実在した忍者

天正伊賀の乱

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数ある忍者の流派の中でも最も有名な「伊賀流忍者」。そんな伊賀流忍者の代表的な戦と言えば、2度にわたって織田家と戦った「天正伊賀の乱」でしょう。乱と言っても、伊賀側が始めた戦ではありません。そのため「天正の伊賀攻め」などとも言われています。天正伊賀の乱が起った理由や戦の概要、その後の伊賀流忍者の動向などをご紹介します。

戦国時代に力を付けて一揆を結成した伊賀流忍者

古代から中世にかけて、大和国(現在の奈良県)にある東大寺の荘園(しょうえん:権力者の私有地)であった伊賀国。

しかし、1467年(応仁元年)に始まった応仁の乱の頃には、東大寺の権力が及ばないほどに土豪(土地の小豪族)が力を付け、東大寺と争うようになります。

争いが激化する中で、戦国時代に入ると土豪が協力し合い伊賀惣国一揆(国ひとつを支配するほどの軍事組織)を結成。一揆と言うと、百姓が鍬(くわ)などで領主に逆らうイメージがありますが、本来は人々や家々がその力をひとつにするという意味です。

伊賀惣国一揆には、掟が記録として残されており、その一部が次のようなものです。

  • 他国が攻めて来た場合は、国全体で防衛すること。
  • 敵が攻め入って来た場合は、里々で鐘を鳴らし、武器・兵糧を用意して城の入口近くに陣を敷くこと。
  • 17歳から50歳までの男は戦に参加すること。戦が長期に及ぶ場合は、チームを編成して交代しながら戦に備えること。
  • 他国の侵入を手引きしたり、内通したりした者は討伐し、領地を没収すること。
  • 陣内では、味方同士で乱暴は働かないようにすること。

そして、織田家にとって不穏分子である伊賀惣国一揆を、織田信長の次男である「北畠信雄」(きたばたけのぶかつ)が抑えようとして天正伊賀の乱が勃発しました。

伊賀の勝利で終わった第1次

天正伊賀の乱は、北畠信雄が指揮した第1次と織田信長が指揮した第2次の2度に分けることができます。

北畠信雄は織田信長の次男でしたが、織田信長が伊勢の国司(地方の行政官)である「北畠具教」(きたばたけとものり)、「北畠具房」(きたばたけともふさ)親子が籠る大河内城(三重県松阪市)を攻めて降伏させたことをきっかけに、北畠信雄は北畠具房の養子になり家督を相続して北畠の名を受け継ぎました。

そんな北畠信雄の後見役として、甲賀(滋賀県南東部)の忍家出身と言われている「滝川一益」(たきがわかずます)と、北伊賀の有力な豪族で忍家出身と言われている「柘植保重」(つげやすしげ)が選出。

伊賀地図

伊賀地図

伊賀国をよく知る2人という人選から、やがて織田信長が伊賀国を攻めようとしていたのが窺えます。しかし、その計画を台無しにしたのが北畠信雄です。1578年(天正6年)、北畠信雄のもとに比奈地城(ひなち:三重県名張市)城主で伊賀側の「下山甲斐」(しもやまかい)が訪れます。

そこで下山甲斐は、「団結して国司を追いだした今、土豪は分裂しているから攻め時である」などと話して伊賀攻略を説得。

そして、北畠信雄は織田信長に相談をしないまま、伊賀攻略を始めました。

北畠信雄はまず、養祖父・北畠具教が伊賀攻略のために築城した丸山城伊賀市下神戸)を滝川一益の娘婿「滝川雄利」(たきがわかつとし)に命じて再建させ、伊賀攻略の拠点にしようとしたのです。

しかし、伊賀側も城が完成するのを静観するはずもなく、白昼堂々と滝川雄利の軍を襲撃。すさまじい攻撃を前に圧倒された滝川雄利は、その日のうちに敗走しました。

独断で動き負けてしまったことを織田信長に報告できなかった北畠信雄は、織田家での地位を守るためにも自力で攻略するしかなく、1579年(天正7年)に織田信長へ報告することなく、再度攻略を開始。

長野峠から北畠信雄軍8,000ほど、鬼瘤峠(おにこぶとうげ)から柘植保重軍1,500ほど、青山峠から甲斐軍1,300ほど、計10,000余りの兵で攻め込んだのです。

