実用性だけでなく、「美術品」としても高い価値が認められている日本刀。現代へと受け継がれるまで、様々な「格付け」(価値付け)が行なわれてきました。これにより日本刀の実用性・価値の高さと信用が保たれ、土地に代わる「恩賞」にもなるほどです。日本刀の格付けと歴史についてご紹介します。
徳川吉宗
「名物」(めいぶつ)とは、享保名物帳(きょうほうめいぶつちょう)に収載された日本刀のことを言います。1719年(享保4年)、江戸幕府8代将軍である「徳川吉宗」が本阿弥家13代当主の「本阿弥光忠」(ほんあみこうちゅう)に下命し、諸国に散らばった諸大名が収蔵する名刀を報告させ、まとめた書物のひとつです。
現代風に言えば「名刀リスト」のような物をイメージしてもらえば分かりやすいでしょう。
徳川吉宗は、幕政を改革するために武道を奨励しました。また、日本刀の価値を高めようと、享保名物帳を編纂(へんさん)し、名物として名刀を掲載したのです。
本阿弥家は、もともと室町時代に足利将軍家に仕えて日本刀を研磨する仕事をしていました。その後、研磨の技術を磨き、多くの研磨に関する資料を蓄積していったことから、日本刀の鑑定に従事するようになったのです。
十代目の「本阿弥光室」(ほんあみこうしつ)のころには、日本刀の価値を記した「折紙」を発行。
「折紙つき」の語源は、この折紙から来ているのです。徳川吉宗が本阿弥光忠に名刀リストの作成を命じたのは、とても合理的な人選だったと言えます。
名物に選ばれた日本刀は、姿が優れていることはもちろん、その日本刀にまつわる物語や異名のあることにより選定されました。
優れた日本刀が名刀として人々に意識されるようになったのは室町時代です。
室町幕府8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)が集めた名刀は、「東山御物」(ひがしやまぎょもつ、またはひがしやまごもつ)と呼ばれるようになりました。
また、室町幕府を討幕した「織田信長」は、この東山御物を戦利品として押収し、恩賞として家臣に分け与えており、それを「豊臣秀吉」が召し集め、「太閤御物」(たいこうぎょぶつ)としています。ちなみに、太閤御物は豊臣秀吉臨終の際に多くが大名家に形見分けされ、残りは「大坂冬の陣・夏の陣」で焼失しました。
享保名物帳に収載された日本刀は、上巻で68振。下巻は100振、加えて焼失の日本刀も81振でした。のちに追加で25振が加わり、全274振を収載。
特に、「藤四郎吉光」作の日本刀は全34振(16振・焼失18振)、「五郎入道正宗」作の日本刀は全59振(41振・焼失18振)、「郷義弘」(ごうのよしひろ)作の日本刀は全22振(11振・焼失11振)が収載され、これらは「名物三作」と呼ばれました。
「日本書紀」によると、最初に号が付けられたのは、なんと神話の時代。
天皇の皇位のしるし「三種の神器」のひとつである日本刀「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)で、別名「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれています。
「スサノオノミコト」(日本神話の神。天照大神の弟)が、出雲国(現在の島根県)で、「八岐大蛇」(やまたのおろち)を退治したときに、その尾の中から出たと伝えられている日本刀です。
頭が8つある八岐大蛇の頭上に、常に雲が帯びていたことから、スサノオノミコトが天叢雲剣という号を付けたと伝えられています。
また、同じ日本刀を景行天皇の皇子である「日本武尊」(やまとたけるのみこと)が「倭姫命」(やまとひめのみこと)から賜り、東国征討の際に敵が放火した草をなぎ払って難を逃れたことから、草薙の剣という別号が付けられました。
刀剣にまつわる神事・文化・しきたりなどをご紹介します。
名物の中でも面白い号を持つ物は、以下の通りです。
冗談で切る真似をしただけで相手の骨が砕けてしまったり、切られたときに骨が砕かれたかのように痛んだりするという逸話を持つことから名付けられました。1657年(明暦3年)の「明暦の大火」で焼失しましたが、焼き直され、現在は重要文化財です。
骨喰藤四郎
刀工 | 刃長 | 時代 | 主な所有者 |
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粟田口吉光 | 58.8cm | 鎌倉時代 | 大友家 → 足利尊氏 (足利将軍家) → 松永久秀→ 大友宗麟・義統 → 豊臣秀吉→ 豊臣秀頼 → 木村重成→ 徳川家康 → 徳川秀忠 → (明暦の大火で 焼失し、 徳川康継が修復)→ 紀州徳川家 → 徳川将軍家 → 豊国神社所蔵 |
渡し船に乗船していたお客同士が喧嘩になり、ひとりが斬られて泳いで岸に向かったところ、岸に着いた途端に体が真っ二つに割れたという逸話があります。
後世の所有者が、銘に「波およき末代剣 兼光也」と金象嵌(きんぞうがん)で号を入れた珍しい作品です。大磨上無銘。
波遊兼光
刀工 | 刃長 | 時代 | 主な所有者 |
