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風魔一族とは、戦国時代に北条家に仕えた忍者の一族です。「風魔」や「乱波」(らっぱ)と呼ばれる北条家配下の忍者集団の首領は代々「風魔小太郎」(ふうまこたろう)を名乗ったことで知られています。そんな風魔一族について紹介します。

首領・風魔小太郎

北条早雲

北条早雲

風魔一族は、戦国時代に相模国(さがみのくに:現在の神奈川県大半)を治めていた北条家の配下として活動していました。

風魔一族の乗馬技術を高く評価した「北条早雲」(ほうじょうそううん)が配下に迎え入れたことが北条家に仕えたはじまりと言われています。

そのため風魔一族は代々、北条家という特定の主君に仕えることになりました。この点が、様々な大名から依頼を受け各地で活動していた伊賀・甲賀の忍者と違う部分です。

戦国大名の北条家について記した「北条五代記」によれば、「北条氏直」(ほうじょううじなお)の配下には200人の乱波と呼ばれる忍者集団がいて、その首領が「風摩」(かざま)と呼ばれていたとしています。

この風摩が5代目の風魔小太郎であり、その外見は身長218cmほどもあり筋骨隆々とした体格の大男で、頭は福禄寿(ふくろくじゅ:七福神の一柱)のように長く鼻は高い。黒ひげをたくわえ、口からは牙が4本飛び出している。声を出せばその声は5km以上先にも届かせることができる、一度見れば忘れることがないであろう風貌をしていたとされます。

この日本人離れした外見と北条早雲に認められるほどの乗馬技術から、風魔一族を大陸から渡ってきた騎馬民族であるとする説もあるほど。

また風魔一族の集団自体も山賊・海賊・強盗・窃盗の類という記述があり、暗い中で襲いかかり盗みを働く夜襲を得意としていました。

さらに北条氏直は、村の人間に風魔小太郎の宿の手配を指示する手紙でも「風間[小太郎]が狼藉を働いたら、小田原城[北条氏直の居城・神奈川県小田原市]へ訴えるように」と書いたり、百姓の訴えを受けて、特定の村では風魔小太郎の宿泊を禁じたりもしています。

これらの事実から風魔小太郎や風魔一族は、人目を避けて諜報活動に従事する忍者集団というより、闇夜に紛れて敵陣に奇襲をかけ敵を混乱に陥れることに長けた武力集団といった立ち位置であり、その顔ぶれは狼藉や盗みを繰り返す無法者に近い集団であったとする見解も存在します。

北条家が小田原合戦豊臣秀吉に敗北し、主のいなくなった風魔小太郎と風魔一族は野盗に落ちぶれてしまいます。長年、関東一帯を荒らし回りましたが、江戸時代に入り徳川幕府による野盗の取り締まりが強化され、野盗に対し多額の懸賞金がかけられるように。

風魔小太郎や風魔一族にも懸賞金がかかったことで、同じ野盗の「向崎甚内」(こうさきじんない)が風魔小太郎一味の隠れ家を幕府へ密告します。

その結果、風魔小太郎達は江戸幕府によって捕えられ、1613年(慶長18年)に処刑。関東を手中に収めた北条家の懐刀だった風魔小太郎と風魔一族でしたが、あっけない最期を迎えることとなりました。

また、北条家には「風間出羽守」(かざまでわのもり)という家臣がいたことが判明していて、確たる証拠はないながら風間出羽守=風魔小太郎だったのではないかとされています。

風間出羽守は警備や諜報活動を担当しており、どちらも忍者の得意分野。風魔小太郎が風魔一族を使い、城の警備や各国への諜報活動を指揮していたと考察できるでしょう。

北条家と風魔一族

北条氏勢力図

北条氏勢力図

北条家は「北条氏綱」(ほうじょううじつな)の代から、関東一帯の支配権をめぐり山内上杉家・扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)らと対立。

1524年(大永4年)には、武蔵国(現在の東京都埼玉県・神奈川県北東部)の河越城(埼玉県川越市郭町)の領有権をめぐる「河越城の戦い」(かわごえじょうのたたかい)が始まります。その戦では、風魔小太郎から忍術の指南を受けた忍者「二曲輪猪助」(にのくるわいすけ)が活躍しました。

