甲冑(鎧兜)の歴史

甲冑の歴史(南北朝時代~室町時代)

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鎌倉幕府が滅亡したあとに訪れた南北朝時代は、その名の通り、朝廷が北朝・南朝に分かれた状態で、絶えず戦争が続く時代。そんな中、鎌倉時代後期に完成した「腹巻」(はらまき)などは、南北朝時代を超え、室町時代まで甲冑の主流として活躍し続けました。南北朝時代から室町時代にかけて、どのような甲冑が使われていたのか、また、甲冑の様式に影響を与えた時代背景などを説明していきます。

南北朝時代はどんな時代だったか

南北朝時代の戦争の特徴は、騎馬戦からやがて徒歩(かち)戦に移行していったことです。騎馬戦では必要だった「大鎧」(おおよろい)でしたが、重くて動きづらく徒歩戦では不利に働くため、軽くて動きやすい甲冑の需要が高まっていくことになります。そのため、大鎧は実戦向けというより、権威の象徴としての位置付けとなっていきました。

建武の新政

武家政権であった鎌倉幕府が、1333年(元弘3年)に滅亡したあと、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は「建武の新政」と呼ばれる親政(しんせい:天皇が自ら行なう政治)を行ないます。

天皇以外の摂政や関白などを一切置かず、まさに天皇だけによる統治を目指したものの、これが多くの武士から反感を買う原因となりました。

朝廷が2つに分裂する事態に

一方、鎌倉幕府の再興を狙っていた「北条時行」(ほうじょうときゆき)は、1335年(建武2年)に「中先代の乱」(なかせんだいのらん)を起こすも、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が鎮圧。

しかし足利尊氏は、少ない恩賞への不満などにより親政から離脱し、逆に後醍醐天皇に対し、「光明天皇」(こうみょうてんのう)へ位を譲るように迫りました。その後、足利尊氏は1338年(延元3年)に征夷大将軍に任じられ、現在の京都府室町幕府を設立します。

しかし、後醍醐天皇は奈良県の吉野に逃れ、自分の正統性を主張したために朝廷が二分されて対立。何度か大きな戦も発生しました。さらに、足利尊氏と弟の「足利直義」(あしかがただよし)の間で「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)と呼ばれる内紛が勃発する事態になります。

南北朝時代の終焉

やがて南朝が弱体化し、北朝の勢力が増していく中で、1392年(元中9年)に足利尊氏の孫である「足利義満」(あしかがよしみつ)の調停により、「明徳の和約」が締結。約60年に亘った「南北朝の動乱」は終焉を迎え、南北朝時代は幕を閉じ、時代は室町時代へと移ります。

南北朝時代に使用された甲冑の特徴

胴丸から発展した腹巻が実戦の主役に

腹巻の各部名称

腹巻の各部名称

平安時代に生まれた「胴丸」(どうまる)に対し、さらに機能的に簡略化させた甲冑が「腹巻」(はらまき)です。腹巻は、鎌倉時代後期頃に誕生。もともと簡易な防具だった「腹当」(はらあて)の両端を背後まで延ばした様式です。

室町時代以前は、胴丸も腹巻もまとめて腹巻と呼んでいましたが、室町時代末期以降は、右引き合わせの胴を胴丸、背中引き合わせの胴を腹巻と呼ぶようになりました。

腹巻の定着

鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の争乱が全国にまで波及すると、徒歩武者による射撃や奇襲、山城における籠城戦や山岳戦など、騎馬による戦から、徒歩による多様な戦術を組み合わせた戦に変化していきます。

そして、足軽や徴用された農民などの雑兵も加わって、徒歩戦で有利な腹巻の需要も拡大。「機能の良さ」、「着用のしやすさ」、「軽さ」、「動きやすさ」、「安さ」などから腹巻が広まり、実戦でなくてはならない物となりました。

やがて、軽量が利点であったはずの腹巻も「」、「頬当」、「籠手」(こて)、「臑当」(すねあて)、「佩楯」(はいだて)などが揃う重武装となります。それでも大鎧よりも実用性が高かったことから、上級武士達にも着用されるようになりました。

その後、腹巻はさらに進化し、背中の引き合わせ部分の隙間を防御するための「背板」(または臆病板:敵に背を向けることを想定して作られたため)が付けられます。また、「小札」(こざね)の長さを短くすることで、鎌倉時代までの甲冑と比べて、胴の丈が10cmほど短くなりました。

重要文化財に指定された腹巻

色々縅腹巻

色々縅腹巻

南北朝時代から室町時代にかけてよく用いられた「色々縅腹巻」(いろいろおどしはらまき)の中には、重要文化財に指定されている物もあります。山口県防府市にある「毛利博物館」では、「毛利元就」(もうりもとなり)所用の腹巻を展示。

