武将に仕えた忍者

伊達政宗の忍衆 黒脛巾組

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戦が絶えなかった戦国時代において、各地で活躍した忍者。東北の地でも「黒脛巾組」(くろはばきぐみ)と呼ばれる忍者集団が存在したと伝わっています。そんな黒脛巾組を結成した「伊達政宗」(だてまさむね)や、黒脛巾組が活躍した戦などについてご紹介します。

黒脛巾組を結成した伊達政宗

黒脛巾

黒脛巾

伊達政宗」は1567年(永禄10年)に米沢城山形県米沢市)で生まれ、幼い頃は「梵天丸」(ぼんてんまる)と呼ばれていました。

その幼少期に患った疱瘡(ほうそう:感染症のひとつ)によって右目を失明し、隻眼(せきがん:片目の視力を失った状態)。これが、現代でも有名な伊達政宗の愛称である「独眼竜」の由来です。

梵天丸は1577年(天正5年)に元服し伊達政宗となります。1581年(天正9年)には、14歳の若さで初陣を飾り、父であり伊達家当主の「伊達輝宗」(だててるむね)の代理として、他家との外交も任されていたようです。

1584年(天正12年)伊達政宗が18歳のときに家督を相続します。そして周辺諸国との戦が激化していく中で伊達政宗が結成させたのが黒脛巾組でした。

黒脛巾組の起源

1770年(明和7年)に半田道時(はんだみちとき)が著した「伊達秘鑑」(だてひかん)巻之十七「七大正安積表出張之事」にて、黒脛巾組に関する記述があります。

「政宗公兼ねて慮りあって、信夫郡鳥屋の城主・安部対馬重定に命じて、偸になれたる者五十人を選び、扶持を与え、これを黒脛巾組と号す。柳原戸兵衛、世瀬蔵人と云う者を首長として、安部対馬之を差引。所々方々へ分け置き、あるいは商人、山臥(伏)、行者等に身をまぎれて、連々入魂の者は出来れば、其便宜を以て密事をも聞き出し、其時々これら密通す。これにより政宗には早く此事聞えけれども外に知る人なし」

この記述には、伊達政宗が鳥屋(福島県福島市)を治める安部重定(あべしげさだ)に命じ、柳原戸兵衛(やなぎはらとへえ)と世瀬蔵人(よせくらんど)を首長に、忍びに慣れた者50人を選んで扶持(武士が主君から与えられた俸禄)を与えて、黒脛巾組としたと書かれています。

そうして黒脛巾組は、商人や山伏、行者(ぎょうじゃ:仏教や古代インド宗教などを修行する者)に扮して情報収集に務めました。また、黒脛巾組は黒の脚絆(きゃはん:脛の部分に巻く布や革でできた被服)を着用していたため、黒脛巾組という名が付けられとされています。

このように直接黒脛巾組について記述されている文献が残る他にも、奥州(東北地方)において忍者が存在していたと言われる文献が残っています。

それが、伊達政宗の重臣である「伊達成実」(だてしげざね)が著した伊達政宗の一代記「政宗記」。その第4巻「成実領地草調儀の事」に記述があります。

「されば奥州の軍言ばに、草調儀戓は草を入る、戓いは草に臥、亦草を起す、扨草を探すと云ふ有。草調儀戓とは、我領より他領へ忍びに勢を遣はすこと、是草調儀といへり。扨其勢の多少に依て一の草・二の草・三の草とて、人数次第に引分に段々跡に扣へ、一の草には歩立計りを二三丁も先へ遣はし、敵居城の近所迄夜の内より忍ばせけるを草を入ると名付。其より能場所を見合隠居、草に臥と云ふ。尓して後夜明けなば内より従来に出ける者をひとり成りとも、たとえば幾人にても敵地より出かゝりけるを、一の草にて討て取ること、是草を起といへり。」

この記述には、東北地方で忍者を草と呼んでおり、草調儀(くさちょうぎ)について説明されています。

草調儀とは、他国の領土へ忍びを派遣すること。敵城から近い順に、一の草、二の草、三の草と分けて忍ばせ、そのことを「草に臥[ふ]す」とし、敵地から外に出る人を一の草で討ち取ることを「草を起す」と言っていたそうです。

