武将に仕えた忍者

真田家に仕えた忍衆 真田忍軍

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真田忍軍は、戦国時代に真田家に仕えて活躍した忍者集団です。後世には、真田忍軍をモデルとした、「真田幸村」(さなだゆきむら)の名で知られる「真田信繁」(さなだのぶしげ)と、その真田幸村に仕える真田十勇士(さなだじゅうゆうし)が創作されました。最近でも2016年の大河ドラマ「真田丸」に忍びとして登場するなど、その人気は今も昔も変わることがありません。

真田忍軍と真田家

真田家領地

真田家領地

真田忍軍が活躍したのは戦国時代中頃。真田忍軍の仕える真田家の領地があった信濃国(しなののくに:現在の長野県岐阜県中津川市)や上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)を本拠地として活躍しました。

領地の中に修験道の聖地として有名な四阿山(あずまやさん:群馬県吾妻郡嬬恋村[あがつまぐんつまごいむら])があり、伊賀や甲賀と同様に修験道を極める修行僧達から忍術が発展したとされます。

また真田家の主君・武田家も忍者を重用していました。情報収集を重視する武田信玄は忍者集団を組織。透破(すっぱ)と呼ばれる忍者の養成に力を入れ、育った忍者を全国各地に送り込み諜報の任務にあたらせていました。

そうして全国に散らばった忍者からあがってくる各国の様々な情報を総合することで、武田家は相手の弱点を熟知し、戦を有利に進められていたと言われています。

当時多くの忍者が育成され、その数は1,000人を超えていたとされます。そんな透破の頭領が「出浦盛清」(いでうらもりきよ)と呼ばれる忍者。忍者として卓越した技術を持つ出浦盛清が、透破の活動や育成を重ね、戦国の世で常勝を誇った武田信玄を影から支えていたのです。

信濃国埴科郡(はにしなぐん・現在の長野県埴科郡)の一族であった出浦盛清は、武田家滅亡後も信濃を本拠として、織田信長の家臣「森長可」(もりながよし)や真田家など、同地を治める大名に仕えながら忍者の育成を一手に任されていました。

真田家も出浦盛清を家臣に迎え入れたことで、本格的に忍者集団を従えるようになりました。1582年(天正10年)には、「真田信之」(さなだのぶゆき)が北条家が陣取る手子丸城(てこまるじょう:群馬県吾妻郡東吾妻町)に攻め入ります。

このとき5,000人で城内にこもる北条軍に対し、真田信之の兵力はわずか800人。圧倒的不利な真田信之軍でしたが、真田信之の家臣の忍者「唐沢玄蕃」(からさわげんば)が城外で北条軍を挑発して城の外へと誘い出し、伏兵を使って出陣してきた北条軍を撃破します。

そして敵の戦力を削ったうえで、城の後方に回った出浦盛清らが城内に侵入し、あちこちに放火して回りました。北条軍が「城内に内通者が出た」と勘違いし、その混乱に乗じて真田信之軍が突入し北条軍を殲滅。わずか1日で手子丸城の奪取に成功しました。

以降も、出浦盛清と「横谷幸重」(よこやゆきしげ)という真田忍軍の頭領2人をはじめ、真田忍軍の中で実力者として活躍した唐沢玄蕃、「割田重勝」(わりたしげかつ)らの名前が、小田原征伐に参加する真田家の武将として記録に残っているなど、真田家の重要な戦力として活躍しました。

出浦盛清
出浦盛清は、武田信玄のもとで透破の頭領として多くの忍者を育成し、武田家の諜報戦略を支えました。そのあと真田家に仕官すると、真田家でも横谷幸重とともに頭領となり、真田忍軍を構成する忍者の育成に貢献しました。

出浦盛清の忍者としての才能は、忍者の集団の中にあっても群を抜いていました。

「部下の忍者に敵城での情報収集を命じた出浦盛清が、部下よりも先に出浦盛清自身が敵城に潜入。自ら情報を持ち帰り、部下の情報の正確性を確認した」という逸話も残っているほど、その技術が高かったと言われています。

唐沢玄蕃
唐沢玄蕃は初代と2代目が存在し、どちらも真田家に仕えた忍者です。特に2代目・唐沢玄蕃は身軽さで有名で、「飛び六法」と称されるほど跳躍力に秀でていました。

「六法」とは「上下左右前後」の6つの飛び方を指し、唐沢玄蕃はすべてに長けていたとされます。「上」(垂直)には助走もせずに1.8mも飛び上がり、「前」に飛べば3.6m。「左」、「右」、「後」であれは2.7m飛べ、「下」に降りれば12mの高さがあっても音も立てずに着地した、というほど卓越した跳躍技術を持っていたと言われているのです。

また火薬を使った工作を得意とし、主君「真田昌幸」(さなだまさゆき)の命を受けて尻高城(しったかじょう:群馬県吾妻郡高山村)の攻略に向かうと、即座に城に忍び入り城内の各所に火を放ち敵を撹乱させました。

