日本刀の歴史

菊水刀とは

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「菊水刀」(きくすいとう)とは、旧日本海軍の士官用軍刀として作刀された本鍛錬刀のこと。鎌倉時代末期から室町時代にかけて活躍した武将「楠木正成」(くすのきまさしげ)の家紋「菊水紋」が施されていることにちなみ、名付けられました。1940年(昭和15年)から制作された軍刀ですが、なぜ旧日本海軍は、楠木正成の家紋を採用したのでしょうか。菊水紋とは、どんなデザインで、どんな意味が込められているのか、詳しくご紹介します。

菊水刀とは

旧海軍軍刀として作刀された本鍛錬刀

旧日本海軍の士官

旧日本海軍の士官

「菊水刀」とは、旧日本海軍の士官用軍刀として作刀された本鍛錬刀のことです。

1933年(昭和8年)、刀剣の復活と将校用軍刀の需要に応えるために、靖国神社で「日本刀鍛錬会」がつくられ、「日本刀鍛錬所」が設置されました。その流れを汲み、1940年(昭和15年)、兵庫県神戸市の「湊川神社」(みなとがわじんじゃ)にも鍛刀場が設立。

靖国神社日本刀鍛錬会(1933~1945年)で修行を積んだ、「村上道政」刀工(銘:正忠)と「森脇要」刀工(銘:正孝)が、湊川神社の御用刀工に抜擢されます。これにより、靖国神社では陸軍用軍刀が、湊川神社では海軍用軍刀が制作されることになりました。

そんな海軍用軍刀の名前、菊水刀は、湊川神社の祭神「楠木正成」が、「後醍醐天皇」から下賜されたとされる家紋「菊水紋」を、「」(なかご)と「」(はばき)に彫ったことにちなんで付けられています。

現存する物は非常に少なく、とても貴重です。その理由は、1939年(昭和14年)~1945年(昭和20年)にかけて行なわれた「第2次世界大戦」において、旧日本海軍が、アメリカに大敗を喫し、軍艦と共に多くの軍刀も海の藻屑と消えたため。なお、菊水刀を制作したのは、「村上道政」刀工(銘:正忠)と「森脇要」(銘:正孝)刀工だけではなく、森脇刀工の弟子「岡田正直」(おかだまさなお)をはじめとして複数の刀工が存在しました。

また、湊川神社の例大祭である「大楠公550年大祭」では、「月山貞一」(がっさんさだかず)と「堀井胤吉」(ほりいたねよし)、「大楠公600年祭」では「堀井俊秀」(ほりいとしひで)など多くの名工が、湊川神社に奉納刀を制作して納め、その茎には菊水刀と同じく、菊水紋が彫られた物が存在しています。

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湊川神社とは

湊川神社とは、地元で親しみを込めて通称「楠公さん」(なんこうさん)と呼ばれている神社です。その通称通り、楠木正成を祀っています。

楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将。後醍醐天皇に仕え、最後まで忠義を尽くしたことで知られる人物です。

楠木正成は1294年(永仁2年)、河内国赤坂水分(現在の大阪府千早赤阪村)で、豪族の子として誕生しました。1331年(元弘元年)に起きた「元弘の乱」(げんこうのらん:元弘の変)で後醍醐天皇を奉じ、鎌倉幕府打倒に立ち上がります。途中、後醍醐天皇は捉えられ、隠岐島(おきのしま:現在の島根県隠岐島)に配流されるものの、楠木正成は「護良親王」(もりよししんのう:後醍醐天皇の子)と連携し、日本全土で反乱を誘発させることによって鎌倉幕府の倒幕を成功させたのです。

その後、楠木正成は後醍醐天皇が行なった「建武の新政」(天皇自らが行なう政治)で、最高政務機関である記録所の寄人に任命され、「足利尊氏」らと共に後醍醐天皇を支援。

しかし、1336年(建武3年/延元元年)、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し「延元の乱」(えんげんのらん)を起こすのです。楠木正成は奮闘し、後醍醐天皇を守ったものの、「湊川の戦い」で足利尊氏に敗れ、追い詰められて自決しました。

そんな楠木正成でしたが、江戸時代には水戸学(水戸藩の学問)において理想の勤皇家(天皇のために忠義を尽くす人)と崇敬されるように。幕末には、尊王派によっても支持され、「大楠公」(だいなんこう)と呼ばれます。

そこで1867年(慶応3年)、尾張藩(現在の愛知県名古屋市)14代藩主「徳川慶勝」(とくがわよしかつ)は、楠公社創立の建白(けんぱく:政府や上役などに自分の意見を申し立てる)を行ない、それを受けて1868年(明治元年)、明治天皇が大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社の創建を勅命。1872年(明治5年)、楠木正成が自決した、殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)の土地に、湊川神社が創建されました。

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湊川神社と菊水刀

菊水紋はなぜ生まれたか?

