武将に仕えた忍者

武田信玄の忍者 歩き巫女

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「歩き巫女」(あるきみこ)は、戦国時代に武田家に仕えていた複数ある忍者集団のなかのひとつです。歩き巫女の最たる特徴と言えば、他に類を見ない女性の忍者くノ一のみで構成されていたこと。全国各地を渡り歩きながら、巫女として吉凶を占うなど様々な人と接して情報を集め、有用な情報を主君の武田信玄らに伝えていました。そんな歩き巫女についてご紹介します。

武田家の忍者集団達

「歩き巫女」が仕えた武田信玄は、戦において情報収集を重要視していました。

「武田騎馬軍団」を筆頭に圧倒的な武力のイメージが強い武田家ですが、武田信玄は戦が始まる前から相手の戦力や主要人物、国内情勢など様々な情報を集めて対策を練ります。

城を攻め落とすとすれば突くべき弱点はどこか、あるいは調略(政治的工作)によって寝返りそうな有力武将はいないかなど、様々な手段のなかから最も効果的な方法を選び戦に勝利していました。

その情報収集を支えたのが、武田信玄が自ら組織したとされる忍者集団です。武田家は、歩き巫女以外にも透波(すっぱ)や三ツ者(みつもの)など、複数の忍者集団を配下に従えていました。それらの忍者を全国に派遣し、忍者から定期的に報告される多くの情報を集約することで、武田家と敵対した戦国大名を次々と打ち破っていったのです。

くノ一集団・歩き巫女の誕生

歩き巫女

歩き巫女

武田家配下の忍者集団のなかでも特に目立つのは、やはり女性のみで構成された歩き巫女。

伊賀や甲賀をはじめ全国の大名が忍者を雇うようになった戦国時代ですが、忍者を重用していたことで知られる徳川家ですら女性のみの忍者集団は存在しませんでした。

もともと歩き巫女とは、特定の神社に所属せず全国を渡り歩きながら祈祷や託宣(たくせん)などを行なって生計を立てる巫女のことを指しました。当時そうした巫女は全国に存在し、「マンニチ」や「マンチ」、「飯縄」(いづな)、「トリデ」、「ヤカミシュ」など、様々な呼ばれ方をしていました。

特色のある有名な巫女としては、関東・東海地方で多く見られた梓弓(あずさゆみ:神事で使われる梓の木を使った弓)を用いる「梓巫女」(あずさみこ)や、絵を使って地獄や極楽という死後の世界を庶民に伝えた熊野比丘尼(くまのびくに)などが知られています。

歩き巫女は「巫女の口ききなさらんか」と言いながら村々を周り、「霊を憑依させて死者の口をきく」口寄せを行なったと言います。なかには神事だけでなく旅芸人や遊女もかねていた巫女もいたため、遊女のイメージで語られることも少なくありません。また巫女という聖職者の立場であるため、肉を食べることは禁じられていました。

昭和の民俗学者「柳田國男」(やなぎたくにお)によれば、信濃国(しなののくに:現在の長野県岐阜県中津川市)の歩き巫女は、もとは「ノノウ」や「信濃巫女」と呼ばれる諏訪神社(すわじんじゃ)の巫女で、諏訪信仰の伝道師として全国各地を回っていたとされます。

そんな歩き巫女に忍者としての特性を見出したのが武田信玄。武田信玄は歩き巫女達に忍者としての諜報技術を習得させ、全国に配置し各国の情勢を探らせました。

歩き巫女は各地を回る職業のため、一般人の往来が大きく制限されていた戦国時代でも自由な移動が可能で、全国どこを訪れていても怪しまれずに周囲に溶け込めたのが特徴。ちなみに忍者の変装術「七方出」(しちほうで)でも、商人・放下師(大道芸人)・出家(一般的な僧侶)・虚無僧(深編笠を被った禅宗の僧)・山伏(山中で修行する僧)・猿楽師(能役者)・常の型(一般人)と、他国を歩いていても不審がられない職業を装う技術が発展しています。

つまり歩き巫女は、忍者が放浪しやすい職業に変装するのではなく、放浪しやすい職業の人間を忍者に仕立て上げると言う、逆転の発想から生まれた忍者の形態だと言えるでしょう。

