安土桃山時代

安土桃山時代の服装とは

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安土桃山時代には、戦国武将達が活躍しましたが、彼らは普段どういう服装で過ごしていたのでしょうか。安土桃山時代における服装は、室町時代に比べて、礼装がより簡素になり、南蛮(主にヨーロッパや東南アジア、スペイン、ポルトガル)からもたらされた新しいファッションが取り入れられるなど、武士達の服装が大きく変化し、鉄砲や槍といった新兵器の登場と共に、戦闘時に着用する甲冑(鎧兜)も進化しました。そんな安土桃山時代の服装について、時代背景も交えながらご紹介します。

安土桃山時代の武士の服装

礼装が簡略化「肩衣袴」(かたぎぬばかま)

肩衣袴

肩衣袴

安土桃山時代は、武士の「礼装」に変化が起こりました。それまで礼装として一般的だった「直垂」(ひたたれ)や「素襖」(すおう)などは重い儀礼用の服となり、公服は「小袖」の上に「肩衣」(かたぎぬ)と「袴」(はかま)を身に着けた服装が主流になります。

肩衣とは袖を取り払った上衣のことで、戦国武将が肖像画などでよく身に着けている服装です。肩衣はもともと庶民の労働着、防寒着として用いられていました。

鎌倉時代になると、下級武士達が実用着として着用し、室町時代には、武家の子息なども着用するようになり、やがて武家の服装として取り入れられたのです。

一説によると、この変化は、室町時代後期の将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)が動きにくい礼装を嫌い、邪魔な袖がない肩衣を着用したのが発端だと伝えられています。直垂や「烏帽子」(えぼし:男子の袋状のかぶり物)を身に着ける以前の礼装は動きにくく、実用性を求める武士のニーズに合わなかったのです。

やがて安土桃山時代になると、地面にこするほど長い「長袴」(ながばかま)を合わせた服装が礼装とされるようになります。また、肩衣と「長袴」の上下を同じ布から作った服装が正式となったのもこの頃です。

この安土桃山時代の肩衣袴は、まだ過渡期にあり、江戸時代になると、さらに変化し、「裃」(かみしも)と呼ばれるようになります。

武家の略装として「外衣」が普及

胴服

胴服

戦国時代の末期から小袖の上に「外衣」(がいい)と言う上着を羽織るスタイルが広まります。男性が着用した外衣は、「胴服」(どうぶく)、「十徳」(じっとく)、「羽織」の3種類です。

胴服は、屋外や室内の寛いだ場で着用された外衣で、派手なデザインのコートのような見た目をしています。代表的な銅服としては、豊臣秀吉の「桐矢襖文様辻が花染胴服」(きりやぶすまもんようつじがはなどうぶく)が有名です。その洗練された意匠から、当時の武士達の美意識をうかがうことができます。

十徳は素襖に似ていますが、両袖が縫い合わされている点が異なります。室町時代から、身分の高い武士が神社に参拝する際、お供をする人などが着用していました。当初は、幅の狭い袴の上に着て白い帯を締めていましたが、安土桃山時代に入ると、「放ち十徳」という、帯を外した略式の着方もされるようになります。

羽織は、当時の文献にその言葉が使われていることは分かっていますが、実際にどのような衣服を指しているのか、はっきりとは分かっていません。胴服が羽織に発展した説や、ほこりよけのために使用された木綿の「単衣」(ひとえ)が発展したと言う説があります。

また、武士が甲冑(鎧兜)の上に着た物は「陣羽織」(じんばおり)と呼ばれ、戦場で武士達が威勢を示すために着用しました。陣羽織の形も様々で、輸入品が好んで用いられたことや、牛革や鳥の羽といった素材が用いられたことが分かっています。

代表的な物としては、伊達政宗の「山形文様陣羽織」(やまがたもんようじんばおり)が有名で、当時好まれたデザインをうかがい知ることができます。

武士の妻達の服装

女性の礼服

女性の礼服

安土桃山時代と言えば、戦国武将達に目を奪われがちですが、彼らを支えた妻達の存在も忘れてはいけません。

武士の礼服が簡略化すると同時に、その妻達の礼服も変化します。

それまでは、「裳」(も)、「表衣」(うわぎ)、「打衣」(うちぎぬ)、「長袴」を着用していましたが、安土桃山時代になると、小袖の上から細い帯を結んで垂らす服装に変化しました。

