日本刀を美術品として鑑賞する際の見どころは、大きく分けて、刀全体の「姿」(すがた)にはじまり、「刃文」(はもん)や「地鉄」(じがね)、「刀身彫刻」(とうしんちょうこく)、そして「銘」(めい)と言われています。なかでも刃文は、刀工の個性が最も現れる部分であり、様々な種類の刃文が存在しています。刃文の一種「皆焼」(ひたつら)について、詳しくご紹介します。
焼き入れ
日本刀の「刃文」とは、刀を光線にかざすことにより鑑賞できる、刃先部分に現れた白い波のような模様のことです。日本刀が美術品とみなされる最大の要素でもあり、日本刀制作における「土置き」と「焼き入れ」によって個性豊かな刃文が誕生します。
土置きとは、日本刀の姿を形成したのち、焼き入れを行なう前段階のことで、刀身に耐火性のある粘土や木炭、砥石の粉などを合わせた「焼刃土」(やきばつち)を塗ります。この焼刃土は、各刀匠独自の調合による物で、焼きを強く入れたい場所には薄く、逆にあまり焼きを入れたくない部分には厚く塗布。焼き入れは、土置きした刀身を火炉に入れて高熱で熱したのち、水で急冷すると、刃先の鋼(はがね)が急変して刃文が発生するのです。
また、焼き入れにより日本刀独特の反り(そり)が生まれ、焼き入れの温度が高い場合は「沸出来」(にえでき:沸が主体となった刃文)、低い場合は「匂出来」(においでき:匂が主体となった刃文)の刃文に仕上がります。焼刃土の調合、そして土置き、焼き入れにより、刃文の形状が変化するため、刃文は刀工の個性が最も現れると言われているのです。
皆焼刃
「皆焼」(ひたつら)は、この刃文の一種です。日本刀の刃部のみでなく、刀身全体に網目のような模様が華やかに広がっている物で、平地や鎬地、棟までも一面に大きな飛焼(とびやき:沸が一部分に固まっている状態)や湯走りがある物を指します。皆焼は、「ヒタ面」とも書き、いずれも「ひたつら」と読みます。
皆焼は、南北朝時代に、「五箇伝」(ごかでん)のひとつで、日本刀の進化における立役者でもある「相州伝」(そうしゅうでん)の「広光」(ひろみつ)によって創始されました。皆焼は相州伝の特徴のひとつであり、広光に学んだ山城国(現在の京都府)の「長谷部国重」(はせべくにしげ)も得意としています。
長谷部国重は、「織田信長」の愛刀であり、国宝の「へし切長谷部」の作者としても知られています。へし切長谷部を観てみると、身幅は広く、重ねは薄く、反りは浅い、大鋒の姿。地鉄(じがね)は小板目肌がよく詰んで、地沸付き、刃文は互の目(ぐのめ)、小のたれを基調とした皆焼で匂口冴えた逸品です。
皆焼は、非常に難しいと言われる技法でもあり、大きく分けて2つの種類があります。ひとつは、沸出来の皆焼。硬軟2種類の鉄を混ぜて鍛えた鋼に、均等に焼刃土を引いて、焼き入れを行なうと、硬い鉄にのみ焼きが入り、沸の飛び焼きが発生。
沸出来の皆焼は、相州伝の広光や「秋広」(あきひろ)、長谷部国重などが得意としました。もうひとつは、匂出来の皆焼で、均質の鋼に焼刃土を塗った上に、様々な形の厚土を置いて焼き入れることで発生。匂出来の皆焼は、室町時代以降に「綱広」(つなひろ)一門によって作られた「末相州物」、室町時代中期に駿河(現在の静岡県中部)で活動した「島田派」、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)の「千子村正」(せんごむらまさ)などに多く見られます。
また、飛焼きの中まで、沸が詰まっている刃文を「玉の皆焼」、詰まっていない刃文を「飛入り」と表現。玉の皆焼は相州伝の上位の作、飛入りは末相州物に見られる特徴です。
刃文の鑑賞において、華やかな皆焼は比較的判別しやすい刃文とも言えます。刀剣ワールド財団が所有する皆焼刃が美しい日本刀を観てみましょう。
