戦国武将

最強の戦国武将

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戦国武将には、武勇に優れているのはもちろんですが、優れた政治感覚による治世や、経済振興の発展、鉱山開発や堤防建設など、新たな価値観で領地を治めた智将もいます。そんな個性あふれる10人の戦国武将達をご紹介します。「最強」と謳われた10人の戦国武将から、気になる武将の生涯をさらに掘り下げて、新たな見聞を広めましょう。

中国地方の覇者 毛利元就

毛利元就

毛利元就

最強の戦国武将。そのひとり目は、中国地方の覇者、「毛利元就」です。

毛利元就は、安芸国吉田荘(現在の広島県西部)の国人領主「毛利弘元」(もうりひろもと)の次男として誕生。当時の広島県にあたる地域には、安芸国と備後国(現在の広島県東部)の2国が存在します。

この地域で、絶大な勢力を持っていたのが、大内氏と、尼子氏。当時の中国地方は、毛利家のような小領主が複数存在するような状態でした。

2分された勢力の内、毛利氏は大内氏に従属していました。大内氏が、室町幕府10代将軍「足利義稙」(あしかがよしたね)を擁護すると、室町幕府派と反幕府派の2大勢力の争いが勃発。

毛利元就の父・毛利弘元は、家督を長男「毛利興元」(もうりおきもと)に譲り、隠居を決意しました。

幼い毛利元就は、父母と共に「多治比猿掛城」(たじひさるがけじょう:現在の広島県安芸高田市)に移り住みます。その後、1501年(文亀元年)に実母が亡くなり、1506年(永正3年)に父・毛利弘元が亡くなりました。

相次いで両親を亡くしますが悲しむ暇もなく、家臣「井上元盛」(いのうえもともり)の裏切りに合い、城と家禄を横領。毛利元就は、城を追われますが、亡き父・毛利弘元の継室「杉大方」(すぎのおおかた)に引き取られ養育されます。

この杉大方について、毛利元就は「孤児であった私を再婚もせずに育ててくれた」と書状に残すほど、杉大方は毛利元就にとって偉大な人物だったのです。この幼少期の体験が、毛利元就を用意周到な策略家でありながら、情をかね備えた深みのある人間へと育て上げました。

長兄・毛利興元が亡くなり、その遺児であった「幸松丸」(こうまつまる)も亡くなってしまったことで、毛利元就は、27歳で家督を相続することになります。

家督相続の以前より、主家・大内氏から距離を置き尼子氏に付いていましたが、この家督相続をめぐり「尼子経久」(あまごつねひさ)と対立。さらには、十分な恩賞を得られないなどの不満もあり、毛利元就は、尼子経久から離れる決意を決めます。

毛利元就は、1525年(大永5年)に、「大内義隆」(おおうちよしたか)の傘下に入りました。毛利元就は、大内義隆のもとで、安芸国はもちろん、さらに石見国(現在の島根県東部)にまで勢力を拡大させることに貢献。しかし、主君・大内義隆が、家臣「陶晴賢」(すえはるかた)の謀反に倒れると、陶晴賢は争乱に乗じて、大内氏の領地を奪取して勢力を拡大しようと目論みます。毛利元就も、不利な戦を任されることが増え、不満が募っていたこともあり、次第に大内氏から独立を考えはじめました。

1554年(天文23年)に毛利元就は、ついに大内氏から独立。さらに、1555年(弘治元年)に、大内義隆を倒した陶晴賢を「厳島の戦い」で撃破します。次いで1557年(弘治3年)に、毛利元就は、大内義隆の子「大内義長」(おおうちよしなが)を討ち、大内氏を滅亡させることにも成功。これにより毛利元就は、大内氏の治めていた長門国(現在の山口県北西部)、周防国(現在の山口県東部)を手に入れます。

1560年(永禄3年)には、尼子氏の居城「月山富田城」を包囲し、尼子氏を降伏させました。この戦いで、尼子氏の治めていた出雲国(現在の島根県東部)と隠岐国(現在の島根県隠岐島)、伯耆国(現在の島根県中西部)を獲得。毛利元就はたった1代で、中国地方を代表する戦国大名の雄に登り詰めたのです。

