南北朝時代

土岐康行の乱

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「土岐康行の乱」(ときやすゆきのらん)は、1389年(康応元年)から1390年(明徳元年)にかけて起きた事件。室町幕府3代将軍「足利義満」に挑発された守護大名「土岐康行」が起こした土岐氏の内紛のことで「美濃の乱」、または「美濃土岐の乱」とも呼ばれています。

美濃国の守護として力を持った土岐氏とは

美濃からはじまる土岐氏の栄華

美濃国

美濃国

「土岐氏」は、「源頼国」の子孫が美濃国土岐の地に土着し、土岐氏と称したことが始まり。以降、源頼国の子孫による美濃国での活動が史料に記録されています。

土岐氏の祖を誰とするかは諸説ありますが、最も有力と言われているのは清和源氏の流れをくむ「土岐光衡」(ときみつひら)を祖とする説です。

平安時代末期、土岐光衡は美濃国で活動していましたが、ちょうどそのとき、源氏と平氏が源平合戦にて覇権争いを繰り広げていました。

その後、源氏が勝利し、鎌倉幕府が成立しますが、その際、土岐光衡は「源頼朝」と主従関係を結び「鎌倉殿の御家人」になります。このことをきっかけに、土岐氏は徐々に勢力を拡大していきました。なお、土岐光衡が美濃国守護に任じられたかどうかは定かではありません。

鎌倉時代末期になると、「後醍醐天皇」が鎌倉幕府を倒すことを計画して「正中の変」(しょうちゅうのへん)を起こします。このとき、主要人物のひとりだったのが土岐氏の一族である「土岐頼兼」(ときよりかね)でしたが、土岐頼兼は同族の「土岐頼員」(ときよりかず)に密告されたことで、幕府軍に襲われて自害しました。

その後、鎌倉幕府が滅亡した折に「足利尊氏」に協力したのが「土岐頼貞」(ときよりさだ)です。土岐頼貞は、土岐光衡の曾孫にあたる武将。正中の変後、土岐頼兼らと通じていたのではと疑われていましたが、弁明の末に疑惑を晴らし、その後も足利尊氏のそばに仕えて数々の戦に参戦しました。そして、「建武の新政」が行なわれた際には、これまでの功績が認められて美濃国守護に任じられます。

土岐頼貞が没したのち、美濃国守護を継いだのが土岐頼貞の子「土岐頼遠」(ときよりとお)です。土岐頼遠は、戦況が不利な状況にあっても精鋭兵を率いて奮戦したことから「バサラ大名」という異名を持っていました。しかし、その一方で図に乗ってしまう性格であったことが災いして、大失態を犯してしまいます。

1342年(康永元年/興国3年)、酒に酔った土岐頼遠が、「光厳上皇」が乗った牛車に向けて矢を放つという狼藉を行ないました。これを聞いた足利尊氏の弟「足利直義」は激怒し、土岐頼遠は処刑されてしまいます。

足利幕府の宿老・土岐頼康

土岐氏の最盛期を築き上げる

土岐頼康

土岐頼康

処刑された土岐頼遠の跡を継いだのは、甥の「土岐頼康」(ときよりやす)。土岐頼康は、足利尊氏のもとで数々の武功を挙げ、美濃国だけではなく「尾張国」(現在の愛知県西半部)、「伊勢国」(現在の三重県)、「志摩国」(現在の三重県志摩市)の守護に就くことに成功した武将です。

土岐頼康が率いる土岐一族の軍勢は勇猛で知られ、土岐氏の家紋である「桔梗紋」にちなんで「桔梗一揆」と呼ばれていました。

1360年(正平15年/延文5年)に土岐頼康は、地位を確立して土岐氏の最盛期を築き上げます。しかしその後、室町幕府3代将軍「足利義満」の管領「細川頼之」(ほそかわよりゆき)と対立。「細川頼之」は、足利氏による幕府の基礎を確立した人物で、足利義満を補佐しながら様々な政策を実施した管領です。

後世においては、「勝海舟」が「日本経済の発展に貢献した人物」として細川頼之の名を上げるなど、優れた管領として広く知られていますが、一方で自身の政策に反対していた土岐頼康などの守護大名を多く罷免(ひめん:解雇)する等、反対勢力を徹底して排除していました。そして、不満を抱えた守護大名との抗争は次第に過激化していきます。

1379年(天授5年/康暦元年)、細川頼之を失脚させた政変「康暦の政変」(こうりゃくのせいへん)が勃発。これにより、細川頼之は罷免され、幕政の中心に台頭したのが土岐頼康でした。

土岐頼康は、東海にあって要地と言われた「美濃」、「尾張」、「伊勢」、「志摩」を支配して大きな勢力を有しましたが、1387年(嘉慶元年/元中4年)に70歳で死去。そして、土岐頼康が没したことで土岐氏の力は弱体化していきます。

土岐康行の乱

足利義満が仕掛けた策

足利義満

足利義満

将軍の権力を強化したい足利義満は、土岐頼康が没することを誰よりも望んでいました。なぜなら、足利義満にとって土岐氏などの強い勢力を持った守護大名は、邪魔でしかなかったためです。

特に土岐頼康は、土岐氏一族の中でも優秀な人物。幕府においても宿老として重大な地位に置かれていたため、存命の間は手が出せませんでした。それが一転、邪魔な土岐頼康が没したことで、足利義満は本格的に守護大名を排除する策を打ち出します。

土岐頼康の跡を継いだのは、養子で甥の「土岐康行」。足利義満は、土岐氏の勢力を弱体化させるために、土岐康行の弟「土岐満貞」(ときみつさだ)を利用することにします。

土岐満貞は、以前から足利義満に対して「自分に尾張国の守護職を与えて下さい」とお願いしていました。足利義満は、土岐氏の内紛を誘発するために土岐満貞を尾張国の守護に任命し、さらに家督を土岐満貞に継がせようとします。

これに最も激怒したのは、当時尾張国の守護を務めていた土岐康行の従兄弟である「土岐詮直」(ときもろなお)です。土岐詮直は、尾張国へ訪れた土岐満貞を領内へ入れず、怒った土岐満貞と戦闘を開始。このとき、土岐康行は土岐詮直に加勢しており、土岐満貞を撃退することに成功します。

しかし敗走した土岐満貞は、これを謀反として足利義満に報告。この機会を足利義満が逃すはずもなく、ついに土岐康行の討伐が決行されたのです。

1390年(明徳元年)に土岐康行は、美濃国の中心拠点である「小島城」(おじまじょう)で挙兵。室町幕府軍を迎え撃ちますが、結果は敗北。戦後、処刑は免れましたが尾張と伊勢の2ヵ国を没収され、美濃国守護は叔父である「土岐頼忠」(ときよりただ)に引き継がれました。

1391年(明徳2年/元中8年)、土岐康行は、守護大名「山名氏」(やまなし)を討伐する事件「明徳の乱」(めいとくのらん)で幕府軍として参戦。この戦いにおいて戦功を挙げたことで、1400年(応永7年)に伊勢国守護に再任されます。

土岐康行が優れた武将として活躍し、守護職に返り咲いた一方で、土岐満貞は明徳の乱において、卑怯な行動を取ったという理由で尾張国守護を罷免されました。

なお、明徳の乱で土岐満貞が具体的にどのような行動を取ったのか、またその後の消息については定かになっていません。

土岐康行の乱

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