実在した忍者

戸隠流忍者

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戸隠流忍者(とがくれりゅうにんじゃ・とがくしりゅうにんじゃ)は、今なお継承され、現代を生きる忍者として代表的な流派です。現在の戸隠流忍法宗家である34代目「初見良昭」(はつみまさあき)は、忍術や体術、武器術といった古武術の道場である「武神館」を創設しました。そんな戸隠流忍者についてご紹介します。

戸隠流忍者の創始

戸隠流忍者の伝説上の始祖は、日本に亡命してきた中国の将軍「異勾」(いかい)と言われています。

歴史上の始祖は、平安時代末期に平家討伐で活躍した木曽義仲(きそよしなか)の家臣「仁科大助」(にしなたいすけ)。仁科大助は木曽義仲に仕える以前、戸隠(とがくし:長野県長野市北西部)で修験道(山へ籠って厳しい修行を行ない、悟りを開くこと)に励んでいました。戸隠には木曽義仲ゆかりの地もあり、戸隠周辺で平家との戦の際、北信濃裾花川の上流の岩窟に陣取って指揮を執ったとされ、その場所が「木曽殿アブキ」と呼ばれています。

一説によるとアブキはアイヌ語で洞窟という意味があり、それが名前の由来になったとされていますが、アイヌ民族がこの地に住んでいたという史料は残っていません。

仁科大助は、木曽義仲が討死した1184年(寿永3年)の宇治粟津の戦いまで仕えました。戦は負けましたが仁科大助は伊賀へ逃れることができ、伊賀流忍術を学びました。そして仁科大助は、伊賀流忍術を取り入れて、戸隠流忍法を完成させたと言われています。

しかし、流派というのは一朝一夕でできるものではなく、生み出されてから世間に認められるまで数代の時間を要するため、このときはまだ「戸隠流忍法」と流派を名乗ってはおらず、3代目戸隠五郎兼氏の頃に呼ぶようになりました。

忍者が活躍した戦国時代では、戸隠に近い上田城(長野県上田市)を居城としていた真田家や、信濃国(長野県)を治めていた武田家が戸隠忍者を重用し、戸隠の名が全国に広がったと言われています。

戸隠流忍法

忍法には様々な流派がありますが、戸隠流では忍者になるためには八門と呼ばれる、各流派共通の8種の必修科目を習得しなければならないと言われています。

「気合術」、「骨法術」(素手による武術)、「剣術」、「槍術」、「手裏剣術」、「火術」、「遊術」(アクロバティックな動き)、「教門」(教養や知識)。

戸隠流では、江戸時代初期に伝わった武芸十八般をもとにした、十八門があります。

「精神的教養」、「骨法体術」、「剣法」、「棒術」、「手裏剣」、「鎖鎌」、「」、「薙刀」、「馬術」、「水練」、「火薬術」、「謀略」、「諜報」、「忍入」(忍び込むこと)、「隠遁」(隠れること)、「変装」、「天門」(天文学)、「地門」(地理学)。

これら18種を修行し、それぞれに虚実転換(有る物をない物のように、ない物を有るように見せること)を加味して、秘技や裏技を覚えて戸隠流忍法の骨子となります。

戸隠流の武器は銛盤(せつばん)、篠竹(しのたけ)、手鉤(しゅこう)の3つで、これを「三宝秘伝」(さんぽうひでん)と言います。これは聖徳太子の「三宝を仏・法・僧を敬え」という教えを武道に引き継いだものです。

三宝秘伝(銛盤・篠竹・手鉤)

三宝秘伝(銛盤・篠竹・手鉤)

初見良昭

現在の戸隠流忍法宗家の34代目「初見良昭」(はつみまさあき)は、20代の頃、次々と古武道の門を叩き、それらの武道の技を極めていきました。そしてひとり立ちしようとした矢先に、生涯の師となる戸隠流忍法宗家33代「高松寿嗣」(たかまつとしつぐ)と出会います。

高松寿嗣は、中国で放浪していた際に中国武術家に「蒙古の虎」と畏怖され、帰国してから山に籠って大自然を相手に修練を積み、戸隠流をはじめとした忍法や武道を極めた人物でした。