それに対して、伊賀側は「百田藤兵衛」(ももたとうべえ)と「福喜田将監」(ふくきだしょうげん)を総大将に対応。人数に劣る伊賀側でしたが、平地でまともに戦うのを避けて、山陰から弓や鉄砲を使った攻撃や、夜襲を仕掛けるなど、各地でゲリラ戦を展開して勝利を収めました。

この戦で、柘植保重が戦死してしまい、結局北畠信雄は撤退することになります。

織田信長の本気の戦で圧倒された第2次

北畠信雄の敗北を知り、織田信長は激怒したと言われています。

当時、破竹の勢いで勢力を拡大していた織田軍からしてみると、伊賀のような小国相手に負けたと敵対勢力に知られれば、今後の戦に支障をきたすことに。

そこで織田信長は、他の戦をあと回しにして伊賀攻略に専念しました。そして2年間の準備期間を経て侵攻を開始。

丹羽長秀(にわながひで)や蒲生氏郷(がもううじさと)など、織田家の名立たる武将が参戦。主力は甲賀方面から侵攻し、さらにその先鋒は以前同盟を結んでいた甲賀忍者や武士らが務めたと言われています。

  • 丹羽長秀

    丹羽長秀

  • 蒲生氏郷

    蒲生氏郷

40,000の大軍を相手に、1次と同様に伊賀側はゲリラ戦を繰り広げますが、大軍相手にはゲリラ戦は通用せず、ひと月足らずで伊賀側は、壊滅に追いやられました。

しかし、伊賀側もただやられるだけではなく、「比自山城の戦い」(ひじやまじょうのたたかい)のように奮戦した戦いもあります。比自山城には、忍者や武士、その家族などを合わせた3,000人ほどが立て籠もり、女性も戦に参加。瓦や石を投げ落として、織田信長軍に痛手を負わせたのです。戦いは3日続きましたが、織田信長軍の援軍が来るという情報を聞いて、忍者らしい脱出計画を練りました。

夜に普段より多くのかがり火を焚き、旗を立ててあたかも城内にいるように見せかけ、裏山から脱出。織田信長軍は、もぬけの殻と気付かず、物音しない状況に慎重になり、逃げる時間を稼げたそうです。

そのあと、最後の砦「柏原城」(三重県名張市)に、2,000人以上の伊賀衆が集まり、籠城。北畠信雄による総攻撃が始まるものの柏原城は堀と林に囲まれていたため守りやすく、容易には落ちませんでした。

林が簾(すだれ)のような役割を果たし、攻め側は城兵が見えないのに対して、城からは織田信長軍の兵の動きをしっかり確認することができたため、伊賀軍が一方的に弓や鉄砲で狙い撃ちをして、織田信長軍は死傷者が続出。

そのため、北畠信雄は兵糧攻めに転じます。それに対して、伊賀側は陣屋に火を放ったり、夜襲を仕掛けたりと、忍者の得意な戦法を展開しましたが、兵力に余裕のある織田軍は動じませんでした。

結局、奈良の猿楽師(平安時代に成立した日本の伝統芸能)大倉五郎次(おおくらごろうつぐ)が和睦の仲介に入り、伊賀側は開城したのです。

伊賀流忍者達のその後

和睦によってかろうじて生き残った忍者達は故郷を追われ、各地を巡り大名に雇われました。

しかし、織田信長と関係を持つ大名には雇用を躊躇する者もいる一方で、徳川家康は異なる対応を見せたのです。

徳川家康は織田信長の同盟者であることとは関係なしに、逃げ延びてきた忍者を庇護。この恩がのちに起こる「神君伊賀越え」(本能寺の変後に明智軍から襲撃される恐れがあったため、堺から伊賀を越えて三河まで脱出した出来事)につながったのだと言われています。

またこの時期、織田家の混乱に乗じて伊賀に潜伏していた伊賀忍者の生き残りが一斉に蜂起。伊賀にいた織田家の守備軍を攻めて、自治を取り戻そうと戦を繰り広げましたが、鎮圧されてしまい、再度影を潜めることとなりました。

一度は忍者として培った能力を発揮して勝利した伊賀流忍者でしたが、天下統一に一番近い存在であった織田信長には、成す術なく儚く散ってしまいました。

しかし、この出来事があったからこそ、伊賀流忍者という名前が後世まで語り継がれることになったのでしょう。

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