二曲輪猪助は敵の軍に兵士として紛れ込み、軍の構成や布陣、敵の士気などを詳細に味方へ報告しました。さらに河越城内に籠城し城を守る北条家勢力に対して、山内上杉家や扇谷上杉家による連合軍は攻めあぐね、戦況が膠着して長期化。

戦の途中で北条氏綱から家督を継いでいた「北条氏康」(ほうじょううじやす)は、報告によって得た敵内部の情報を活かし、自軍と、河越城を守る北条家勢力で80,000人の連合軍を挟撃する策を講じます。

二曲輪猪助の報告から北条氏康が、長期戦によって敵の士気が大幅に下がっていることを確認し、自ら8,000の兵士を率いて連合軍に接近し、連合軍が応戦しようとすると戦わずに退却しました。

それを見た連合軍の兵士達は「北条氏康軍の士気は低い。10倍も兵力差があるから楽勝だ」と、北条氏康軍の戦力を軽視。

そして連合軍の緊張感が緩みきったことを察知した北条氏康は、80,000の大軍を相手にわずか8,000の兵士で攻撃。北条氏康軍が反撃をしてくると予想していなかった連合軍は、突然の奇襲に混乱に陥りました。

さらに城内に籠城していた味方も北条氏康軍に呼応して攻撃に転じ、挟み撃ちをかけることで奇襲は成功。連合軍を敗走させ勝利を収めました。

この夜襲はのちに「河越夜戦」(かわごえよいくさ)と呼ばれ、現在では「日本三大奇襲」のひとつに数えられています。「桶狭間の戦い」、「厳島の戦い」と並ぶ奇襲は、忍者のもたらした情報があったからこそ成功した作戦だと言えるでしょう。

その後の北条家が徳川家康と同盟を結び、「武田勝頼」(たけだかつより)と争った黄瀬川の戦いでも、5代目・風魔小太郎をはじめとした風魔一族が活躍。

風魔一族は川の対岸に陣取っていた武田軍を狙って、闇夜に紛れて川を渡り暗闇の中で敵に襲いかかると、敵の将兵を生け捕り、縄でつながれていた馬を放ち、陣中に放火しながら武田軍の物資の奪取を繰り返して混乱に陥れました。

そうした夜襲を毎日のように行ない武田軍に損害を与えた風魔一族の働きもあり、武田軍は北条家と一戦交えることなく引き上げていったのです。

また、夜襲で風魔一族が暴れ回った際に、武田軍の兵士数人が夜襲を終えて撤退する風魔一族の集団に潜り込み反撃の機会を窺おうとしたことがあります。

しかし風魔一族が、風魔小太郎の合図で全員が座ったり立ったりする「立ちすぐり・居すぐり」の術を使ったことで、潜り込んだ武田軍達は見付かり斬り殺されてしまいました。

このエピソードから、風魔一族はただの粗暴な野盗集団とは比べ物にならない、非常に統率の取れたプロの戦闘集団だったことが分かります。

現代に蘇る風魔一族

北条家の居城であった小田原城では、現在も風魔忍者に関する様々な展示やイベントが開催されています。

2019年には、「小田原城歴史見聞館」が「小田原城NINJA館」へとリニューアル。手裏剣や吹き矢といった忍具を実際に使ったり、忍者衣装に着替えて記念撮影をしたり、和楽器演奏や忍者の演舞を観ることができます。

新たな風魔忍者の情報発信拠点のオープンによって、今後もさらに風魔忍者へスポットライトがあたることになりそうです。

また小田原城では2013年から毎年「天下一忍者決定戦」が開催されています。

水に顔を浸けて息を止める「水遁の術」や、手裏剣・吹き矢の腕前を競うこの大会で優勝した男女には、それぞれ風魔小太郎と、「風魔」の「風」の名を冠したオリジナルキャラクターおふうの称号が送られます。

2018年には、11代目(戦国時代から数えて)風魔小太郎と5代目おふうが誕生し、小田原城を賑わせました。北条早雲にその類まれな才能を見出され、北条家とともに戦国時代に関東地方で隆盛を極めた風魔小太郎と風魔一族。

しかし、伊賀・甲賀の忍者と違いひとつの主に仕えていたがゆえに、主君が滅亡したことをきっかけに野盗として裁かれる最期を迎えてしまうことになりました。

その存在を記した文献や資料が少なく、存在自体が忍者らしく謎めいている風魔一族。そんな謎多き未知の集団という一面も、現代まで人の心を惹き付けてやまない理由かもしれません。

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