江戸時代

池田屋事件

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「池田屋事件」は、1864年(元治元年)6月5日に京都で起こった、「新撰組」による尊王攘夷派(そんのうじょういは:天皇を守るために外国勢を排除する思想を持った一派)弾圧事件です。多くの浪士が殺害され、これにより明治維新が5年遅れたとも言われています。新撰組の名を一躍全国に轟かせるきっかけとなった池田屋事件は、どのような事件だったのでしょうか。新撰組が結成されてから池田屋事件に至るまでの経緯、及び事件後の影響などをご紹介します。

新撰組の前身「浪士組」

伝通院

伝通院

1863年(文久3年)2月、江戸・小石川の浄土宗のお寺「伝通院」(でんつういん)に、200名以上の浪士達が集結。これは、幕府が京都で横行する尊王攘夷派を牽制(けんせい)するために募集した浪士組の面々です。

発案者は、出羽国(現在の山形県)の郷士「清河八郎」(きよかわはちろう)。この頃、京都だけではなく江戸でも尊王攘夷浪士を名乗って悪事を行なう者が増え、幕府はその統制に苦しんでいました。そのため、幕府は「浪士をもって浪士を制する」という清河八郎の案を採用したのです。

一行は30名ずつ、合計で7組に編成され、2月8日に中山道を使って京へと出発します。なお、浪士組のなかには、のちに新撰組局長となる「近藤勇」や、「鬼の副長」の異名で知られる「土方歳三」なども参加していました。

1863年(文久3年)2月23日、上洛を果たした浪士組は、洛外「壬生村」(みぶむら)を宿所に利用。その翌日、清河八郎は隊士全員を「新徳寺」に集め、「浪士組は、京都の尊皇攘夷派と提携して、幕府の意図とは正反対の反幕的行動を取る」と宣言しました。

幕府はこの報せに激怒し、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した「生麦事件」の賠償問題で、イギリス艦隊が横浜に集結していたことを理由に、浪士組を江戸に帰還させようとします。このとき、清河八郎の意見に反発して、将軍警護を行なう名目で京に残った浪士が複数いました。それが、のちに「新撰組」の隊士となる「芹沢鴨」(せりざわかも)や近藤勇達です。一方で、江戸に戻った清河八郎は刺客により暗殺されました。

壬生浪士組から「新撰組」へ

新撰組

新撰組

京に残った浪士組は、「水戸派」と「試衛館派」の2派に別れます。「水戸派」は、水戸藩の下級藩士による改革派「水戸天狗党」(みとてんぐとう)の生き残りを称する芹沢鴨を中心とした一派。「試衛館派」は、近藤勇や土方歳三などを中心とする一派です。

1863年(文久3年)3月、「新撰組」の前身となる「壬生浪士組」を結成し、第一次の隊士を募集。その後、京都守護職の「松平容保」から不逞浪士の取り締まり、及び市中警護を任され、少しずつ名声を上げていきました。

同年8月、天皇と幕府を一体化して幕藩体制を強化しようとした「公武合体派」による「八月十八日の政変」が勃発。「八月十八日の政変」は、長州藩をはじめとする尊皇攘夷派を京都から追放した事件です。

壬生浪士組は、会津藩の一隊として京都の市中警備の任務を行ない、このときの活躍が評価されて新たな隊名「新撰組」を拝命します。しかし、その翌月に新撰組の筆頭局長・芹沢鴨が何者かによって暗殺。新撰組は、近藤勇を局長に据え、土方歳三を副長に任命した他、部隊ごとに隊長を配備するなど、新たな体制を敷きました。

古高俊太郎の自白

1864年(元治元年)6月5日の早朝。新撰組は、隊士20名ほどで四条小橋にある古道具屋の「桝屋喜右衛門」(ますやきえもん)宅に踏み込みました。尊皇攘夷派の志士が京の街中に潜伏し、勢力を回復するために過激な行動を取るのではないかと警戒していた矢先の出来事です。

捕らえられた「枡屋喜右衛門」(ますやきえもん)こと「古高俊太郎」は、近藤勇や土方歳三の拷問により「尊皇攘夷派は御所に火を放ち、孝明天皇を長州へ連れ去る計画を企てている。近々、同志による集会が行なわれる」と自白しました。

池田屋事件

池田屋事件

池田屋事件

同日の夜、新撰組は近藤勇率いる「近藤隊」、土方歳三率いる「土方隊」、「井上源三郎」(6番隊隊長)率いる「井上隊」の3部隊に別れて市中へと繰り出しました。

なお、この時点では会合がどこで行なわれるか明確になっていなかったため、旅籠や旅館を片っ端から捜索していたと言われています。

22時過ぎ。市中を探し回った末に、近藤隊が「池田屋」で約30名の尊王攘夷派の志士達を発見。近藤勇は、数少ない隊士らを出口に固めさせて「沖田総司」、「永倉新八」、「藤堂平助」の4名と共に討ち入りを開始します。

薄暗い室内での戦闘は、日頃から剣術を鍛え、対人戦に慣れている新撰組が有利でした。しかし、戦闘の最中に沖田総司が病に倒れ、藤堂平助は額を斬られたことで視界が塞がり戦闘を中止。永倉新八は、愛刀を折られたことで一時的に不利な状況に陥ります。

その後、別働隊として動いていた土方歳三達が到着。尊皇攘夷派の被害は大きく、9名が討ち取られ、4名を捕縛されたと言います。

しばらくしたあとに、守護職以下、会津藩、及び桑名藩の兵が到着しますが、土方歳三は手柄を横取りされることを懸念して、藩士達が事件現場へ近づくことを許しませんでした。

池田屋事件の影響

木戸孝允

木戸孝允

事件後の池田屋は、襖や障子だけではなく、天井に至るまでがボロボロになっていた他、座敷の床には血が飛び散り、凄惨な状況であったと言われています。

尊皇攘夷派は、首領格「宮部鼎三」(みやべていぞう)、宮部鼎三の弟子「松田重助」(まつだじゅうすけ)、長州藩の活動家「吉田稔麿」(よしだとしまろ)、赤穂浪士のひとりである「大高源吾」(おおたかげんご)の子孫「大高又次郎」(おおたかまたじろう)、山口県美祢市(みねし)の「大嶺神社」(おおみねじんじゃ)で神主を務めていた「広岡浪秀」(ひろおかなみほ)など、多くの有力者を失いました。

一方で、命からがら逃げ延びた浪士もいます。その中のひとりが、のちに「木戸孝允」(きどたかよし)と改名し、明治政府の重鎮となった「桂小五郎」です。

なお、桂小五郎が生き残った理由については、主に2説あります。ひとつは、池田屋に着いたのが早すぎたため、一旦外に出ていたことが幸いした説。もうひとつは、池田屋の2階から屋根を伝って逃げた説です。

事件後、新撰組は知名度を上げ、新たに隊士を募って勢力の拡大に成功。一方で池田屋事件をきっかけに、「禁門の変」が起こり、動乱の幕末時代を終焉へ導くきっかけを生み出しています。

6月5日の深夜から6日の未明にかけて、ひとつの旅館で起きた事件によって、その後の日本は大きく変わっていくことになったのです。

池田屋事件

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