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関東地方の智将 北条氏康

同じ頃、関東地方で頭角を現した最強の武将に「北条氏康」(ほうじょううじやす)がいます。北条家と言えば、桓武平氏の流れを汲む、相模の名門の家柄。

北条氏康は、後北条氏第2代当主「北条氏綱」(ほうじょううじつな)の嫡男です。武勇に秀で「相模の獅子」と恐れられ、後北条3代目として、30年にわたってその最盛期を支えました。

武勲で名を馳せるようになったのは、16歳初陣のときです。1524年(大永4年)に「江戸城」(現在の東京都千代田区徳川家康が築城した城とは別)城主「上杉朝興」(うえすぎともおき)を攻撃しますが、上杉朝興は関東の重要拠点である「川越城」(埼玉県川越市)へと逃亡。続く「河越の戦い」で、上杉朝興の子である川越城主「上杉朝定」(うえすぎともさだ)方100,000の兵を、わずか8,000の兵で撃破し、大勝を掴みました。

北条氏康の最も大きな功績は、甲斐国(現在の山梨県)の「武田信玄」、駿河国(現在の静岡県)の「今川義元」と共に「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)を締結して関東を制圧したことです。甲相駿三国同盟とは、北条家武田家今川家間で行なわれた婚姻による同盟関係。戦国時代には、数多く結ばれた同盟がありますが、甲相駿三国同盟は、非常に機能的な同盟であったと高く評価されています。

北条氏康は、同盟を結んだことで後顧の憂いなく戦を優位に進めることに成功。これにより関東8ヵ国の兵乱を平定し伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)や相模国(現在の神奈川県)、武蔵国(現在の東京都・埼玉県)、上野国(現在の群馬県)などを領有。生涯で36の戦に出陣するも、決して敵に背を向けることはなく、負け知らずであったと伝えられています。

北条氏康の父「北条氏綱」は、その臨終に際し、遺訓「五箇条の訓戒状」を北条氏康に遺しました。そこには「義を重んじ、家臣・領民を慈しみ、驕らず己の分限を守り、倹約を重んじる」など、家を守り、領国統治を行なうための教えが記されています。

北条氏康は、優れた政治手腕を発揮し、税制改革で領民達の負担軽減に尽力しました。大地震などによる災害時は、徳政令(税や債務を免除する法令)を発布し被災民を救い、領民が何でも直訴できるよう「目安箱」を設置。領民の一揆や、一族間での裏切りや内紛も起きず、領民に慕われる最強の武将としての名声を獲得しました。

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鬼才の軍略家 武田信玄

武田信玄

武田信玄

北条家、今川家との「甲相駿三国同盟」に名を連ねた武田信玄もまた、屈強の軍略家として知られます。

武田信玄は、甲斐源氏の嫡流、名門甲斐武田氏の基礎を築いた「武田信虎」(たけだのぶとら)の嫡男として誕生。幼い頃より武術学問に秀で、中国の軍略書まで読みこなす神童ぶりを発揮していました。

21歳で重臣達を味方に付け、父・武田信虎を追放して家督を継ぐと、信濃への侵攻を開始します。

1542年(天文11年)に、挙兵した武田軍は諏訪地方を平定。信濃国(現在の長野県)の伊那佐久侵攻の拠点としたものの、背後にそびえる今川家の動向が気になり、戦は思うようには進みませんでした。そこで武田家は、北条家、今川家と「甲相駿三国同盟」を締結させ、信濃侵攻を続行します。

甲斐国は海のない国で、寒暖差のある山や森が多く、農地には乏しい土地ばかり。武田信玄は、この甲斐国の発展のために領土拡大を目指します。

武田信玄は、生涯をかけ戦に明け暮れますが、「武田二十四将」に象徴されるような、実力ある家臣には充分な禄(土地や金銭)を与え家臣を育て、軍備の増強を図りました。

さらに、国を豊かにして領民の支持を得るため1547年(天文16年)には分国法「甲州法度次第」(こうしゅうはっとのしだい)を制定します。

治水工事や金山開発に取り組み、有名な「信玄堤」の水源によって安定的な稲作を実現。「甲州金」という体系的な貨幣制度を導入するなど、先進的な社会運営にも功績を残しました。