歩き巫女の巫女頭・望月千代女

木碑

木碑

武田信玄はくノ一である歩き巫女を多く育成するため、信濃国の小県郡祢津村(ちいさがたぐんねづむら:現在の長野県東御市)に「甲斐信濃巫女道」(かいしなのみこどう)と名付けた修練道場を設立。

戦乱の余波による孤児や捨て子、迷い子といった身寄りのない子ども達のなかから容姿や知性に優れた少女を集め、巫女として必要とされる技能や、歩き巫女として活躍するための諜報の知識や技術、読み書きなどの基礎的な教養などを教え込みました。

諜報活動において様々な面で有利になるとして、容姿が良く機転の利く少女ほど重宝されたと言います。道場では明治時代に入るまで多くの巫女が育てられ、現在も東御市祢津地区は「日本一の巫女村」として有名です。

祢津地区内の小学校の前には、古い墓碑があり「巫女さん眠る地」と木碑が建てられています。歩き巫女の少女達を束ねていた頭領「巫女頭」(みこがしら)が「望月千代女」(もちづきちよめ)です。

望月千代女

望月千代女

望月千代女は、望月城(長野県佐久市)城主「望月盛時」(もちづきもりとき)の妻とされ、武田信玄の家臣だった望月盛時が1561年(永禄4年)に起こった4度目の「川中島の戦い」で討死にして以降に、望月千代女が巫女頭に任命されたと言われています。

望月家は、分家が甲賀忍者の「甲賀五十三家」(こうかごじゅうさんけ)筆頭になるなど、代々忍者にかかわりのある一族でした。望月千代女自身も望月家の本家筋にあたる滋野家(しげのけ)の出身。つまり望月千代女は、甲賀五十三家筆頭の本家にあたる家柄の生まれなのです。

武田信玄が巫女頭に任命したのも、その血筋が理由のひとつかもしれません。望月千代女は歩き巫女の育成だけでなく、育て上げて一人前となった歩き巫女を全国各地に送る運用にも携わっていたとされます。

「神事舞太夫」(しんじまいだゆう)と呼ばれる男性の統率者を中心に数人の歩き巫女が一団となり、各地に散らばって旅立ち様々な神事をこなしながら、くノ一としてその地の諜報活動を行なっていました。この神事舞太夫は統率者としての役割だけでなく、旅に必要不可欠な荷物を持ったり、一行が宿泊する宿の手配をしたりします。

さらには女性ばかりの一行の用心棒としての役目も果たしていたとされ、現代で言うマネージャーのような役目も任されていたと考えられます。

旧暦の1~4月(現在の2~5月)に祢津村を発って各地への旅に向かい、大晦日(現在の1~2月)までには祢津村へと帰還して寒垢離(かんごり:冬に冷水を浴びて身を清めること)をする、という1年周期の活動を毎年繰り返していました。

諜報活動だけでなく、散らばった一団同士で手紙をやりとりしてお互いの状況を伝え合ったり、訪れた地方で歩き巫女になる素養のある容姿の少女を見付けて、くノ一として育成するため勧誘したりと、旅のなかで多岐にわたる業務に従事していました。なかには旅先で出会った男性と恋仲になってしまい、駆け落ちして逃げてしまった巫女もいると言われています。

歩き巫女として集団で活動する巫女がいる一方で、素性を隠して単独で活動する巫女もいました。敵国の屋敷に女中(住み込みで家事などを行なう女性)として入り込み、長期に亘って働きながら多くの情報を収集する、まさにくノ一としての任務に従事する巫女も少なからず存在していたのです。

長期的に潜伏することで、相手の信用を得てより核心に迫る情報を引き出し、場合によっては敵国内部に味方をつくり武田家の動きに合わせて内側から裏切らせて敵を攻略することもあったとされます。軍略家・武田信玄の存在があったからこそ生まれたくノ一としての歩き巫女。

武田家の滅亡後は望月千代女と言う巫女頭の存在もあってか、「望月家の同族にあたる真田家が引き継いだ」とも言われています。

歩き巫女達が真田家に仕えたと言う確たる文書は存在しませんが、真田家の配下の真田忍軍には武田家から移ってきた忍者が多く存在しているだけに、真田忍軍のなかで歩き巫女がくノ一として活躍していたとしても不思議はありません。

武田信玄の忍者 歩き巫女

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