また島根県松江市にある「佐太神社」には、「尼子経久」(あまごつねひさ)が武運長久(ぶうんちょうきゅう:武人としての命運が長く続くこと)を祈って奉納したと伝わる腹巻が所蔵されています。

南北朝時代に活躍した主な武将

足利尊氏

足利尊氏

足利尊氏

室町幕府の初代征夷大将軍であり、南北朝分裂のきっかけを作った人物です。南北朝合一は、孫の足利義満の時代に実現しました。

足利尊氏が甲冑を着て馬に乗っている絵画として有名なのが、「京都国立博物館」(京都府京都市)が所蔵する「騎馬武者像」です。

京都守屋家の旧蔵品だったため、他の足利尊氏像と区別する意味合いから、「守屋家本」とも呼ばれています。

騎馬武者像は、「松平定信」(まつだいらさだのぶ)が編纂した「集古十種」(しゅうこじっしゅ)で、足利尊氏の肖像として紹介されたことから一般的に広く知られるようになりました。しかし、昨今の研究結果により、この像は別人ではないかという説が出てきたため、2000年(平成12年)頃以降の教科書では足利尊氏の肖像ではなく、単に騎馬武者像として紹介しています。

国宝にも指定されている「足利尊氏公白糸褄取威之大鎧」(あしかがたかうじこうしろいとつまとりおどしのおおよろい)は、足利尊氏自らが京都府亀岡市にある「篠村八幡宮」に奉納したと伝えられる大鎧です。その後、明治時代末期に京都からアメリカに流出し、現在はニューヨークにある「メトロポリタン美術館」が所蔵。黒漆塗りの小札に白糸の褄取(つまどり:袖や草摺、しころの片側の端を斜めに色を変えていって威すこと)により、きらびやかな仕上がりです。

また、弦走り(つるばしり:胴の正面の部分)には、「不動明王絵韋包」(ふどうみょうおうえがわづつみ)が施してあります。

新田義貞

新田義貞

新田義貞

新田義貞」(にったよしさだ)は、足利尊氏のライバルとされる武将です。もともとは、東国の一御家人でしたが、鎌倉幕府を滅亡させ、後醍醐天皇による建武の新政の実現に対し、足利尊氏と共に貢献しました。

しかし、足利尊氏が建武の新政から離脱したあとは、後醍醐天皇により事実上の南朝側の総大将に任命されたことで、北朝側の足利尊氏と対立。1338年(延元3年/暦応元年)、「藤島の戦い」で非業の死を遂げます。

「伝新田義貞着用の甲冑」は、戦国時代の1527年(大永7年)、「炬口城」(たけのくちじょう:現在の兵庫県洲本市)城主の「安宅駿河守」(あたぎするがのかみ)が、新田義貞が着用していた甲冑を兵庫県洲本市の「炬口八幡神社」に奉納。ただし、兜など一部分は、奉納された当時の物ではなく、のちの時代に作られたということが判明しています。一般公開は、年1回の春祭りの日です。

新田義貞のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

南部信光

「南部信光」(なんぶのぶみつ)は、南朝側の武将として活躍しました。

1367年(正平22年)に、甲斐国(現在の山梨県)を平定した褒美として、「後村上天皇」(ごむらかみてんのう)から「白糸威褄取鎧」(しろいとおどしつまどりよろい)を与えられたとされています。これは、南北朝時代を代表する大鎧で、白糸を卯の花に例えて「卯の花縅」(うのはなおどし)とも呼ばれていました。

外側から紅糸、紫糸、黄糸、萌黄糸、薄紫糸などで褄取を行ない、端正で上品な甲冑として仕上がっています。のちに南部信光の子である「南部光経」(なんぶみつつね)が、1411年(応永18年)、「秋田合戦」に出陣する際に青森県八戸市にある「櫛引八幡宮」(くしひきはちまんぐう)で戦勝祈願を行ないました。その後、勝利を収めたお礼に奉納し、現在も国宝として所蔵されています。

室町時代はどんな時代だったか

動乱の時代を経て訪れた室町時代ですが、前期は大きな争いがなかったため、絵画や茶道などの様々な文化が生まれました。しかし、室町時代も後期になると、「応仁の乱」により再び戦乱の世の中となり、やがて戦国時代へ突入。戦術の変化と共に甲冑も発展を遂げます。

室町時代の概要

約60年に亘る南北朝の戦いを終息させた室町幕府3代将軍の足利義満は、京都の室町に「花の御所」と呼ばれる壮麗な邸宅を建てます。そこで政治が行なわれたことから、のちに「室町幕府」と呼ばれました。足利義満が日本を治めてからは大きな戦乱もなく、伝統的な公家文化と、禅宗の影響を受けた武家文化が組み合わされた北山文化や東山文化などが花開きます。