戦上手で戦国最強、赤備えによる騎馬軍団を持つ武田信玄でしたが、尾張攻めの途上に持病が悪化。1572年(元亀3年)に、甲斐国への撤退途中に回復することなく53歳の生涯を閉じました。

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越後の軍神 上杉謙信

上杉謙信

上杉謙信

武田信玄の好敵手と言えば、巧みな戦略から「軍神」、「越後の虎」と称された「上杉謙信」です。

上杉謙信は、越後国(現在の新潟県)守護代「長尾為景」(ながおためかげ)の嫡男で、上杉の姓を名乗る以前は、「長尾景虎」(ながおかげとら)と言う名前でした。

上杉謙信の初陣は、1544年(天文13年)の栃尾城の戦いです。そこから数多くの戦歴を重ね1550年(天文19年)に、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)の後ろ盾を経て、越後国国主の地位を確立。22歳で越後統一を果たします。

1553年(天文22年)には、勢力拡大を狙う武田軍との間に「川中島の戦い」が勃発。武田信玄と上杉謙信、互いの領地に挟まれた信濃国を巡る争いは、1553~1564年(天文22年~永禄7年)の12年の内で5回にわたりました。

第1次戦、第2次戦では、上杉軍が勝利。1557年(弘治3年)の第3次戦で長尾景虎が武田領内深く侵攻したものの、武田軍は強固な守りで押し返します。

第4次戦の上杉謙信は、当初、北条家に侵攻しておりその隙を突いて武田信玄は上杉領を攻撃。しかし第4次戦も、勝敗はつかず戦は収束しました。第5次戦に至っては、膠着状態のまま戦が終わります。

上杉謙信は、旗印に「毘」を掲げるほど「武神毘沙門天」を熱心に信仰した武将です。

武田信玄をはじめ、北条氏康や「織田信長」、「蘆名盛氏」(あしなもりうじ)ら、名だたる武将達と合戦を繰り広げた勇猛果敢な様子は、まさしく軍神。上杉謙信は、越後国平定後に産業に力を入れるなど、国作りの地盤を整えます。

最晩年の「手取川の戦い」では、織田軍を撃破しますが、翌年の1578年(天正6年)に「春日山城」(現在の新潟県上越市)内で病没しました。

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九州の豪傑 島津義弘

島津義弘

島津義弘

「鬼島津」の異名を誇る猛将「島津義弘」は、薩摩国(現在の鹿児島県東部)の名門島津家出身です。島津義弘は、1535年(天文4年)に、「島津貴久」(しまづたかひさ)の次男として誕生しました。

島津義弘は、1554年(天文23年)の「岩剣城の合戦」で初陣を飾ります。この戦は、島津家の国人領主である「祁答院良重」(けどういんよししげ)らによる連合軍が、父・島津貴久に反旗を翻した戦いでもありました。

「岩剣城の合戦」に勝利すると、その功績により島津義弘は「岩剣城」(現在の鹿児島県姶良市)城主に任命されます。

1572年(元亀3年)に起きた「木原崎の戦い」では、兵を左右と中心に布陣。島津義弘は、巧みに敵を誘導攻撃する「釣り野伏せ戦法」で、3,000の大軍をわずか300の兵で打ち破ります。

さらに、1578年(天正6年)の「耳川の戦い」では、豊後国(現在の大分県)「大友宗麟」(おおともよししげ)の軍を、陽動部隊と伏兵による巧妙な戦法で迎撃し勝利。その後も智略の才を発揮して九州南部を支配します。

次いで1584年(天正12年)の「沖田畷の戦い」(おきたなわてのたたかい)で龍造寺家を打ち破り、島津勢力は九州全土に拡大しました。

弱体化した大友宗麟は「豊臣秀吉」に援軍を求め、豊臣秀吉が「九州停戦令」を発令しますが、島津家は九州停戦令を無視。戦をやめない島津家に対し、豊臣軍は強大な兵力でもって島津軍に侵攻してきました。