この背景として、それまで小袖は「下着」として用いられていましたが、安土桃山時代になると、刺繍と金銀の箔で模様を描く「縫箔」(ぬいはく)や、絞り染めと描き絵を併用する「辻が花染め」(つじがはなぞめ)などの華やかな模様が小袖に描かれるようになり、次第に「表着」として使用されるようになったのです。

さらに、身分の高い婦人の場合、この小袖の上から「打掛」(うちかけ)をまとうようになり、冬場はこの打掛をしっかり着用していたのに対し、夏場は打掛の上半身を脱いで腰に巻き付けている「腰巻姿」が正装とされました。

なお、夫人の髪型は、前髪は両側に下ろし、後ろ髪は一本結び。化粧は、作り眉を額の上の方に描くのが主流となりました。

茶人の服装

茶人の服装

茶人の服装

安土桃山時代の文化として欠かせないのが、「千利休」(せんのりきゅう)による、「茶の湯の大成」です。

千利休は織田信長と豊臣秀吉に仕え、時の政治に大きな影響力を与えたと言われています。

茶人の服装は、小袖の上から「木蘭色」(もくらんいろ)の「道服」(どうぶく)を羽織り、金襴の「絡子」(らくす)という五条袈裟を首から下げていました。

「道服」とは、僧侶が身に着ける衣で、禅宗の僧のような服装です。千利休の服装で特徴的なのは「頭巾」(ずきん)で、今では「利休帽」や「茶人帽」と呼ばれています。

武将達が美意識を主張!個性的な甲冑(鎧兜)が誕生

安土桃山時代に起きた甲冑(鎧兜)の変化

安土桃山時代には、武士の礼装に変化が見られたように、戦闘時に着用する甲冑(鎧兜)にも変化が起こります。

室町時代末期は、火縄銃や槍といった新兵器の登場と共に、動きやすい「当世具足」(とうせいぐそく)と言う甲冑(鎧兜)が一般的でしたが、安土桃山時代になると、スペインやポルトガルなどの鎧に影響を受けた南蛮胴具足や陣羽織が着用されるなどの変化が起こります。この時代の甲冑(鎧兜)からは、戦国武将達の個性や精神を垣間見ることができます。

西洋式の甲冑(鎧兜)「南蛮胴具足」

室町時代末期から安土桃山時代にかけて、スペインやポルトガルと交易が行なわれ、キリスト教の宣教師などが来日します。

彼らが持ち込んだ服飾品は、当時の人々を魅了し、武士の甲冑(鎧兜)にも大きな影響を与えました。それが南蛮胴具足と呼ばれる、西洋の胴鎧を日本風に改造して生まれた鎧です。

南蛮胴具足は、西洋の甲冑(鎧兜)の胴に、草摺(くさずり:甲冑[鎧兜]の胴の裾に垂れ、下半身を防御する部分)等を付けて改造を施された物で、胴の部分が正面と背面の「二枚胴」となっており、正面の胸から腹にかけて「鎬」(しのぎ)と呼ばれる盛り上がりがあります。

こうした南蛮胴具足が誕生した背景には、これまでの騎馬、、槍、長束、刀剣を使った戦い方から、鉄砲による戦術に変化したことにより、鉄砲からの攻撃に強い鎧が必要になったことにあります。

南蛮胴具足は高価だったことから、やがて輸入品を改造した物だけでなく、国産の南蛮胴が生産されるようになりました。

個性的な「南蛮胴具足」も誕生

南蛮胴具足以外にも、武将独自の美意識が反映された個性的な具足が誕生しました。代表的な物として、彦根藩の初代藩主となった戦国武将「井伊直政」(いいなおまさ)の「朱具足」(あかぐそく:朱塗の具足)があります。

朱具足の胴部分は、「桶側胴」(おけがわどう)と呼ばれる長方形の鉄板をつなぎ合わせて作られており、「天衝」(てんつき)と言う大きな飾りが付いた兜が付いていたとされています。

