長」と恐れられた土方歳三(ひじかたとしぞう)の佩刀「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)は、この11代兼定が鍛えたものです。

良業物に選ばれた刀工中には、会津兼定の他に「越前康継」(えちぜんやすつぐ)、「大和守安定」(やまとのかみやすさだ)といった刀工の名も見られます。越前康継は3代に渡って越前国(えちぜんのくに:現在の福井県北東部)で日本刀を鍛造した刀工です。

手がけた脇差は江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の秘蔵刀として知られています。日本刀に並々ならぬ愛着を持っていた徳川吉宗は、1722年(享保7年)山田家2代当主「山田浅右衛門吉時」(やまだあさえもんよしとき)に命じて、越前康継の作例で試し斬りを行なわせています。

その脇差は、試し斬りに使われた死体の胴を見事に両断し、尋常ではない切れ味を見せました。大和守安定は江戸時代前期、関東で作刀をした刀鍛冶です。この刀工の作例も無類の切れ味を誇っており、「天下開闢以来五ツ胴落」と銘の入った作例の他に、「籠釣瓶」(かごつるべ)という銘の入った日本刀もあります。籠釣瓶とは切れ味を示す截断銘(さいだんめい)です。

釣瓶は井戸から水をくむための道具。これが籠製であったら釣瓶内に水が溜まらず、汲み上げることができません。籠釣瓶とは「[本来切ることのできない]水さえも溜まらぬほどの切れ味」を意味しています。

良業物 58刀工一覧
会津兼定(初代) 会津政長
伊賀守貞次 坂倉正利(初代)
坂倉正利(二代) 一竿子忠綱
石堂是一(初代) 伊勢大掾吉広
越前兼植(初代) 越前康継(初代)
越前康継(二代) 越前兼則
越前兼法 越後守国儔
長船家助(二代) 長船勝光(次郎左衛門)
長船勝光(右京進) 長船祐光
長船祐定(九代) 長船忠光(初代)
長船忠光(二代) 長船忠光(三代)
長船則光(五郎左衛門)[初代] 長船則光(助右衛門)
長船法光(初代) 長船法光(二代)
長船秀助 長船宗光
長船盛景 岡山国宗
大与五国重 近江守助直
近江守久道(初代) 奥和泉守忠重
上総介兼重 金房正真
関兼定(三代) 関兼常
関兼房 仙台国包(二代)
摂津守忠行(初代) 相州綱広(初代)
丹後守直道 高田行長
丹波守吉道(大坂・初代) 丹波守吉道(大坂・二代)
丹波守吉道(京・初代) 丹波守吉道(京・二代)
南紀重国(初代) 備中守康広(初代)
日置越前守宗弘 日置対馬守常光
日置出羽守光平 武蔵守吉門
山城大掾国次(初代) 大和守安定
大和大掾正則(初代) 若狭守氏房(初代)
著名刀工名鑑(刀工・刀匠)
日本刀制作における著名な刀工・刀匠をご紹介します。
現代刀の名工・名匠
現代の日本刀を代表する作品を生み出し、突出した技術を持つ刀匠をご紹介致します。
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切れ味が鋭い最強の日本刀

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切れ味の逸話が残る日本刀

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刀剣の価値は、美術品としての美しさだけでなく、実戦で扱う際の切れ味の鋭さも非常に重要とされてきました。そのため、鋭い切れ味を表す特殊な名前(号)が付けられた名刀が、数多く存在します。「へし切長谷部」や「小豆長光」など、一見不思議な名前に見える、刀剣の切れ味が名前(号)となった名刀を見ていきましょう。

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最上大業物

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江戸時代後期に編纂された「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)と「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)で、日本刀を切れ味という観点から評価し、最高位に選ばれた15刀工を「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)と言います。この最上大業物はどのように選出されたのか、また、どのような刀工が選ばれているのか。時代の変遷に沿ってご紹介します。

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大業物

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「大業物」(おおわざもの)とは、江戸時代後期に編纂された「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)と「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)において、「最上大業物に次ぐ切れ味を有している」という評価を得た業物のことです。刑死した罪人の死体を使った試し斬りによって格付けされ、計21工が選出されました。大業物では、どのような刀工が選ばれ、いかなる特徴を持った日本刀なのかをご紹介していきます。

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業物

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「業物」(わざもの)とは、江戸時代後期の書物「懐宝剣尺」(かいほうけんしゃく)と「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)において、「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)や「大業物」(おおわざもの)、「良業物」(よきわざもの)に次ぐ切れ味だと評価された93刀工のことです。30~50歳前後の男子の胴で、平時に荒事をしていて骨組の堅い者の乳割(ちちわり:両乳首より少し上の部分を指す試し斬り用語)以上に堅い部分を切りつけ、10回中3~4回両断もしくは両断寸前まで切り込めた作例が、業物と認定されました。業物では、業物に選ばれた作例の傾向や特徴などについてご紹介していきます。

業物

日本刀の業物

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業物(わざもの)とは、「業良き物」を意味する言葉で、切れ味の良い日本刀のことを指します。日本刀を武器にして戦う武士にとって、切れ味が鋭い最強の日本刀の良し悪しは、そのまま己の生死を左右したため、非常に重要な指標として古来注目されてきました。また、業物か否かは、刀剣鑑定家による見解の他、罪人の死体を利用した「試し斬り」の結果により判断されます。試し斬りは、安土桃山時代から江戸時代にかけて盛んに行なわれましたが、江戸時代になり太平の世がくると、その残忍さから徐々に忌み避けられるようになりました。これを受け、御様御用(おためしごよう)と呼ばれる試し斬りの専門職が設けられるようになったのです。その代表格である「山田浅右衛門」(やまだあさえもん:試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名称)による試し斬りの鑑定書が出版されるとこれが大変な評判となりました。試し斬りによる鑑定書には、江戸時代後期に刊行された「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)と「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)の2書があります。日本刀の業物では、同書に書かれている内容や特異性などについて解説していきます。 日本刀の切れ味~抜刀道~ YouTube動画

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大業物・良業物・業物混合

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