島津軍は、圧倒的な兵力の差により豊臣軍に敗北。それ以降、島津家は豊臣秀吉に恭順を示すようになります。

結果として島津家は、薩摩国と大隅国(現在の鹿児島県西部)の2国と、日向国(現在の宮崎県)の諸県郡が安堵されました。

その後、島津家は豊臣政権による「文禄の役」と「慶長の役」に参戦。日本側の記録によると、戦功を遂げ、朝鮮、明軍の兵から「鬼石曼子」(グイシーマンズ:鬼島津の意)と恐れられたと伝わります。

関ヶ原の戦い」では西軍で活躍。「関ヶ原の戦い」では、島津家独特の退却法、数人がその場にとどまりそれが全滅すると、また数人が敵の足を止めるという「捨て奸」(すてがまり)を行ない、敵中を正面突破。島津家は多くの犠牲を払いながら薩摩国まで退却を成功させました。

この退却については、のちに「島津の退き口」として語り継がれます。生涯で53回の戦に参戦した島津義弘ですが、その人柄は実直で家族思いの愛妻家。領民にも慕われ、学問、茶道に通じ、慈悲深さも備えた文化人として85歳の生涯を全うしました。

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九州の雄 立花宗茂

立花宗茂

立花宗茂

もうひとり、九州にはその勇猛果敢ながら、温厚で人当たりのよかった武将「立花宗茂」(たちばなむねしげ)がいます。

立花宗茂は、1567年(永禄10年)に、大友家の重臣「高橋紹運」(たかはしじょううん)の嫡男として誕生。幼名を「千熊丸」(ちくままる)、元服後は「高橋統虎」(たかはしむねとら)と言います。

高橋統虎は、優秀な器量であったことから、同じ大友家の重臣で男児のいなかった「立花道雪」(たちばなどうせつ)に、養子にと望まれます。

当初、吉弘鎮理は、嫡男であり優秀な子を手放すのを惜しみましたが、立花道雪の強い願いで、高橋統虎を養子に出すことを決意。すでに立花家の家督を継いでいた立花道雪の娘「立花誾千代」(たちばなぎんちよ)の婿養子となりました。

この頃の立花宗茂の主家・大友家は、島津家の侵攻に晒されていましたが、1586年(天正14年)に豊臣秀吉軍による「九州征伐」が開始。立花宗茂もこの征伐に加わり、武勲を挙げ、豊臣秀吉から筑後国(現在の福岡県南部)柳川132,000石を拝領します。

こうして大名に取り立てられ出世を果たすことに成功。しかし、国主ではなく一介の家臣が、所領を授かり大名になるなど前例のないことでした。これも、武勇だけではなく「人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず」と評された人間像を豊臣秀吉が認めたと言っても過言ではありません。

その後も立花宗茂は、「文禄の役」で獅子奮迅の活躍を見せ、柳川の領民からは「鬼将軍」の異名で称えられ、豊臣秀吉より「日本無双の勇将たるべし」と記した文書を拝領したとも伝わっています。

さらに、「関ヶ原の戦い」では、豊臣秀吉への長年の恩義から、立花宗茂は西軍に加わりました。

「関ヶ原の戦い」の局面、九州で行なわれた戦で、「柳川城」(現在の福岡県柳川市)に籠城するものの、東軍に加わった「加藤清正」らの包囲網に敗北。戦後は、「徳川家康」から改易(身分や領地、居城を没収)を受け渡され、家臣共々困窮に身を落としました。

しかし、立花宗茂の武勲をよく知っていた徳川家康の重臣「本多忠勝」(ほんだただかつ)が、立花宗茂の改易処分を取り止めるよう徳川家康に嘆願。これにより立花宗茂は、徳川幕府の「御書院番頭」(おんしょいんばんがしら:徳川家直属の親衛隊)に大抜擢されます。

