歴史上の人物と日本刀

結城秀康と名刀 於武州江戸越前康継

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「徳川家康」の跡を継ぎ、江戸幕府2代将軍となった「徳川秀忠」には、5つ上の兄がいたことをご存知でしょうか。武将としての実力は徳川秀忠よりも勝っていたとも言われている兄の名は「結城秀康」(ゆうきひでやす)。戦国武将の期待の星とされていました。では、なぜ弟・徳川秀忠よりも武功のあった結城秀康は将軍になれなかったのでしょうか。徳川家康の子でありながら「結城」姓を名乗っているなど、謎に包まれた徳川家康の次男・結城秀康の生涯を探ると共に、結城秀康に仕えた刀工「越前康継」(えちぜんやすつぐ)についてご紹介します。

恵まれない境遇で生まれた結城秀康

結城秀康

結城秀康

1574年(天正2年)4月、当時、浜松城主を務めていた「徳川家康」の次男として、浜名湖畔浜松庄宇布見村(うぶみむら:現在の静岡県浜松市)で生を受けた「結城秀康」(ゆうきひでやす)。

幼名は「於義丸」(おぎまる)と言い、母は「於万の方」(おまんのかた)のちの「長勝院」(ちょうしょういん)で、徳川家康の正室「築山殿」(つきやまどの)から迫害を受けていたことから、逃げるように城外で出産したと言われています。

そのため、徳川家康の子でありながら、生後しばらく経っても城へ立ち入ることはなく、徳川家康の家臣「本多重次」(ほんだしげつぐ)の保護の下で養育されました。

このような経緯で誕生した結城秀康は、徳川家から祝福されることもなく、父である徳川家康に認知すらされていませんでした。於義丸の15歳年上の兄にあたる徳川家康の嫡男「徳川信康」(とくがわのぶやす)は、この弟の境遇を不憫に思い、心を痛めていたようです。

岡崎城主であった徳川信康は、本多重次と共謀。徳川家康が岡崎城(現在の愛知県岡崎市)を訪れた際に、於義丸と徳川家康を対面させる計画を立てました。「福井藩」(別名:越前藩:現在の福井県)の歴史を記した「越藩史略」には、於義丸が3歳にしてようやく父・徳川家康と対面したときの様子が記載されています。

もっとも、弟のためにひと肌脱いだ徳川信康も、この3年後、敵と内通しているという「織田信長」の言い掛かりによって自害へと追い込まれることに。徳川家康の子であるという点で、徳川家の血筋に当たることは間違いありませんが、徳川家康の後継者への道が開かれることはありませんでした。

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岡崎城

豊臣秀吉の養子となり結城家相続へ

1584年(天正12年)、「小牧・長久手の戦い」が終わると、徳川家康は「羽柴秀吉/豊臣秀吉」との和睦の証として、11歳の於義丸を大坂の豊臣秀吉の下に養子として送り出します。

養子と言っても、実際のところは人質のようなもの。これを喜んだ豊臣秀吉は、自分の名から「秀」と、徳川家康の「康」を取って「秀康」と名付けました。このとき、結城秀康は於義丸から「羽柴秀康」(はしばひでやす)と名乗るようになったのです。豊臣秀吉は、羽柴秀康に河内国(かわちのくに:現在の大阪府東部)に10,000石の領地を与えました。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉が北条氏討伐で関東を訪れた際、下総国(しもうさのくに:現在の千葉県北部と茨城県西部)の大名「結城晴朝」(ゆうきはるとも)は、豊臣秀吉との結び付きを強固なものにするために養子の世話を願い出ます。

鎌倉時代以来の名族である結城氏であればと、羽柴秀康を結城家の婿養子とすることを認め、実父・徳川家康の承諾も得て、結城秀康は17歳で結城家の家督を継ぐこととなりました。

こうして結城姓を名乗ることとなった結城秀康は、以後、豊臣秀吉に仕えながら数々の戦を経験し、立派な武将へと成長。しかし、徳川家康の政略に利用されるようにして豊臣秀吉の養子となり、結城家を継ぐこととなった結城秀康にとっては、徳川家康の後継者として徳川家に戻るという道が決定的に絶たれてしまったできごとでもあったのです。

越前国を拝領するまでの経緯

1600年(慶長5年)、結城秀康は「伊達政宗」や「最上義光」といった諸大名らと共に、「関ヶ原の戦い」の幕開けとも言える「会津征伐」に参加します。関東の留守を預かる総大将として「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)の南下を阻止した結城秀康は、徳川家康の重臣である「本多正信」(ほんだまさのぶ)から、その戦いぶりを高く評価されました。

また、関ヶ原の戦いのあとには、父・徳川家康からも「結城秀康が奥州を押さえてくれたので、関東は安泰であった」と讃えられ、結城秀康には、越前国(えちぜんのくに:現在の福井県嶺北地方)680,000石を与えられたのです。

