歴女も憧れる女剣士ヒストリー

薙刀と女剣士

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武士達による合戦と聞くと、馬に跨った(またがった)武将が、長大な「大太刀」(おおたち)を馬上から振り下ろす姿や、歩兵達が「槍」を敵に突き刺す様を思い浮かべる人も多いのではないのでしょうか。このように、武具を手にして戦うのは、そのほとんどが男性であったと思われがちですが、実は男性にも負けない勇猛さで、武具を持って戦ったと伝えられている女性もいたのです。そんな女性達が共通して使っていた武具が、長柄(ながえ)の先端に刀身が付けられた「薙刀」(なぎなた)でした。「女剣士」とも言える女性達が、いくつか種類のある日本刀のなかでもなぜ薙刀を用いていたのか、さらには、女剣士を代表する人物についてもご説明します。

戦国時代の姫・女武将たち戦国時代の姫・女武将たち
陰ながら戦国武将を支えた戦国時代の姫・女武将をご紹介します。

女剣士が薙刀を用いた理由とは

薙刀

薙刀

もともと「薙刀」(なぎなた)は、刀剣や槍などと同様に、男性が用いていた武具でした。

例えば、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて活躍した僧兵「武蔵坊弁慶」が、のちにその主君となる「源義経」と五条大橋(ごじょうおおはし)の上で対峙した逸話において、薙刀を振るって戦ったことは、広く知られているところです。

そして、大将同士による馬上での「一騎打ち」が、戦闘方法として主流となっていた鎌倉時代には、長いリーチを取って相手を攻撃できる薙刀が、非常に有効な武具として重用されていました。

ところが戦国時代に入ると、歩兵達による集団戦が主流に。この戦闘方法では、兵士が密集することはどうしても避けられず、重量のある薙刀をそれまでのように振り回すと、誤って味方を討ってしまうことになりかねません。

そこで当時の合戦において、武具の主戦力となったのが槍です。槍は、薙刀と同様に長い間合いがある分、さほど訓練を積んでいない足軽などの下級武士でも比較的容易に扱うことができ、さらには、甲冑の隙間から相手を突き刺すことで、相手に大きなダメージを与えられることが特長。こういったことを背景に、多くの兵士が薙刀よりも槍を用いるようになったのです。

こうして戦場から姿を消した薙刀は、合戦に参加していた武将の正室や母親といった女性が、城主不在となったお城を守るために用いる武具となりました。

槍の場合、突き刺したり叩いたりする必要があるため、腕力の弱い女性には扱いづらいですが、薙刀の場合は振り上げれば、重力によって振り下ろすことが可能。非力な女性でも簡単に攻撃できることから、多くの女性が戦いの際の武具に薙刀を用いたのです。

そののち、戦のない太平の世となった江戸時代には、「刀=武士の魂」とする考えのもと、帯刀は男性武将のみの特権となります。その代わりに、女性が護身用の武具として薙刀を所持するようになり、薙刀は、武家に嫁ぐ際の嫁入り道具のひとつになりました。

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中野竹子

中野竹子

中野竹子

中野竹子」(なかのたけこ)は幕末期にあたる1846年(弘化3年)、会津藩(現在の福島県)における江戸常詰(えどじょうづめ)の勘定役(かんじょうやく)を務めていた、「中野平内」(なかのひょうない)の長女として生まれます。

中野竹子は、書道の達人であった父の血を受け継いでいたためか、書や和歌の才能に秀でていました。

さらには、会津藩士「黒河内兼則」(くろこうちかねのり)のもとで「薙刀術」の修行を積み、免許皆伝を受けるほどの「薙刀の名手」としても知られていたのです。

このように、「文武両道」に長けていた中野竹子は、「会津若松城」(現在の福島県会津若松市)別称「鶴ヶ城」(つるがじょう)の城下において、女性達に薙刀を教えていました。

そんななか、1868年(慶応4年/明治元年)に、薩摩藩(現在の鹿児島県)や長州藩(現在の山口県)などを中心とした「新政府軍」と、会津藩、及び「奥羽越列藩同盟」(おううえつれっぱんどうめい)などによって結成された「旧幕府軍」の間で、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が勃発。

一連の戦いのひとつとなった「会津戦争」の際、中野竹子は若松城下の女性達と共に「婦女隊/娘子隊」(ふじょたい/じょうしたい)と称した防衛隊を自ら結成します。そして中野竹子は、同城へ侵攻して来た新政府軍と戦うため、母の「中野孝子」(なかのこうこ)と妹の「中野優子」(なかのまさこ)と連れ立って、男装姿で住んでいた屋敷を出て若松城へ向かいました。

結局、若松城への入城を果たすことはできませんでしたが、中野竹子は、決死隊となった婦女隊のリーダーとして、薙刀を振るって城下を転戦します。新政府軍を相手に奮闘しましたが、同軍からの飛弾を受けて重傷を負い、妹に介錯させて自決。わずか23歳の若さで、非業の最期(さいご)を遂げたのです。