また、西日本から関東地方へ伝搬した二毛作の技術や牛馬を使った耕作、水車などを利用した灌漑(かんがい)施設の整備、肥料の発達などにより農業の生産力が向上。さらに、中国との日明貿易が盛んになり、各地で高級織物の生産など手工業が広まっていったことで、経済的にも発展を遂げました。

ところが、1467年(応仁元年)に勃発した応仁の乱により、京都を主戦場として全国で11年にも亘る長い争乱が起こり、室町幕府が衰退。「馬上戦」だった戦闘の形式は「徒歩戦」に再度変わっていき、全国各地で戦国大名が群雄割拠する戦国時代へと突入します。

室町時代に使用された甲冑の特徴

縅し方に変化

素懸縅

素懸縅

室町時代に起こった甲冑の大きな変化のひとつは、縅し方が簡素になったことです。

「縅し」とは、「札板」(さねいた:甲冑を構成する板)を糸で縦に繋いでいくことを指し、これにより甲冑の伸縮性と強度を高め、防具としての役割を果たすことができます。

平安時代以降は、甲冑を構成する基本的な板の小札が用いられ、「毛引縅」(けびきおどし)が伝統的に行なわれてきました。

しかし、南北朝時代になると間隔を粗くした上に、ところどころ縦に2筋ずつ並べる簡単な威し方である「素懸縅」(すがけおどし)が出てくるようになります。室町時代末期には、素懸縅が毛引縅と並ぶほど、一般的な縅し方になりました。

板札にも変化が

縅し方以外には、小札にも変化が現れます。従来の小札のように、札を半分ずつ重ねるのではなく、札の4分の1程度を合わせる「伊予札」(いよざね)が用いられるようになったのです。

さらに室町時代の末期になると、たくさんの小札を横1列に綴じて、1段分とする代わりに、1枚の板をそのまま1段とする「板札」(いたざね)が多く用いられるようになりました。

大量生産と費用の削減が可能に

縅し方を簡略化し、さらに板札を利用することで手間がかからない分、それまでの甲冑制作と比べて大幅な費用削減と量産化を進めることに成功。

また、南北朝時代から室町時代前期にかけては、腹巻や一部の胴丸で、「韋包」(かわづつみ)の技法が取り入れられるようになりました。

韋包とは、胴の表面を「綾」(あや:麻を芯にして畳んだ絹織物)や「熏韋」(ふすべがわ)で覆い隠すという技法。これにより、傷んだ小札を集めて綴じ付けても形が崩れずにすみ、戦闘で壊れた甲冑が再利用できるようになったのです。

甲冑を奉納した将軍

足利義政

「足利義政」(あしかがよしまさ)は、室町幕府の8代将軍で、3代将軍・足利義満が「鹿苑寺金閣」(京都府京都市北区)を建てたのに対し、「慈照寺銀閣」(京都府京都市左京区)を建てたことでも有名。華やかさが感じられる北山文化に対し、いわゆる「わびさび」の東山文化を発展させた人物です。

東山文化では、枯山水の代表的な庭園である「大徳寺大仙院庭園」(京都府京都市北区)や、絵画の「狩野派」(かのうは)や「雪舟」(せっしゅう)などが知られ、その他にも茶道や華道などが足利義政の時代に生まれています。

文化的な貢献度が高い一方で、後継者問題がきっかけとなって応仁の乱へと発展。結果的には、室町幕府の権力を弱体化させてしまいます。ひいては、京都の町を衰退させることになったため、政治的能力が低いという評価をされることが多い将軍です。

島根県出雲市の「出雲大社」(いづもおおやしろ)で所蔵されている国指定の重要文化財「赤糸威肩白鎧」(あかいとおどしかたしろよろい)は、紅白の縅糸が大きく目を引く甲冑で、足利義政によって奉納されました。

大きな特徴は、胴丸の技術が採用されていることで、「胸板」(前胴の最上部にある金具)の幅が広く、「背溝」(せみぞ:後胴にある背筋に沿ったくぼみ)がある点です。この特徴からも、室町時代に大鎧から胴丸・腹巻へ移行される際の過渡期に使用されたことが見て取れます。

まとめ

大きな争いが起きた南北朝時代と、応仁の乱をきっかけとして突入した戦国時代においては徒歩戦による戦が多かったために、軽くて動きやすい甲冑の需要が高まり、胴丸や腹巻などが発達しました。

この時代の甲冑については、動きやすく、かつ身を守るためにはどのような様式が適しているのか、試行錯誤を繰り返した創意工夫が表れており、興味をかき立てられます。

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