実在した忍者

海外の忍者(諜報員)

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忍者は、古代中国の兵法書「孫子」にも出てくる間諜(かんちょう:敵の様子をさぐりその情報を味方に知らせる役割)から発展した存在であると言われています。日本では身体能力に特化した忍者に進化していった間諜ですが、欧米ではスパイやエージェントと呼ばれ、映画「007」シリーズの「ジェームズ・ボンド」に代表される近代のスパイ像を確立していきました。そこに至るまでの、海外の忍者であるスパイ(諜報員)についてご紹介します。

古代の諜報員

カデシュの戦い
現存する最古の諜報活動の記録は、紀元前1274年頃にエジプト新王国(古代エジプト最大の王と呼ばれたラムセス2世が治めた全盛期の頃)とヒッタイト(現在のトルコ中部を治め世界初の鉄器文化を築いた王国)の間で起こった「カデシュの戦い」まで遡ります。

カデシュの戦いでは、ヒッタイト軍が伏兵による奇襲を画策。ヒッタイト軍の本隊は、後方に待機させておき、伏兵部隊をエジプト軍の進路に潜ませました。

さらにヒッタイト軍は諜報員を放ち、エジプト軍にわざと捕まえさせて「ヒッタイト軍は全軍まだ遠くにいる」と虚偽の情報をエジプト軍に流布します。

偽の情報を信じたエジプト軍は、伏兵がいるとも知らずそのまま進軍。結果、伏兵の潜む区域まで誘い込まれたエジプト軍は奇襲を受け、全滅は免れたものの手痛い損害を被ることとなりました。

また余談ではありますが、カデシュの戦いは戦後の平和条約を綴った粘土板が発見されており、史上初の公式な記録の残る戦争でもあります。

兵法書・孫子
東洋でも間諜は古来から広く運用され、紀元前500年頃に成立した兵法書・孫子のなかでは「用間篇」(ようかんへん)として、戦における敵情偵察の重要性が説かれています。

用間(間諜の運用方法)の種類は、以下の5種類。

  1. 「郷間」(ごうかん:敵国の一般市民を賄賂で寝返らせること)
  2. 「内間」(ないかん:主君や仲間に不満を持っている敵国家臣を寝返らせること)
  3. 「反間」(はんかん:自国に侵入した敵国間諜を寝返らせ、二重スパイとして利用すること)
  4. 「死間」(しかん:命を賭して敵国内で故意に捕まり、偽の情報を敵国に掴ませることで相手の裏をかくこと)
  5. 「生間」(せいかん:敵国で情報を得て、自国に生還して報告する)

5種類を同時に使いこなしたうえで、間諜同士が互いにその存在を知らないことが最良の「神紀」(しんき:神業)だとしています。

さらに間諜運用には、裏切りを防ぐため軍のなかで最も信頼される者を登用し、敵の賄賂による寝返りを防ぐため充分な報酬を与え、任務の情報が外部に漏れて失敗しないよう秘密裏に遂行させることが大切だと説いています。

また間諜を運用する為政者側についても「抜きん出た知恵を持つ」、「思いやる心に長けた」、「細部まで配慮ができる」といった才能のある者でなければいけない、としています。

トロイの木馬
木馬

木馬

史実ではありませんが、古代ギリシャで成立した「ギリシャ神話」に登場する「トロイの木馬」も、敵を欺き内部で破壊工作を行なう点で忍者や諜報員と同様の働きをしたと位置付けることができるでしょう。

史実でもあるトロイア戦争ですが、ギリシャ神話のなかではギリシャ軍がトロイアの街を陥落させるためにトロイの木馬という計略を実行したとされています。

木製の巨大な馬の像を作ったギリシャ軍は、空洞になった木馬のなかに精鋭を潜ませ残りの軍は退却。街の外で待機します。翌日、ギリシャ軍が消えたのを見て油断したトロイアの人々は戦勝を喜びながら、勝利を女神アテナに報告するため捧げ物として木馬を街中の神殿へと搬入しました。

まんまと街に潜入したギリシャ軍の精鋭達は街が寝静まる夜になったところで木馬から忍び出て、内側から街の入り口を開放。外で待つギリシャ軍が街になだれ込み、トロイアの街を奇襲したのです。

不意を突かれたトロイア軍は総崩れし、見事ギリシャ軍はトロイアを占領しました。

中世の諜報員

フランシス・ウォルシンガム
16世紀のイギリスで活躍した「フランシス・ウォルシンガム」は、イングランド女王「エリザベス1世」に仕えた諜報員です。スパイマスターとも呼ばれ、諜報員のリーダーとして国内外の情報を収集して、エリザベス1世を狙った暗殺計画を幾度も未然に防ぎました。

1571年には、スコットランド女王「メアリー・ステュアート」の支持勢力が、エリザベス1世を排しメアリーをイングランド女王に据えるためにエリザベス1世暗殺を企てていることを察知。イングランドの貴族「トマス・ハワード」ら首謀者を捕え計画を阻止しました。

その後もウォルシンガムは、諜報機関や、潜入してきた敵対勢力の諜報員を監視・摘発する秘密警察を運用し、最盛期にはヨーロッパの主要都市のほとんどに諜報員を送り込み情報を集め、20回以上も「女王暗殺計画」を防いだと言われています。