「菊紋」は、皇室の紋章として有名です。しかし、本来の皇室の紋は「日月紋」でした。

菊紋を好んだのは、「後鳥羽上皇」です。後鳥羽上皇は、鎌倉幕府倒幕の戦い「承久の乱」(じょうきゅうのらん)に敗北して流刑になり、そのまま亡くなってしまいます。

しかし、あとを継いだ後醍醐天皇が、後鳥羽上皇の思いを汲み、この菊紋を使用したことから、代々天皇家の家紋となったのです。現在の天皇家の御紋は、「菊花紋章」。

南北朝時代、楠木正成は、この後醍醐天皇より建武の武功として菊紋を下賜。しかし、「これは畏れ多い」と考え、下半分を水に流した菊水紋を家紋として使用したと伝えられています。

昭和初期、天皇と国家への忠誠の証として、刀剣だけではなく、特攻機や特攻艦艇にこの菊水紋がよく描かれるようになりました。楠木正成が、後醍醐天皇に生涯忠誠を誓ったように、菊水紋は、忠誠心の象徴だったと言えるのです。

  • 菊紋

    菊紋

  • 日月紋

    日月紋

刀 銘 (菊水紋) 湊川神社正直
刀 銘 (菊水紋) 湊川神社正直
(菊水紋)
湊川神社正直
鑑定区分
保存刀剣
刃長
64.3
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
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湊川神社や楠木正成に縁の深い刀剣

湊川神社や楠木正成に縁の深い刀剣

湊川神社には、数多くの刀剣類が納められていますが、その中でも神社創建の歴史と縁が深いのが、明治天皇御奉納の「太刀」です。

これは、刀匠・栗原信秀作の物。1868年(明治元年)、明治天皇によって湊川神社の創建が決まると、明治天皇は当時、すでに名高かった栗原信秀刀匠を召し出し、湊川神社へ奉納する太刀の作刀を命じたと言われています。

刀匠 栗原信秀
栗原信秀刀匠は、1815年(文化12年)に越後(現在の新潟県)に生まれました。栗原信秀刀匠は、幕末の巨匠「源清麿」(みなもときよまろ)門の第一人者でしたが、入門の年齢は遅く、34歳頃とされています。それ以前は鏡師でした。

栗原信秀刀匠は、刀工としての始まりは遅かったものの、才能があり、短い期間で源清麿の技を吸収。1852年(嘉永5年)には独立を果たします。

1865年(慶応元年)に京都に上り、孝明天皇から「筑前守」を受領。栗原信秀刀匠は、人気刀工であった源清麿の作風を継承している他に、刀身に竜や不動、梅枝など緻密な彫りを入れたため、特に人気がありました。

明治になって天皇の「御番鍛冶」に任命され、1872年(明治5年)に天皇に佩刀(はいとう:腰に差した刀)を献上。また、1874年(明治7年)には「東京招魂社」(現在の靖国神社)の御鏡三面を打ち上げています。代表作は、京都の三条八幡宮の御神鏡や弥彦神社の御神鏡などです。

太刀 銘 栗原信秀(明治天皇<御下賜刀)

太刀 銘 栗原信秀(明治天皇御下賜刀)

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
太刀 銘
栗原信秀
(明治天皇
御下賜刀)
明治時代 湊川神社

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楠木正成の佩刀

楠木正成の佩刀として伝承されている物に、国宝の太刀「小竜景光」(こりゅうかげみつ)があります。これは、鎺元(はばきもと:刀身と鍔が接する部分にある刃区[はまち]がある部分)に精巧な「倶利伽羅竜」(くりからりゅう)が彫られ、そこから名がついた物。鎌倉時代末期の備前長船派3代目刀工「景光」(かげみつ)によるもので、茎を短くし、刀身を短縮したことで、竜の彫物が(つか)の中に隠れて頭だけがのぞいているように見えます。

そこから「のぞき竜景光」とも呼ばれました。江戸時代に河内(現在の大阪府)の農家で発見されるまでの来歴は分かっておらず、のちに明治天皇の佩刀になり、現在は、「東京国立博物館」の所蔵となっています。

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新刀

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