武将に仕えた忍者

徳川家康の忍者 服部半蔵

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「服部半蔵」(はっとりはんぞう)は、誰もが一度は聞いたことのあるほど有名な忍者です。しかし実は、服部半蔵という名は特定のひとりを指す名称ではなく、服部家の当主が代々名乗る通称なのです。今回は服部家のルーツや、私達がいわゆる服部半蔵として思い描く「服部半蔵正成」(まさなり)についてご紹介します。

忍者と服部姓の始まり

服部半蔵の先祖を辿ると、その始まりは「聖徳太子」が生きた飛鳥時代にまで遡ります。

聖徳太子は、「蘇我馬子」(そがのうまこ)と共に政治を行ない、大陸の進んだ文化を取り入れるために遣隋使(けんずいし)を中国に派遣。

「十七条の憲法」や「冠位十二階」(かんいじゅうにかい)等の制度を導入した人物です。聖徳太子は、伊賀の情報を集めるために服部一族を使っていたという伝説が残っています。

服部姓の発祥は、その頃の朝廷で織物の生産に従事した「織部司」(おりべのつかさ)の位に就いた者が、自身を「服部連」(はとりべむらじ)と称したことが始まりとされています。

そのあと、その子孫が伊賀国阿拝郡(いがのくにあえぐん:現在の三重県伊賀市北東部)の服部郷を領地としたことから、そこが服部姓としての発祥地となりました。

初代服部半蔵「服部保長」

伊賀の服部氏は、その後「千賀地」(ちがち)、「百地」(ももち)、「藤林」(ふじばやし)の「上忍三家」(じょうにんさんけ)と呼ばれる三家に分かれました。

初代服部半蔵の「服部保長」(はっとりやすなが)は、伊賀北部を支配していた千賀地服部の出身で、千賀地服部家の庶流だったと考えられています。

服部家の通称である服部半蔵は、もともとは千賀地服部宗家が名乗る通称。服部保長がこれを真似て名乗りだしたことから、以後服部半蔵の名が代々襲名されるようになりました。

1530年(享禄3年)頃、服部保長は出身地である伊賀国花垣村(はながきむら:現在の三重県伊賀市西部)を離れ、室町幕府12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)にしたがいます。

服部保長は足利義晴のもとで忍者として働き始めますが、そのあと、衰退していく足利将軍家のもとを離れ、三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)に拠点を移しました。

足利将軍家を離れる際、服部保長は名工「大原安綱」(おおはらやすつな)の作刀した日本刀を与えられ、授かった刀と共に服部保長は三河国へ向かったと言われています。三河国では、江戸幕府初代将軍「徳川家康」の祖父「松平清康」(まつだいらきよやす)に従属。ここから服部半蔵家と徳川家の関係が始まり、次代の服部半蔵正成にも受け継がれていきました。

服部半蔵正成の誕生

服部正成(2代目・服部半蔵)

服部正成(2代目・服部半蔵)

服部半蔵正成は、1542年(天文11年)、三河国伊賀(現在の愛知県岡崎市)で服部保長の五男として誕生しました。のちに仕えることになる徳川家康も同年に岡崎城にて誕生。2人は同年齢ということになります。服部半蔵正成は、「初年より筋骨健やかに力も尋常ならず候」であったと伝えられ、幼い頃から力持ちの健康児としてのびのびと育っていたようです。

7歳になると両親は服部半蔵正成を寺に修行に出すことを決めました。これは仏教の言葉に「一子出家すれば九族天に生ず」という言葉があり、子どものひとりが出家すれば、一族が仏による救済を受けられると考えられていたためでした。

服部半蔵正成は、松平家の菩提寺(ぼだいじ:先祖代々の墓が建ち、法要を営む寺)「大樹寺」(だいじゅじ)に預けられ、坊主修行を開始。

しかし、力のあり余っていた服部半蔵正成にとって坊主の修行は退屈であり、両親に「出家は嫌だ」と訴えるようになります。両親がこの願いを聞き入れなかったので、憤りを感じた服部半蔵正成は、寺から逃走。激怒した両親から服部半蔵正成は勘当されることになりました。

そんな行き場のなくなった服部半蔵正成を救ったのが4人の兄達。両親に勘当されたものの、弟を愛する兄達に匿われた服部半蔵正成は、その後7年間、一人前の侍になるべく鍛錬に励んでいたと言われています。

時が経ち、父からの許しを得た服部半蔵正成は16歳にして、初陣を果たします。徳川家康側の伊賀衆の一員として兄達と共に三河上郷城(かみのごうじょう:現在の愛知県豊田市大野瀬町)の夜襲に参加。城主である「鵜殿長持」(うどのながもち)と戦いました。服部半蔵正成はこの戦いで、鵜殿長持の子である「鵜殿長照」(うどのながてる)を討ち取ります。