さらに、「大坂冬の陣・夏の陣」では豊臣方の動向を予測するなどして、徳川方の勝利に貢献。徳川幕府より旧領柳川を与えられ、ふたたび大名に返り咲きました。

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徳川家の勇将 本多忠勝

本多忠勝

本多忠勝

立花宗茂を取り立てるよう徳川家康に進言した本田忠勝は、徳川家康の側近として江戸幕府樹立にも貢献した「徳川四天王」のひとり。四天王の中でも武勇に秀で、「徳川十六神将」や「徳川三傑」にも名を連ねます。

幼い頃から徳川家康に仕え、13歳のとき「桶狭間の戦い」の前哨戦である「大高城兵糧入れ」で初陣を果たします。

本田忠勝は、徳川家康と織田信長による「清洲同盟」締結後より、数々の戦に参戦。

1570年(元亀元年)の織田・徳川連合軍と浅井・朝倉軍による戦「姉川の戦い」では、徳川家康の本陣に迫る朝倉軍10,000に対し、単騎駆けを敢行しました。

本田忠勝は、この勢いで朝倉勢の足並みを崩すと、朝倉家の家臣「真柄直隆」(まがらなおたか)との一騎打ちにも勝利。1575年(天正3年)の「長篠の戦い」に参戦。そして、1584年(天正12年)に起きた、豊臣軍と織田信雄率いる徳川軍による「小牧・長久手の戦い」では、豊臣軍160,000の軍勢にわずか500名の兵を率いて本田忠勝は戦いました。この勇壮ぶりに、豊臣秀吉も「東国一の勇士」と賞賛したと言います。

「関ヶ原の戦い」では「東に本多忠勝、西に立花宗茂という天下無双の大将あり」と謳われ、生涯で57の合戦に参加するも、かすり傷ひとつ追わなかったという伝説の武将です。武勲で名を挙げた本多忠勝ですが、政にも通じ、徳川幕府創業の功臣と言われています。

桑名藩150,000石を領し、初代桑名藩主として桑名藩の藩政樹立に奔走。「慶長の町割り」と呼ばれる城下町整備や城郭の増改築、東海道の宿場整備に取り組み、桑名藩政の財政基盤を築いた名君でもありました。

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天下統一を目指した 戦国三英傑

勇猛な武将が鎬を削り合った戦国時代。なかでも、天下統一を目指した織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を「戦国三英傑」と呼びます。

織田信長

織田信長

織田信長

織田信長は、尾張国(現在の愛知県西部)守護代「織田信秀」(おだのぶひで)の三男として誕生。

少年期の織田信長は、派手な身なりを好み、奇行が目立ったことから、家臣達のみならず、領民からも「大うつけ」(大馬鹿者)と呼ばれていました。

しかし、その様子は、常識にとらわれない、進取の気性に富んだ織田信長の個性を、よく表していました。

一方、武術の鍛錬は怠ることなく、新しい武器や戦術の研究にも余念なく、常に戦に備える心構えが備わっていたと言われています。

そして織田信長が元服した2年後の1548年(天文17年)に、美濃国(現在の岐阜県)の領主「斎藤道三」と、父・織田信秀が、長く続いた戦の和睦を行ないました。その和睦の証に、斎藤道三の娘「濃姫」(のうひめ)を織田信長の正室として尾張国に迎えます。

この頃の織田家は、単なる尾張の田舎大名に過ぎませんでした。しかし、織田信長の名を、一躍有名にしたのが、1560年(永禄3年)、駿河国の今川義元を破った「桶狭間の戦い」です。「海道一の弓取り」とも言われた今川義元を倒したことを皮切りに、急激に勢力を伸ばしはじめます。

1573年(天正元年)には、室町幕府第15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)を京都から追放し、室町幕府を滅亡に追い込みました。さらに、日本初の天高くそびえる天守閣のある「安土城」(現在の滋賀県近江八幡市)を築き、全国統一に乗り出します。