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備前長船兼光 | 64.8cm | 南北朝時代 | 上杉家 → 豊臣秀次 → 豊臣秀吉 → 小早川秀秋→ 松平忠輝 (徳川家康の六男)→ 立花宗茂 (筑後柳川城主) → 個人 |
号の由来は、五月雨の頃、本阿弥家が郷義弘作と決めたからです。また、刃の輝きがまるで五月雨が降っているように霞がかかり美しかったからとも言われていますが、実は「本阿弥光甫」がサビ防止のため、油を引き過ぎてかすんで見えただけ、というオチがあります。大磨上無銘。
五月雨郷
刀工 | 刃長 | 時代 | 主な所有者 |
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郷義弘 | 71.5cm | 南北朝時代 | 本阿弥光室 → 黒田長政 → 徳川秀忠 → 前田光高 → 前田利常→ 尾張徳川家 (二代)光友 → 徳川綱吉 (徳川将軍家) → 徳川美術館所蔵 |
足利将軍家が所蔵していた頃、研ぎに出そうと立てかけたときに、誤って猫が触れてしまい、真っ二つに切れてしまったと言います。それを見た人が、中国に「南泉斬猫」という故事があったことを思い出して付けた名前です。大磨上無銘。
南泉一文字
刀工 | 刃長 | 時代 | 主な所有者 |
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備前一文字 個人名不明 |
61.5cm | 鎌倉時代 | 足利将軍家 → 豊臣秀吉 → 豊臣秀頼→ 徳川家康→ 尾張徳川家 (初代)義直→ 徳川美術館所蔵 |
日本刀としては素晴らしい出来栄えなのに、名物にならなかった号もあります。
例えば、上杉家が所蔵する「大般若長光」(だいはんにゃながみつ)や加賀前田家が所蔵する「幅広貞宗」などがその一例です。享保名物帳に収載されなかったけれども、優れた号を持つ日本刀。
その理由は、徳川家からの「召し上げ」(没収されること)を恐れたため。召し上げを恐れた大名家は、本阿弥家へはもちろん、町研ぎにも出さないようにして、名刀を隠し続けていたためと伝えられています。
ちなみに、大般若長光は室町時代の本阿弥家によって「600貫」の値が付けられ、600という数字が「大般若経」の経典の数字と同じだったことから、この号になりました。
もし珍しい名前の日本刀に出会ったら、号の由来を調べ、さらに名物かどうか確認してみると面白いです。
武将の「織田有楽斎(織田長益)」(おだうらくさい[おだながます])が、「豊臣秀頼」から拝領した「名物 有楽来国光」と呼ばれる国宝の1振。
鎌倉時代末期に、山城国(現在の京都市)で活躍した名工である「来国光」は本短刀を制作しました。1930年(昭和5年)には国宝に指定された逸品です。
織田有楽斎(織田長益)のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。
豊臣秀頼のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。
刀工「来国光」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。
別名「大坂長義」とも呼ばれ、「名物」と評される本短刀は、長義を代表する1振。豊臣秀吉の愛刀であった本短刀を、大名「前田利家」が、大坂城内にて拝領したからという説があり、前田家の家宝として、長く伝来しました。
前田利家のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。
大和御所藩(やまとごせはん)・初代藩主となった「桑山元晴」(くわやまもとはる)が、江州大津(現在の滋賀県大津市)で買い求めたとされる愛刀であり、別名を「桑山當麻」と言います。本短刀は、桑山家から紀州徳川家に移り、紀州徳川家には「上部當麻」という同様の當麻による短刀があったため、この短刀も「上部當麻」と呼ばれるようになりました。
「業物」(わざもの)とは、切れ味の良い日本刀のこと。名物や号は、日本刀の美しさや逸話が残るものなど、美術品としての側面を重視していましたが、業物の場合は、機能性・実用性を重視した評価軸になります。
業物は、本来江戸幕府御用の試刀家を務めていた「山田浅右衛門」(やまだあさえもん)によって、よく切れると選定され、「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)、「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)という書物に記載された日本刀です。
業物には4つのランクがあり、上から順に、「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)、「大業物」、「良業物」(よきわざもの)、「業物」と呼ばれています。
山田浅右衛門
業物を選定した山田浅右衛門とは、江戸時代に幕府の「御様御用」(おためしごよう:日本刀[刀剣]の試し斬り役)を務めた一族の世襲名です。