巴御前

巴御前

巴御前

巴御前」(ともえごぜん)は、実際の合戦に参戦した逸話が残る「女武将」であり、薙刀の使い手としても知られています。

平安時代後期、信濃国(現在の長野県)出身の巴御前は、「源義仲/木曽義仲」(みなもとのよしなか/きそよしなか)の側室であった女性。

源義仲は、77代天皇「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)の第3皇子「以仁王」(もちひとおう)が発された、「平家討伐」の令旨(りょうじ:皇太子や太皇太后、皇太后、皇后の命令)を受けた武将でした。巴御前は、そんな源義仲に付き従って、様々な戦いに参戦し、いくつもの武功を挙げています。

また巴御前は、「平家物語」において「一人当千」(いちにんとうせん:ひとりで1,000人に匹敵するほどの大きな力があること)の猛将であったと評されていた一方で、「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)には、「長に余る黒髪を、後へさと打越て、額に天冠を当て、白打出の笠を着て、眉目も形も優なれけり。歳は二十八とかや」との記述があり、上品で見目麗しい(みめうるわしい)女性でもあったことが窺えるのです。

また、1184年(寿永3年)には、「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)、いわゆる「源平合戦」における戦いのひとつ、「粟津の戦い」(あわづのたたかい)が起こります。このときも巴御前は、「源頼朝」より派遣された「源範頼」(みなもとののりより)軍と敵対した、源義仲軍に従軍。ところが、苦戦を強いられた源義仲軍は、残りたった5騎となるまで追い込まれることに。

しかし巴御前は最後まで諦めることなく、敵軍に向かって突進し、敵将「恩田八郎」(おんだはちろう)の首をねじ切る武勇を見せました。最終的に、源義仲は討死してしまいます。この逸話からは巴御前が、いかに豪勇な女武将であったのか、そして、主君・源義仲にどれほどの忠誠心を持って仕えていたのかが分かるのです。

このような女武将としての巴御前の活躍は、後世に浮世絵などの題材として取り上げられ、その作品の多くに薙刀を持った姿が描かれています。

ただし、平家物語などに、巴御前が「強」(ごうきゅう:張りが強いため、引く際に力が必要となる弓)の名手であった記述が見られても、戦場で薙刀を使っていたことが窺える史料は、ほとんど見付かっていないのです。

しかし、刃の反りが深い大ぶりな姿の薙刀が、巴御前の名前を取って「巴形薙刀」(ともえがたなぎなた)という名称で呼ばれていることからも分かるように、男性武将顔負けの勇将であった巴御前に、女性の武具である薙刀を結び付けることで、「強い女性としての理想像」を映し出しているのかもしれません。

「巴御前」の浮世絵動画を観る

武者絵(武将浮世絵)~平安・鎌倉時代~

立花誾千代

立花誾千代

立花誾千代

立花誾千代」(たちばなぎんちよ)は、「女城主」としても名高い戦国時代の女武将。

1569年(永禄12年)、「大友宗麟/大友義鎮」(おおともそうりん/おおともよししげ)に仕えていた父「立花道雪」(たちばなどうせつ)のひとり娘として、筑後国「問本城」(といもとじょう:現在の福岡県久留米市)で誕生しました。

1575年(天正3年)、数えで7歳の頃、「立花城」(現在の福岡市東区)の「城督」(じょうとく)の座を父から譲り受け、さらには、「立花家」の家督も相続することに。そののち、立花誾千代は主家である「大友家」の許可を得て、正式に立花城の城主となったのです。

そして1581年(天正9年)、立花誾千代は、「立花宗茂」(たちばなむねしげ)を婿として迎え入れて結婚。やがて立花家は、大友家の衰退に伴って同家を離れ、「豊臣秀吉」の直臣大名として、「柳川城」(現在の福岡県柳川市)132,000石を賜りました。

女性でありながら、父・立花道雪と同じくらい武勇に優れていた立花誾千代は、夫・立花宗茂が合戦などで立花城を留守にしていた際、いわゆる「腰元」(こしもと:貴人のそばに仕えて、身の回りの世話をする女性)達と共に「女子組」(おなごぐみ)を結成。外部からの攻撃があった場合に備えて、薙刀を持って武装していました。

また、立花誾千代には、1600年(慶長5年)に勃発し、夫・立花宗茂が西軍に属した「関ヶ原の戦い」のときにも、薙刀を手に、その勇猛ぶりを発揮した逸話が残っています。

東軍側に寝返っていた鍋島水軍が、柳川城へ侵攻していることを聞いた立花誾千代は、甲冑を身に付け居館としていた「宮永館」(みやながかん)を出発。鉄砲隊と共に攻撃し、同城に近付けないようにしました。さらには、立花城の開城を求めてやって来た「加藤清正」の軍勢に対しても、薙刀を以って威嚇。加藤清正軍の進軍を妨害したと伝えられています。

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現代の女性達に受け継がれる武道「なぎなた」

なぎなた

なぎなた

合戦などで女剣士達が用いた薙刀は、江戸時代には薙刀術として、武家の子女が身に付けるべき武芸となりました。

さらには、クーデターなど非常事態が起こった際に、主君やその正室などがお城や屋敷から逃げる時間を稼ぐために、腰元が応戦する際の武具にも、薙刀が用いられていたのです。

そしてこの薙刀術は、競技人口の9割が女性を占める武道なぎなた」へと繋がり、その武術や当時の女性達の強い精神が、現代の女性達に受け継がれています。

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薙刀と女剣士

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