初陣にして戦功を挙げたことに徳川家康は感心し、服部半蔵正成は褒美として槍を拝賜。徳川家康より「汝の眼光、只者にあらず」と言葉をかけられ、服部半蔵正成は徳川家康に対して目見(めみえ:領主や将軍と対面できる身分)の立場となりました。

功績を挙げ、伊賀衆を束ねる家督に

服部半蔵正成は服部半蔵の名を継ぎ、「服部半蔵正成」として戦場を駆け回り、徳川家康の家臣として頭角を現していきました。

1569年(永禄12年)、徳川家康が「今川氏真」(いまがわうじざね)を包囲した「掛川城攻め」(かけがわじょうせめ)において服部半蔵正成は、戦場で伝令や指示、戦況の考察から敵陣への使者を担い、武功と器量に優れた人物の勤める戦の要である「使番」(つかいばん)として戦場に入っていたことから、徳川家康からの信頼は厚かったことが読み取れます。

服部半蔵正成の戦場での活躍は「真先懸け人馬の区別なく大鑓を以て余多薙ぎ伏せ」と記されており、大槍で人も馬もお構いなく薙ぎ倒して、勇ましく戦っていたようです。

またその後「人礫なども打ち」と続き、人を小石のように投げたという真偽はともかく、すさまじい怪力を誇ったことが伝えられています。

服部半蔵正成の戦闘は「服部半三鬼槍半三」と掛川城静岡県掛川市)内の敵からも称えられ、服部半蔵正成は「鬼半蔵」という異名で呼ばれ始めていきました。

そのあとも服部半蔵正成は、「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)や「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)で大槍を担いで暴れ回り、一番槍(いちばんやり:戦場で最初に敵陣に槍を突き入れること)の戦功を挙げるなどの活躍。

この頃の服部半蔵正成は敵陣での勇猛果敢な戦いを好み、個人での功名を第1に考えていたようです。

しかし、そんな服部半蔵正成も三方ヶ原の戦いののちは、論功行賞(ろんこうこうしょう:それまでの功績の有無・大小を論じて、それに応じた褒美を授けること)を受けて槍1本と共に、「伊賀衆150人」を預かることになり、以後服部半蔵正成は伊賀衆を束ねる身分となっていきました。

伊賀衆のトップになった服部家はその後、服部半蔵正成が1596年(慶長元年)に55歳で亡くなると、服部半蔵正成の長男、「服部正就」(はっとりまさなり)が家督を継ぎ、3代目服部半蔵となります。

その服部正就が「大坂夏の陣」で戦死(戦死と見せかけての逃亡の説もあり)すると、服部半蔵正成の次男「服部正重」(はっとりまさしげ)が跡を継ぎ、4代目以降服部半蔵は幕末まで存続していくこととなりました。

伊賀越え

服部半蔵正成は、1582年(天正10年)の徳川家康の三河国への帰還「伊賀越え」にも同行していました。

本能寺の変」により織田信長が討たれたことで、各地で恩賞を求め自身の首が狙われることを危惧した徳川家康は、堺からの三河国への帰還に自身と親交の厚い伊賀を通る迂回ルートを選択、その際に伊賀に詳しい服部半蔵正成を呼び出し、岡崎へ帰るまでの道案内を命じます。

服部半蔵正成は、何度も残党による一揆の危険に遭遇しながらも、伊賀衆の忍者達を使い徳川家康の警護にあたり、独自のルートを組んで帰還を成功へと導きました。

服部半蔵の使用した刀剣

服部半蔵の槍

服部半蔵の槍

服部半蔵正成が使用した「服部半蔵の槍」は現在、西念寺(さいねんじ:東京都新宿区)に保存されています。

「鬼切丸」と銘を切られたこの槍は、姉川の戦いで一番槍を入れた際にも使用された物。

地震や火事などで槍先との一部が欠落しており、現存している箇所の全長は258cm、重さ7.5kgで、それだけでもとても大きな槍ですが、完全な姿は穂先(槍の刃の部分)だけで4尺(121cm)もの長さがあったとの記述が残されています。先端30cm、矢尻150cmです。

2代目服部半蔵の服部半蔵正成は、生まれ持った強固な体を活かした勇猛な戦いぶりで多くの功績を挙げ、主君からの信頼を勝ち得てきました。

そこで重ねた功績により忍者衆を率いる立場となり、「伊賀衆の長」として見事に転身。伊賀越えなどの余多の活躍により、服部半蔵に深い信頼を寄せていた徳川家康は、天下統一後に築いた江戸城の門のひとつを「半蔵門」と名付け、服部半蔵の一族に警護を任せました。

さらにこの半蔵門という名称は、現在においても「半蔵門線」、「半蔵門駅」として地下鉄の名称になり、今なお市民の身近な存在となっています。

徳川家康の忍者 服部半蔵

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