初見良昭は、千葉県から奈良県に住む高松寿嗣のもとで稽古を付けてもらうため、土曜の夜行列車で向かい、日曜は終日修練し、日曜の夜行で帰京するということを、高松寿嗣が他界するまでの15年間続けました。

そうして、高松寿嗣から戸隠流忍法をはじめ「神伝不動流打拳体術」(しんでんふどうりゅうだけんたいじゅつ)、「虎倒流骨法術」(ことうりゅうこっぽうじゅつ)、「高木揚心流柔体術」(たかぎようしんりゅうじゅうたいじゅつ)、「九鬼神流体術」(くきしんりゅうたいじゅつ)、「玉虎流骨指術」(ぎょくこりゅうこっしじゅつ)、「義鑑流骨法術」(ぎかんりゅうこっぽうじゅつ)、「玉心流忍法」(ぎょくしんりゅうにんぽう)、「雲隠流忍法」(くもがくれりゅうにんぽう)といった9つの流派を継承しました。

これらの流派には、それぞれ長い歴史や伝統があります。例えば、玉虎流骨指術は初見良昭が28代の宗家でありますが、初代は眺玉虎(ようぎょくこ)という中国人。伊賀地方の武術の根本となった流派とも言われています。

源義経は、鞍馬流という武術を学んだとされていますが、鞍馬流の根本は玉虎流で、船から船へと次々に飛び移る「八艘跳び」(はっそうとび)といった飛技は、武術のひとつであったと言われています。

外国人が学ぶ実戦的武道

海外に点在する武神館では、その国々の人が修練していますが、その中にはわざわざ日本にある初見良昭の道場へやってくる人も多いと言います。道場にくる外国人は警察や軍事関係者が多く、柔道や空手を極めた人もいるほど。そんな彼らが何故わざわざ古武道を学ぶのか、理由は様々ではありますが、ひとつエピソードをご紹介します。

弟子のひとりが、外国の軍人達に会ったときのこと。弟子が「忍術をやっているか?」と尋ねると、彼らは驚いて「それは強いのか?」と質問返しをしてきました。

そこで弟子が「ベリー・ストロング」と答えると、合点がいかずに手合わせをお願いされました。結果は、弟子がほとんどの軍人を一撃で倒したそうです。また、ナイフを持った勝負でも圧勝。そして彼らは「日本の古武道はすばらしい。私達にも教えて欲しい」と申し出たそうです。

外国人弟子の職種を見る限りでも、スポーツのためや心身を極めるためではなく、実戦で役立てるように学んでいる人が多いです。とある弟子の青年は、内戦で片足を失って義足でありながら、強度がある義足で防御しつつ反撃に転じるなど、長所として活かしているようです。

戸隠流忍者の精神

初見良昭の著書「いま忍者」において、戸隠流忍者の哲学が語られています。

「武道兵法というのは身を衛るものである。しかし護身の骨子は忍術にある。忍術は精神をも衛るからである。つまり武道において精神が正しくなければ身を殺しかねない。それは医術が人を救う術ではあるがそれによって人を殺すこともあること、食べ物が生を養う物でありながら過食すれば身体を壊すこと、宗教が誠実なものであれば社会に栄をなすが邪悪であれば身を滅ぼし国家に災いをもたらすことなどに通じるものである。武道の達人にして忍術を修行すれば肝心かなめの秘訣を得ることができるのである。これを神心神眼と言う。言いかえれば天道(自然の摂理)を知るということである。人にして真に正しく誠実であるときは天道にかなう。ゆえに忍者は認識ある正義の人でなければなりません。これにより忍術を認術とも言っている。認識をわきまえ、常時莞薾(常に笑顔)として万変不驚(人生の自然な部分としての変化を受け入れ、驚いたり、怖がったりしないこと)。これが戸隠流の武風である」。

戸隠流には、伊賀流の服部半蔵、甲賀流の猿飛佐助、風魔一族の風魔小太郎といったような代表的な忍者はいませんが、800年以上かけて受け継がれてきた由緒ある流派。

そして、現代の宗家である初見良昭は、海外では知る人ぞ知る武道家であり、日本の忍者文化を海外に発信した第1人者であります。

戸隠流忍者

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