このとき、徳川家康は結城秀康に対して、西の要地である播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)か、北陸の要地である越前国か、どちらか望みの国を与えることを提案したと言われています。武功を上げた結城秀康に、戦略的要地とされる播磨か越前を任せたかったのでしょう。この提示を受けた結城秀康は、越前出身の家臣の情報を頼りに越前国領主となることを決めたのです。

こうして結城秀康は大国の領主となり、有力大名のなかでも島津家伊達家よりも多くの石高を誇る大名へと昇進していきました。結城秀康が越前国を支配することで、加賀100万石を有する外様大名「前田利長」(まえだとしなが)を抑える布石となることを徳川家康は望んでいたと言われています。

また、結城秀康は555,000石を約490人の家臣に分与し、惜しみなく知行地を与えることで全国各地から勇猛な武将を集め、領内の整備を着々と進めていきました。

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福井城の築城後に迎えた死

福井城(北ノ庄城)復元模型

福井城(北ノ庄城)復元模型

結城秀康が越前国に入封すると共に「北ノ庄城」(きたのしょうじょう:現在の福井県福井市)の建城が始まり、1606年(慶長11年)には大国にふさわしい壮大なスケールの城郭が完成しました。

この北ノ庄城は、元々「柴田勝家」が築城した城で、火事で燃えてしまった跡地に結城秀康が新築したという説と、柴田氏の城を改築したという説があります。

結城秀康が築城した北ノ庄城は、のちに結城秀康の次男「松平忠昌」(まつだいらただまさ)によって「福井城」と名を改めました。

本丸内には、総床面積1,000坪の広大な屋敷があり、藩主の住居や女官達が仮眠や休憩する場所など、多くの部屋を用意。この女官達の詰め所となっていた建物2棟が、のちに福井藩松平家の菩提所のひとつとなる「瑞源寺」(ずいげんじ:福井県福井市)の本堂と書院として移築され、現存する唯一の福井城の遺構として県指定文化財となっています。

結城秀康の石廟

結城秀康の石廟

福井城が完成した翌年、結城秀康は徳川家康から「伏見城」(現在の京都市伏見区)の留守警備を任されますが、この頃病に冒されていた結城秀康は、伏見入りした翌々月には病状が悪化。

そのため、急遽越前へ戻りましたが容態は回復せず、そのまま福井城で息を引き取りました。

34歳でこの世を去った名君のあとを追うように、重臣の「土屋昌春」(つちやまさはる)と「永見長次」(ながみながつぐ)が殉死。

現在、和歌山県伊香郡に位置する高野山の奥の院には、結城秀康の石廟があり、国の重要文化財に指定されています。

刀剣・甲冑展示の城・城郭
刀剣や甲冑を観ることができる城郭を地域別に検索できます。

岡崎藩・浜松藩・越前藩 YouTube動画

岡崎藩・浜松藩・越前藩

結城秀康お抱え鍛冶「越前康継」の名刀

結城秀康が越前国の領主だった時代には、越前出身の刀工を多く輩出していました。これは、結城秀康にお抱え鍛冶として仕えていた「下坂康継」(しもさかやすつぐ)が、弟子の養成に努めていたためだと考えられています。

下坂康継は「下坂派」と称する刀工集団のひとりで、この下坂派は戦国時代に近江国長浜(おうみのくにながはま:現在の滋賀県長浜市)にある下坂を本拠地とし、そののち、越前に移住してきたと言われています。

下坂康継は下坂派のなかでも特に秀でた才能を持つ刀工だったため、結城秀康の知遇を得てお抱え鍛冶となり、御用刀工として江戸へも呼ばれるなど、晩年の徳川家康も認める腕の持ち主でした。そのため、徳川家康は「康」の字を彼に授け、徳川家紋の「三つ葉葵」を「」(なかご)に切ることを許したのです。

こうして下坂康継は「越前康継」というを切るようになり、同家の刀工は「葵下坂」と呼ばれるようになりました。

刀  銘 (葵紋)於武州江戸越前康継 以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持
刀 銘 (葵紋)於武州江戸越前康継 以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持
於武州
江戸越前康継
以南蛮鉄末世宝二胴 本多五郎右衛門所持
鑑定区分
重要美術品
刃長
72.6
所蔵・伝来
本多家→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

越前康継の作風は、徳川家康好みの渋さを持っており、また銘に切られている通り、南蛮鉄を用いて鍛えられています。当時、越前康継には、それなりの身分を持った者しか作刀依頼ができなかったようで、本刀の所持者である「本多五郎右衛門」(ほんだごろうえもん)は、結城秀康の重臣だった人物だと言われています。

こういった依頼によって鍛えられた刀は、試し斬り(試し切り)を行なうため、死体を2つ重ねて胴体を切ったという意味の「二胴」(ふたつどう)という証が銘に刻まれています。所持者名が入った越前康継作の本刀は、江戸新刀重要美術品のなかでもとりわけ貴重な作品。

1621年(元和7年)に越前康継が亡くなると、長男の「康悦」が2代目を継ぎ、そののちの越前下坂家は、明治維新まで福井藩専属の刀工として活躍しました。

著名刀工名鑑(刀工・刀匠)
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結城秀康と名刀 於武州江戸越前康継

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