さらにそのまま近隣の中山城(群馬県吾妻郡高山村)にも潜入。周辺を支配する斎藤家の一族である城主の「中山安芸守景信」(なかやまあきのかみかげのぶ)が関東管領(かんとうかんれい:京都の室町幕府が関東の監視役に置いた役職)「上杉憲政」(うえすぎのりまさ)から拝領した金の馬鎧(馬に着用させる鎧)を馬ごと盗み取ってきたという逸話も残っています。

創作における真田忍軍「真田十勇士」

「真田十勇士」は、明治・大正時代に大きく広まった創作上の集団で、真田幸村に仕える10人の家臣団です。

また、十勇士そのものは架空の人物ですが、実在の武将をモデルにした者や、江戸時代中期の軍記物(武将の武功を物語化したもの)「真田三代記」で真田幸村に仕える家臣として登場した者も存在します。主君の真田幸村とともに徳川家を相手に奮戦する英雄として、後世の多くの歴史好きに愛されています。

猿飛佐助
「猿飛佐助」(さるとびさすけ)は、十勇士の筆頭。小説や映画、漫画など現代でも多くの人に愛されているキャラクターとして高い知名度を誇ります。

甲賀流忍術を使い、小柄ですばしっこい、まさに猿のような忍者として描かれています。

猿飛佐助のモデルは、「猿飛仁助」(さるとびにすけ)とも「上月佐助」(こうづきさすけ)とも言われていますが、この2人の人物自体も架空説と実在説があるため、はっきりとしたところは分かっていません。

霧隠才蔵
「霧隠才蔵」(きりがくれさいぞう)は、十勇士の中でも佐助のライバルと言える人物です。

浅井長政」(あざいながまさ)の家臣「霧隠弾正左衛門」(きりがくれだんじょうざえもん)の子であり、甲賀流の猿飛佐助と対比するように伊賀流忍術の使い手で、実在した伊賀流忍者「百地三太夫」(ももちさんだゆう)の弟子という設定です。

「真田三代記」では真田幸村配下の忍者「霧隠鹿右衛門」(きりがくれしかえもん)として登場します。

由利鎌之助
「由利鎌之助」(ゆりかまのすけ)は、鎖鎌と槍の扱いに長けた武将です。登場時は菅沼家という敵軍の武将でしたが、戦で敗れ真田家の家臣になったとされています。
三好清海入道
「三好清海入道」(みよしせいかいにゅうどう)は、怪力が自慢の大男として登場します。

過去には出羽国亀田(現在の秋田県由利本荘市岩城亀田)の領主でしたが、土地を追われて真田幸村の家臣となりました。

三好三人衆のひとり「三好政康」(みよしまさやす)がモデルと言われていますが、実際の三好政康は真田家とのかかわりはありませんでした。

三好伊三入道
「三好伊三入道」(みよしいさにゅうどう)は清海の弟で、兄弟で真田家に仕官したとされています。三好政康の弟「三好政勝」(みよしまさかつ)がモデルとされますが、兄同様実際は真田家とのかかわりはありません。
穴山小助
「穴山小助」(あなやまこすけ)は、真田幸村の側近として登場します。古くから真田幸村に仕え、背格好や容姿も似ていたことで真田幸村の影武者として活躍。

大坂夏の陣では敵陣に切り込んで多くの武将を討ち取ったあとに戦死し、徳川方に「真田幸村は死亡した」と誤認させたことで、真田幸村が薩摩へと落ち延びられた、としています。

筧十蔵
「筧十蔵」(かけいじゅうぞう)は、真田幸村の側近のひとり。もとは蜂須賀家の家臣でしたが、真田幸村の才覚に惚れ込み配下となっています。種子島銃の名手で、鉄砲隊を率いていました。
海野六郎
「海野六郎」(うんのろくろう)は、十勇士の中で最古参の武将です。真田幸村の右腕として、真田軍を指揮する名参謀の役割を果たします。
根津甚八
「根津甚八」(ねづじんぱち)は、もとは海賊の首領をしていた豪傑。

真田幸村が豊臣秀吉の命で志摩国(しまのくに・現在の三重県東部)を本拠地とする九鬼水軍(くきすいぐん)の調査に赴いた際に根津甚八と出会い、十勇士に引き入れたとされています。同名の俳優の故・根津甚八の芸名の由来ともなっています。

望月六郎
「望月六郎」(もちづきろくろう)は、影武者としても活躍した真田忍者のひとりです。爆弾作りが得意とされ、大坂夏の陣でも真田幸村の影武者として獅子奮迅の働きを見せました。

真田忍軍の誕生には、真田家が領地とした信濃国や上野国が、伊賀・甲賀に劣らぬほど忍者の育成が盛んだったことや、主君であった武田信玄が諜報に力を入れていたことなどが背景にあると言えます。

しかし、現代の真田家や真田忍軍の人気の高さは、真田三代記で描かれたように、忠臣・真田幸村とそれを支える真田十勇士という、ヒーロー的人気があるのかもしれません。

真田家に仕えた忍衆 真田忍軍

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