有名どころでは、5代山田吉睦(よしむつ)がよく知られ、彼の選定結果から業物がランク付けされ、懐宝剣尺と古今鍛冶備考が著されました。
しかし、最初から山田家が御様御用を務めていたわけではありません。もともと、御様御用の役目を果たしていたのは山野家です。
その祖とされる山野永久の子「勘十郎久英」(かんじゅうろうひさひで)は、微禄ながら幕臣に取り立てられました。初代「山田浅右衛門貞武」は、この勘十郎久英の門人で、山野門下髄一の使い手となります。
その後、山野家は跡継ぎに技量が足りず、御様御用の職を解かれてしまいました。さらに、代わりに御用を務めた弟子達が没してしまいます。あとは、山田貞武の子である山田吉時がただひとりの御様御用として残されたのです。
山田吉時は、子の山田吉継(よしつぐ)に技術を伝えたいと幕府に申し出て許可され、御様御用は、山田浅右衛門家の独占体制となりました。
御様御用は、幕府支配下にある「公儀の役目」ではありましたが、山田浅右衛門の身分は浪人です。なぜかと言うと、こんな逸話があります。
2代山田浅右衛門吉時は、8代将軍である徳川吉宗の面前で試し斬りをする機会がありました。
その際に幕臣になることを申し出なかったために、浪人の立場のまま御様御用を務めるという慣習が出来上がってしまったとのことです。
日本刀の「位列」とは、等級のことを表します。本来、日本刀に等級を付けるということは、非常に難しいもの。そのため、位列を決定する際、古刀においては「本朝鍛冶考」と「掌中古刀銘鑑」、新刀においては「新刀弁疑」等の古書をもとに、古刀、新刀、新々刀別で分類されました。
位列は、次の5段階に分類されます。
位列 | 古刀 | 新刀、新々刀 |
---|---|---|
1位 | 極上作 | 最上作 |
2位 | 最上作 | 上々作 |
3位 | 上々作 | 上作 |
4位 | 上作 | 中上作 |
5位 | 中上作 | 中作 |
古刀には、奈良時代以前の上古刀も含めて選ばれていることから、資料として乏しい傾向があります。また、新刀以降の位列においても、時代別に評価されているので、時代ごとでも評価が変わることもありました。現代における位列表は、それぞれの時代の位列表とは異なっています。その理由は、昭和の時代に刀剣研磨・鑑定を行なっていた「藤代義雄」氏の影響です。
藤代氏は、古書に頼ることなく現代の視点で刀工の位列を付け、昭和12年に「日本刀工辞典」を出版。さらに弟子の「柴田光男」氏が補足した一覧が、現代における位列となっています。
ただし、古書などを全く無視しているわけではなく、参考にしている面もあるため、時代ごとに大きく変わらず、似ている日本刀が位列に選定されているケースも多いです。
このように、位列はその時代の評価者や好みの変遷によって変化します。さらに、近年では評価者だけではなく、テレビや雑誌、果ては日本刀を題材にしたスマホゲームなどでも刀剣ブームが起こっている関係で、評価に多少なりとも影響が出ていると見る向きもあるのです。
業物の中で最上級と格付けされているのが、最上大業物と呼ばれる15工。
どのような日本刀があるのか確認してみましょう。
刀工名 | 時代分類(制作国) |
---|---|
長船秀光 | 古刀(備前:現在の岡山県) |
三原正家(初代 三原正家) | 古刀(備後:現在の広島県) |
長船元重 | 古刀(備前) |
兼元(初代) | 古刀(関:現在の岐阜県) |
孫六兼元(2代目 孫六) | 古刀(関) |
和泉守兼定(2代目 之定) | 古刀(関) |
長船兼光 | 古刀(備前) |
長曽祢興里(初代 虎徹) | 新刀(江戸:現在の東京都) |
長曽祢興正(2代目 虎徹) | 新刀(江戸) |
仙台国包(初代) | 新刀(仙台) |
初代助広(ソボロ助広) | 新刀(摂津大坂:現在の大阪府) |
肥前忠吉(初代) | 新刀(肥前:現在の佐賀県) |
陸奥守忠吉(3代目 肥前忠吉) | 新刀(肥前) |
多々良長幸 | 新刀(摂津大坂) |
初代長道(初代三善長道) | 新刀(会津:現在の福島県) |
享保名物帳に、特に優れた「名物三作」として記載のある3つの古刀「相州正宗」、郷義弘、「粟田口藤四郎吉光」。
しかし、これらの古刀は最上大業物に含まれていません。
その理由は諸説あります。
そもそも、業物は「切れ味」で評価するため、切れ味を試せない名物は、業物としての評価が難しいのも仕方がなかったのでしょう。
試し切りをして、家宝の日本刀を傷めてしまう可能性があるのに、大名が簡単に許すとは考えにくいことです。
「日本刀の切れ味」など、日本刀に関する基礎知識をご紹介します。
日本刀は、名物、業物、位列といった様々な格付けによって評価されます。格付け方法は、それぞれに異なっているため、評価も全く別物です。
必ずしも、格付けされていない物が良くない日本刀というわけではありません。しかし、格付けされている日本刀は、格付けされた背景を含めて、非常に趣深い物ばかりとなっています。
特に、これから日本刀について、知識を深めていきたいのであれば、これらの格付けに選定されている日本刀なら、より楽しく学ぶことができるでしょう。