続いて織田信長は、1571年(元亀2年)に「比叡山焼き討ち」を行ないました。さらに、1574年(天正2年)には「本願寺派」の門徒らが蜂起した「長島一向一揆」を殲滅。このように、歯向かうのであれば、武士ではない民にまで手にかける残虐的な面を持っていました。

しかしその一方で、海外貿易の奨励や、特権的な商工業者の「座」を解体し、流通を促進する「楽市・楽座」を設置。織田信長は、経済政策を推し進める革新的な面と、残虐な独裁者の面を合わせ持つ特異な人物でもありました。

織田信長は、1582年(天正10年)に「本能寺」(現在の京都市中京区)に宿泊。その6月2日未明、就寝中のところを家臣「明智光秀」軍から急襲を受けました。防戦するも対抗できないと判断した織田信長は、火をかけられた本能寺の中で自刃したと言います。これが世に言う「本能寺の変」です。

織田信長が、亡くなった一報を聞き付け、明智光秀の討伐へと向かったのが豊臣秀吉です。このとき豊臣秀吉は、中国地方の毛利家との戦「備中高松城の水攻め」の最中でしたが、毛利家と和睦交渉を行ない、中国地方から急いで京都を目指します。これが通常、何十日もかかる行程を、たった10日ほどで移動した強行軍「中国大返し」です。同年、6月13日に豊臣秀吉軍は、「山崎の戦い」で明智光秀軍を打ち破っています。

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豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣秀吉

「山崎の戦い」で、明智光秀を追い詰めたのが豊臣秀吉です。この豊臣秀吉は、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に住む足軽の子に生まれたとされていますが、出生した年月日や父親についての詳細は不明。また大政所である母親の実名も「なか」とするのが通説ですが、これについても明確な史料は残されていません。

出生について謎が多いとされますが、豊臣秀吉が平民から大名に取り立てられ、天下統一の偉業を成し遂げた立身出世の象徴的人物であることは確かです。

イエズス会宣教師「ルイス・フロイス」は著作の「日本史」で、織田信長を「稀に見る賢明で優秀な人物」とする一方、豊臣秀吉については「悪知恵の働く抜け目のない策略家」と評しています。

しかし豊臣秀吉は、好奇心が旺盛で、人の心を巧みに読む「人たらし」の異名を持つ人物。加えて、武家出身者では持ち得なかった思考の柔軟性や、発想を実践に移すことのできる行動力を持っていました。織田信長が豊臣秀吉を配下にしたのは、この才能を見出していたからではないかと考えられます。

豊臣秀吉は、度重なる戦で関係のない農民達が、食糧不足や物価高騰などで苦しい生活を余儀なくされることを理解していました。だからこそ、戦で領地を攻略する際は、白兵戦ではなく、兵糧攻めや水攻めを用い、なるべく土地を荒らさない戦略を考案。敵の武将達も無理に恭順させるのではなく、味方に付ける効率の良い戦術を好みました。

長浜城」(現在の滋賀県長浜市)城主時代には、豊臣秀吉ならば願いを聞き入れてくれるはずと、年貢や諸役免除の嘆願で近在の百姓の多くが長浜に集まって来たという逸話も残されています。

豊臣秀吉は、織田家の後継問題や領地再配分に関する「清洲会議」で、「織田信忠」の子「三法師」(さんぽうし)の後見役を得ました。さらに関白・太政大臣に就任し、朝廷より豊臣姓を賜り日本全国の大名を臣従させて1590年(天正18年)天下統一を果たします。

豊臣政権による治世においては、尺(定規)の規格を統一し農民の田畑を測量、年貢高を算定する「太閤検地」を全国へ展開。農民の帯刀を禁止する「刀狩令」で兵農分離を実施するなど、のちの徳川家康による幕藩体制に繋がる政策を進めました。

1592年(文禄元年)の「文禄の役」と、1597年(慶長2年)の「慶長の役」に起きた、豊臣秀吉による朝鮮への侵攻が、朝鮮の国土や民衆に被害を与えます。しかし、次第に長期出征による精神的疲労や、食料補給路の困難さにより将兵達も疲弊していきました。