重要刀剣である本刀は、明治時代に陸軍軍人として陸軍一等主計(大尉相当)及び宮内庁御用掛(ごようがかり:宮内庁などに任じられて用務を担当する職)を務めた「今村長賀」(いまむらながよし/ちょうが)が所有した1振です。刀剣鑑定家としても知られ、晩年には、宮内庁御刀剣係に就き、3,000振にも及ぶ刀剣を収集したと伝えられています。
本刀は、1927年(昭和2年)に出版された「今村押形」(いまむらおしがた)にも掲載される「兼延」の名品。兼延は、「直江志津」(なおえしづ)を代表する名工のひとりで、尾張国志賀(現在の名古屋市北区志賀町付近)で作刀していたことから、「志賀関」(しがせき)とも称されています。
明応年間(1492~1501年)頃の作刀と推測される本刀は、華やかな皆焼の刃文が目を引きます。互の目丁子(ぐのめちょうじ)に飛焼、棟焼(むねやき)など様々な変化に富み、匂口明るく、大平造(おおひらづくり)の姿で覇気に満ち溢れた傑作刀です。
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本刀は、「来国真」(らいくにざね)の秀作と評される1振であり、重要刀剣に指定されています。上野前橋藩(こうずけまえばしはん)第9代藩主「酒井忠恭」(さかいただずみ)が幕府の老中首座に就任した際、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)より、隠居祝いとして賜った1振です。その後、酒井忠恭が移封された播磨姫路藩(はりまひめじはん:現在の兵庫県姫路市)において、酒井家に伝来しました。
来国真は、山城国(現在の京都府)で活躍した「来派」の刀工です。来派を代表する刀工「来国俊」(らいくにとし)の門人説や、国俊の子であり、「国光」(くにみつ)の弟で「倫国」(ともくに)の兄であった説などが伝えられています。
国真の在銘作は少なく、太刀や小脇差や短刀に銘が切られた物がありますが、皆焼風を帯びた長谷部派によく似た作品も存在しているのです。
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特別保存刀剣である本脇差を制作した村正は、室町時代後期に、3代に渡って栄えた伊勢国桑名の名工です。村正の作風は、大湾れ(おおのたれ)、互の目乱れ(ぐのめみだれ)、箱乱れ(はこみだれ)の刃文が得意で、表裏が揃っているところに特徴があります。村正は、徳川家に不吉をもたらす「妖刀村正」と恐れられ、敬遠された刀です。しかし、徳川家に敵対する大名達は積極的に買い求め、隠し持っていたとも言われています。
本脇差は、身幅が広く、重ねが薄い体配で、刃文は焼きの高い互の目乱れの皆焼状に金筋・砂流しがかかっています。茎(なかご)は、「タナゴ腹」で、茎先は栗尻。村正らしさが発揮された1振です。また、「勢州桑名住村正」(現在の三重県桑名市住村正)と、居住地の銘が切られた作は珍しく、史料的価値も高い作と言えます。
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本平槍(ひらやり)は、平安時代から常陸国(現在の茨城県)や出羽国(現在の山形県と秋田県)を支配した佐竹家の家臣「根本里行」(ねもとさとゆき)の注文により制作された「槍」(やり)です。根本里行は、佐竹家譜代の重臣で、1570年(永禄13年/元亀元年)の「下野大山田合戦」(しものおおやまだかっせん)の活躍により、紀伊守(現在の和歌山県の国司)に任ぜられた武将です。
「富士大権現」(ふじだいごんげん)を信仰した根本里行は、武運長久(ぶうんちょうきゅう:武人としての命運が長く続くこと)を願い、刃文は皆焼に焼き、太樋(ふとび)の中に、富士大権現と刻んだのです。富士大権現は「浅間神社」の旧称で、主祭神は「木花之佐久夜毘売命」(このはなのさくやひめのみこと)。槍一筋に込められた武運の祈りを感じる1振です。