黒脛巾組が活躍した「人取橋の戦い」

人取橋

人取橋

黒脛巾組の働きによって、伊達政宗が九死に一生を得た戦がありました。

それは、1585年(天正13年)、「佐竹義重」(さたけよししげ)を総大将に、「岩城常隆」(いわきつねたか)、「石川昭光」(いしかわあきみつ)、「白河義親」(しらかわよしちか)、「二階堂盛行」(にかいどうもりゆき)、「相馬義胤」(そうまよしたね)、蘆名軍(当主が生後間もない蘆名亀王丸)が加わった南奥羽連合軍と戦をした「人取橋の戦い」(ひととりばしのたたかい)です。

そもそも、この戦の引き金とされているのは、隠居の身となっていた伊達輝宗が二本松城福島県二本松市)城主・畠山義継(はたけやまよしつぐ)に拉致され、そのまま殺害されたこと。畠山義継も伊達輝宗同様に命を落としますが、伊達政宗は「父の敵討ち」と大義名分を掲げて、畠山家の居城である二本松城を攻め立てます。

1ヵ月以上の籠城戦となりますが、そこに前述した南奥羽の連合軍が二本松城の救援に駆け付け、伊達軍と対峙します。このとき、伊達軍約7,000人、連合軍約30,000人。

多勢に無勢ともあり、劣勢に立たされ追い詰められた伊達政宗でしたが、あと1歩のところで連合軍は退却していきました。この退却に、黒脛巾組がかかわったとされています。

黒脛巾組の数名が連合軍陣中に紛れ込み、伊達政宗の叔父にあたる石川昭光や義親両将が伊達政宗と内通していると流言(りゅうげん:根拠のないことを言いふらすこと)しました。

矢面に立たされた両将は、憮然として帰国。また佐竹義重も、関東から「江戸重通」(えどしげみち)や「里見義頼」(さとみよしのり)が留守を狙って攻めて来たこともあり帰国しました。

「摺上原の戦い」で貢献した大林坊俊海

大林坊俊海(だいりんぼうしゅんかい)は、羽黒山(はぐろさん:山形県鶴岡市)の修験者(山に籠って厳しい修行を行ない、山岳信仰する者)でした。

先祖は、南北朝時代に奥羽を拠点としていた武将「北畠顕信」(きたばたあきのぶ)に仕えていたされています。武士の家系ということや、修験者で体得した山岳知識を買われ、黒脛巾組のひとりとして伊達政宗に仕えました。

人取橋の戦い以降、南奥羽の争いが激化。他家の情報を探るため黒脛巾組が各地に散らばりました。大林坊俊海もそのひとりとして、蘆名家が居所とする黒川城(福島県会津若松市)で情報収集を行ない、鉄砲の数や兵数といった軍備から、城主と武将の信頼関係など、こと細かに探りを入れました。そして、その情報を伊達政宗に伝えるための帰路の途中で、羽黒山の修験仲間であった覚雲坊(かくうんぼう)を訪ねます。

覚雲坊は蘆名家の禅僧(禅宗の僧)であり、忍者であったともされている人物。その覚雲坊を味方に付けようと説得して失敗しましたが、覚雲坊が有力な情報を大林坊俊海に伝えてきました。その内容は、蘆名義広と佐竹義重が伊達攻略に向かうという情報。それを大林坊俊海は伊達政宗に伝え、伊達政宗は迎撃の準備をしました。そしてこのときに起こった戦が「摺上原の戦い」(すりあげはらのたたかい)でした。

午前に開戦したこの戦では、強い西風が吹き荒れ、向かい風となった伊達軍は苦戦を強いられましたが、午後には風向きが変わり戦況は逆転。そのまま勝利を掴みました。

このとき、風向きが変わるということを進言したのが大林坊俊海で、風の特徴を地元の農民から聞きだしていたと伝わっています。もし文献通り黒脛巾組が存在したのであれば、伊達家繁栄を影で支えたのは黒脛巾組であったことは間違いないでしょう。

伊達家の黒脛巾組の他にも、徳川家服部半蔵北条家の風魔一族、武田家の三ツ者、上杉家の軒猿など、戦国大名が台頭するには忍者の活躍が重要だったのかもしれません。

伊達政宗の忍衆 黒脛巾組

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