これにより日本軍は、明と講和をして一時休戦。2回目の朝鮮との戦「慶長の役」の最中、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が「伏見城」(現在の京都市伏見区)で病没。これにより、日本軍は朝鮮より全軍撤退します。

この豊臣秀吉の死が、諸大名に与えた影響は決して小さくはありませんでした。「慶長の役」では、勝利していないため大名達に恩賞はなく、体力的、経済的な疲弊だけが残ります。こうして大名達は、豊臣政権への不満を募らせました。

その後、豊臣秀吉の遺児「豊臣秀頼」の後見問題で、豊臣政権内に対立が生じます。そして、豊臣秀頼を擁護する「石田三成」方と、徳川家康方に豊臣政権は分かれ「関ヶ原の戦い」が勃発。石田三成は敗北し、勝利を掴んだ徳川家康による、徳川幕府がはじまります。

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徳川家康

徳川家康

徳川家康

3人目の英傑である徳川家康が産まれたのは、1542年(天文11年)の三河国(現在の愛知県東部)です。三河国は、東を今川義元、西を織田信長の父、織田信秀の強豪に囲まれた小国。

徳川家康は、幼い頃に、父「松平広忠」(まつだいらひろただ)が今川義元に援軍を要請した見返りに、今川家の人質となっていました。しかしこの経験が、徳川家康を「人心を読み、忍耐強い性格」に育て上げたと言われています。

その後、「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれたことを契機に、今川家のもとから逃れ、織田信長と「清洲同盟」を結び徳川家の勢力を拡大。朝廷より「従五位下三河守」を授かり松平姓から「徳川」姓へと改めました。

織田信長の死後、織田家の後継問題により豊臣秀吉と織田信長の三男「織田信雄」が衝突。このとき徳川家康は、織田信雄を援助する形で1584年(天正12年)に「小牧・長久手の戦い」に臨みますが、織田信雄の講和により戦は終結。織田信雄の懐柔に成功した豊臣秀吉でしたが、徳川家康が臣従することはありませんでした。

しかし、豊臣秀吉からは幾度も臣従の要求が届きます。ついに豊臣秀吉は、1586年(天正14年)4月に実妹「朝日姫」を正室にと、徳川家康に差し出してきました。さすがに実妹の受け入れを拒否することはできず、同年5月、徳川家康は朝日姫を正室に迎え、豊臣秀吉の義兄弟となります。

そして同年10月に、臣従の証として「大坂城」(大阪市中央区)にて豊臣秀吉と正式に謁見。揃った諸侯の前で、豊臣秀吉に忠誠を誓いました。

このことにより徳川家康は、豊臣秀吉から関東八州(現在の東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、群馬県、茨城県栃木県の範囲)を拝領します。

こうして、豊臣政権下最大の領地を得る家臣となり1590年(天正18年)に江戸へ入府。「関ヶ原の戦い」で大勝利を掴み、1603年(慶長8年)に朝廷より征夷大将軍に任命、江戸幕府を開幕します。

徳川家康が礎を築いた江戸幕府による幕藩体制は、265年に及び、世界史上類を見ない戦のない長期政権を築きました。

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那須与一

那須与一
鎌倉幕府の「御家人」(ごけにん)として、同幕府初代将軍「源頼朝」に仕えていた「那須与一」(なすのよいち)。いわゆる「源平合戦」における一連の戦いのひとつである「屋島の戦い」(やしまのたたかい)にて、「扇の的」に矢を見事命中させたほどの「弓の名手」として知られています。しかし、その逸話と那須与一の名前は、軍記物の「平家物語」などに登場するのみであるため、それらの真偽のほどは謎に包まれた部分が多いのです。平家物語や「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)などに伝わるところから、那須与一の生涯について紐解きつつ、人物像にも迫っていきます。