しかし、この兜は戦闘時には支障をきたすため、実際には「額当」(ひたいあて)を着用したと考えられています。

武士の間で流行した南蛮服飾とは

「南蛮服飾」の流行

西洋の服装や服飾品は、甲冑(鎧兜)だけでなく、武士のお洒落着にも影響を与えました。西洋人は、「ラッフル」と言う襞(ひだ)の付いた襟(えり)の服に、「カパ」と呼ばれるケープをまとい、「トランクフォーゼ」と言うズボンを着用していました。

また、「羅紗」(らしゃ)と言う毛織物やビロードなどのヨーロッパ製品に加え、インドや東南アジアの服飾品など、様々な物が日本に持ち込まれます。着物を着る際に下着として用いる「襦袢」(じゅばん)も、この頃にポルトガルからもたらされた物です。

こうした新たな素材は、当時の武士達を魅了しました。織田信長と親交のあった宣教師「ルイス・フロイス」は書簡の中で、日本の武将達が眼鏡や刺繍入りのハンカチ、羅紗のマントなどを贈り物として欲しがっている様子を伝えています。

南蛮の服飾が武士達に根付いていったのは、織田信長がマントや襟に襞の付いた服を、日常的に着用していたことが大きいとされています。

  • 南蛮服飾
    南蛮服飾
  • キリシタン大名
    キリシタン大名

また、キリスト教を信仰し、他の大名とは違った独特の服装をする「キリシタン大名」も現れます。前髪は垂らして後ろ髪は結い、ラッフルや十字架を身に付け、小袖の上から袖なしの羽織を着用。刀は、普通よりも下げて差す「落とし差し」と言う方法で身に付けていました。

キリスト教は豊臣秀吉の時代では弾圧され、キリシタン達は身を潜めることになります。しかし、織田信長の時代は許されていたため、このように一目見て、キリシタンだと分かる服装をしていたのです。

安土桃山時代に起きた、武士の服飾観の変化

こうした南蛮服飾の流行の背景には、当時の武士の間で起きた、服飾観の変化があります。それまでの武家社会では、身分の高い者は「地味な服装」を、 身分の低い者は「派手な服装」をするのが良いとされていました。

しかし安土桃山時代になると、身分の高い者も、その個性や精神を反映した「派手な服装」をするという新しい風潮が生まれたのです。

「信長公記」によると、織田信長は、派手な衣装に身を包んだ配下を引き連れて、自分の威信を示すためのパレードを行ない、天皇や公家達を圧倒したというエピソードが残っていました。

また、豊臣秀吉も「太閤記」の中で、華やかな装いや奇抜な服装を好んだと伝えられています。

安土桃山時代の庶民の服装

庶民も小袖を表着にするように

軽衫

軽衫

安土桃山時代になると、庶民の間でも小袖を表に出して着る風潮が見られるようになります。

女性は、小袖を1枚で着用するのが一般的でしたが、裕福な女性は小袖を重ね着したり、「袿」(うちぎ)と言う上着を着用したりする人もいました。

今の和服で使われているような太い帯は江戸時代に入ってから用いられており、この時代は紐状の帯で結んでいます。

男性は、袴を着用することが多く、袴を付けず着流しにすることもありました。彼らにも南蛮文化の影響があり、「軽衫」(かるさん)と言う洋風の袴や襦袢、「合羽」(かっぱ)などが用いられるようになりました。

公家や武士は重ね着をしていましたが、庶民にはできなかったため、庶民は衣服を染め、様々な模様を付けていたことが特徴です。

安土桃山時代の遊女の服装

遊女の服装

遊女の服装

安土桃山時代の注目すべき出来事として、豊臣秀吉の時代に、京都の二条柳町と言う場所に遊郭が作られたことが挙げられます。

遊郭の女性達は華やかな小袖に身を包み、「名護屋帯」(なごやおび)と呼ばれた紐状の帯を巻いていました。

また、「唐輪髷」(からわまげ)という明から伝わった髪型をしており、髪を頭上に上げて輪を作っていたとされています。

安土桃山時代の服装とは

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