大きな功績を残した諜報機関や秘密警察でしたが、その活動費用は国費ではなくウォルシンガムの私財で賄われていたため、ウォルシンガムの死後、これらの精鋭部隊は運用を引き継がれることなく消滅しました。

20世紀の諜報員

マタ・ハリ
マタ・ハリ

マタ・ハリ

「マタ・ハリ」は、第1次世界大戦中に活動し、現代で「最も有名な女スパイ」として知られている諜報員です。彼女はオランダ出身で本名を「マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ」と言い、マタ・ハリの名は東南アジア・マレー語で「太陽」を意味する言葉です。

パリでダンサーとして働いていたマタ・ハリは、その東洋的な美貌で多くの将校や政治家を虜にし、次第にフランスとドイツ、両軍の情報に通じるようになります。

両国の情報をそれぞれの国に流すスパイや、さらにはわざと偽の情報を敵国に掴ませる二重スパイとして活動しました。

しかし、1917年に二重スパイ容疑でフランスの警察に逮捕されると、死刑判決が下りそのまま同年に銃殺刑が執行され、41歳の生涯は幕を閉じました。

ところが現代の研究ではマタ・ハリの諜報技術は非常に質が低かったとされ、フランス・ドイツどちらにも、正確で有益な情報をもたらせていなかったという説が有力です。

そのため死刑判決の理由としてフランスが発表した「ドイツ軍の潜水艦・Uボートによるフランス輸送船の撃沈」などの被害も、マタ・ハリの情報漏洩によるものでなく、フランスの軍事上の失敗であり、マタ・ハリはその責任を転嫁され銃殺に処されたと考えられています。

リヒャルト・ゾルゲ
「リヒャルト・ゾルゲ」は、ソビエト連邦の諜報員です。第2次大戦中の日本国内で活動し、ソ連と敵対していたドイツ軍や日本軍の動向を母国に報告し続け、ソ連がドイツを相手に戦っていくうえで重要な情報を大量にもたらしました。

リヒャルト・ゾルゲは父がドイツ人で、リヒャルト・ゾルゲ自身もソ連(出生当時はロシア帝国)で生まれながらドイツで育ち、第1次世界大戦でもドイツ陸軍の軍人として従軍した経歴を持っています。

従軍中に両足を負傷したリヒャルト・ゾルゲは入院した病院で共産主義思想に触れたことをきっかけに、1924年、モスクワへ赴きソ連共産党に入党。ソ連のスパイとしての活動を開始します。

1930年にはドイツの新聞記者という偽の肩書きで中国・上海に入り極東での活動を開始。同地で多くの日本人や世界の共産支持者とのつながりを持つこととなり、スパイ組織「リヒャルト・ゾルゲ諜報団」を結成しアジア情勢に深く通じるようになっていきました。

ナチス党首「アドルフ・ヒトラー」がドイツの首相に就任した1933年には、ドイツの新聞記者兼「ナチス党員」と肩書きを偽装して日本に入国。ドイツ大使館駐在武官だった「オイゲン・オット」に近付き、ナチスの躍進で日本に左遷されたばかりのオイゲン・オットに対し、自身の日本でのコネクションや日本の情報をもたらし信頼を勝ち取りました。

1938年になると、前任者の離職によりオイゲン・オットが駐日ドイツ大使に昇進。オイゲン・オットの顧問的な立場を確立していたリヒャルト・ゾルゲも、ドイツ大使館に集まる公文書を自由に閲覧できるほどの権限を得るようになりました。

その結果、1941年6月22日にドイツ軍がソ連侵攻を始めた「バルバロッサ作戦」の存在を事前に把握したり、当時の近衛内閣でブレーンを担っていた「尾崎秀実」(おざきほつみ)経由で日中戦争に勝利した日本軍がソ連に進攻せず南方へ進出する情報を掴んだり(満州にいた日本軍を警戒して満ソ国境に配備していたソ連兵をドイツ軍の対応に回すことができた)と、ソ連の対ドイツ戦に大きく貢献しました。

しかし1941年から1942年に亘って、リヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実をはじめリヒャルト・ゾルゲ諜報団のメンバーが次々と逮捕され団は壊滅。一連のスパイ行為は「ゾルゲ事件」と呼ばれ、団の中心を担っていたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実には死刑判決が下り、1944年11月7日、ソ連の誕生した「ロシア革命記念日」に2人の死刑が執行されました。

マタ・ハリやリヒャルト・ゾルゲの例のように、敵国の情報を集め母国に伝える諜報員はその存在が敵に知られてしまうと命の危険に晒されます。

「諜報員は勇敢でなければならない」と言われる通り、命を賭して自国のために働くのです。

さらに有能な諜報員には「恵まれた肉体・演技力・観察力・推理力・精神力・度胸」が要求され、自分や仲間の見聞きした情報すべてを総合して結論を導き出すシャーロック・ホームズばりの洞察力を持つ必要があるのです。

もしかしたら過去には、名探偵のような真実を見抜く力と鮮やかな手口で誰にも気付かれることなく諜報活動を行なった諜報員もいたかもしれません。

海外の忍者(諜報員)

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