那須与一

土岐頼芸

土岐頼芸
「土岐頼芸」(ときよりのり)は、美濃国(現在の岐阜県)に栄えた土岐家の次男として生まれ、実兄「土岐頼武」(ときよりたけ)との熾烈な家督争いに打ち勝ち、美濃国守護(しゅご:鎌倉・室町幕府が置いた地方官)に上り詰めた戦国武将です。しかし、時は下剋上の時代。自身が守護代に任命した「斎藤道山」(さいとうどうさん)に裏切られ、美濃国を追われることとなります。土岐頼芸は、天下人「織田信長」の父で、「尾張の虎」と称された「織田信秀」(おだのぶひで)を頼り、斎藤道三と和睦しますが、最終的には11代続いた美濃国守護の地位を手放し、流浪の人生へと転落。81歳にして美濃国へ戻りますが、直後にその生涯を終えた人物です。激動の戦国時代を生きた土岐頼芸についてご紹介します。

土岐頼芸

山内一豊

山内一豊
「山内一豊」(やまうちかずとよ)と言えば、「司馬遼太郎」(しばりょうたろう)の名著「功名が辻」(こうみょうがつじ)の主人公としても知られる戦国武将です。妻の「千代」(ちよ)による内助の功などにより大出世を果たし、やがて土佐国(現在の高知県)202,600石の大名へと出世を遂げました。伝記によれば、山内一豊は口数の少ない穏和な性格で、華々しい武勲もそれほど多くなかった戦国武将でしたが、その反面、「織田信長」や「豊臣秀吉」、「徳川家康」という天下人達から厚い信頼を得ていたのです。 そんな山内一豊の生涯を追いながら、妻と共に果たした立身出世の道のりを辿っていきます。

山内一豊

蒲生氏郷

蒲生氏郷
「織田信長」や「豊臣秀吉」などの天下人に一目置かれながら、40歳の若さで生涯を閉じた「蒲生氏郷」(がもううじさと)。数々の戦場で武功を立てただけでなく、領地の経営や家臣団の統制にも長け、「世に優れたる利発人」と称された戦国武将でした。その一方で、キリシタン大名や「千利休」(せんのりきゅう)の高弟「利休七哲」(りきゅうしちてつ)のひとりとしての顔も持ち、当代きっての文化人としても知られた人物です。「六角氏」(ろっかくし)の重臣一族から「織田家」の家臣、そして、東北一の大大名へとのし上がった蒲生氏郷の生涯をたどり、その人物像に迫っていきます。

蒲生氏郷

最上義光

最上義光
「最上義光」(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県・秋田県)の小さな勢力であった「最上家」を、東北有数の大大名へと押し上げた武将です。父や弟との骨肉の争いに始まり、調略を駆使して領土を拡大しましたが、一方で合戦の際には、勇猛果敢な戦いぶりを見せ、「虎将」とも称されました。そんな最上義光の戦いの軌跡や、逸話から見える人物像に注目。ほぼ一代で、東北の大大名へとのし上がった、その生涯に迫っていきます。

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結城秀康

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「結城秀康」(ゆうきひでやす)は「徳川家康」の子でありながら、数奇な運命を背負った戦国武将です。元服前には「豊臣秀吉」の養子に出されただけでなく、豊臣秀吉が甥の「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)を後継者に定めると、下総国(しもうさのくに:現在の千葉県北部、茨城県南西部)の「結城晴朝」(ゆうきはるとも)の養子となり、豊臣家の中枢から遠ざけられました。天下人の家に生まれながら不遇な目に遭い、それでも道を切り開いた結城秀康にまつわる数々の逸話をご紹介すると共に、その生涯を辿っていきます。

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山本勘助

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「山本勘助」(やまもとかんすけ)は戦国時代の武将で、「武田信玄」の伝説的軍師として広く知られています。「架空の人物」説が長く定説とされており、実在が確認されてもなお、その実像はいまだ謎に包まれた存在です。

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森蘭丸

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「森蘭丸」(もりらんまる)は、「織田信長」の側近として最期まで献身的に仕えた小姓(こしょう:武将などに仕えた世話役)です。ゲームや時代劇、映画には、「美少年」として描かれている有名な人物。織田信長のお気に入りとして多くの逸話が残されている森蘭丸の生涯を、逸話・名言・家紋と共にご紹介します。

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毛利輝元

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